英雄王を影から支える暗殺者
人体で、一番きれいな箇所は心臓である。
あらゆる亜人種は、心臓を破壊されれば生命活動を維持出来ない。
同じ意味においては脳髄も捨て難い。が、こちらはおおよそ硬い頭蓋に守られている。眼窩、耳腔、鼻腔といった“穴”も存在するが、首関節のおかげで的が動きやすく、その穴を通すことが困難だ。よって、脳髄は心臓に及ばない。
私の職務において、対象からの速やかなる命の剥奪は、万事において――いや、全てにおいて優先さるべき命題だ。
だが――
いま目の前にする化け物は、そういった私の信条を嘲笑うかのような存在だった。
魔王竜ガル=シス――この世を滅ぼすと預言された恐るべき怪物。並の城塞より遥かに巨大な体躯と頑強さを持ち、人の身の丈より長大な牙がぞろりと並ぶ顎からは、形ある物全てを溶解させる死霧息〈デスフォッグブレス〉が吐き出される。
暗殺者の職業である私の得物といえば、短刀と刀子、鋼線に毒吹き矢といったところだ。人間サイズの敵に対する殺傷力は高いが、小山のような竜が相手では悲しいほどに無力である。
茫然と立ち尽くす私の肩を、女戦士が掴み後ろへ押しやる。
「ぼーっとしてんじゃないよっ! あんたはどうせ役に立たないんだから後ろに下がってな!!」
そう言い捨てると、女戦士は大盾を構えて前へ出る。
不意に、強い風が吹いた。
魔王竜ガル=シスが大きく口を開き大気を吸い込んでいる。
「まずい! ブレスが来るぞ!!」
魔法使い〈スペルユーザー〉の警告に、女僧侶がいち早く反応する。
「任せて。神の加護よ、大いなる守りを!」
神聖魔法が効力を現し、私達の体が淡く発光する。
直後に襲って来た黒霧息〈デスフォッグブレス〉は完全に防ぎ切ったが、守りの加護も一瞬で消し飛んでしまった。
「そんな!?」
焦りの声を上げた女僧侶が、ふたたび加護の呪文を唱える。
「僕に任せてっ!」
異界から召喚された勇者殿が跳躍し、約束されし王威の剣〈エクスカリバーン〉を魔王竜の頭部に叩きつけた。
さらにそこから怒涛のような連撃を放つ。
ガル=シスから凄まじい苦悶の咆哮が上がる。その衝撃だけで異界の勇者殿は弾き飛ばされてしまう。
女戦士が素早い身のこなしで、地へ打ち付けられるところだった勇者殿を危うく抱き留める。
「くっ、なんて化け物なの!」
「いや、それでも確実に効いておるぞ」
「少しでいい、時間を稼いでくれ! 僕が一気にたたみかける」
勇者殿がエクスカリバーンを掲げ剣気を練り始める。
私は思わずその姿に見入ってしまう。
前大戦の英雄である王国騎士団団長から、絶人と称された勇者殿の剣技。その奥義であれば、魔王竜ガル=シスですら倒せるのではないだろうか。そんな希望が湧いて来る。
きっと勇者殿は、見事ガル=シスを討ち滅ぼすだろう。そして勇者殿は、王都へ凱旋すればすでに戴冠が決定されている身でもある。彼ならば必ずや良い王となるばずだ。
「ちょっと!」
女僧侶が立ち尽くしていた私を突き飛ばす。
「あんた、どうせ何も出来ないんだから勇者様の後ろにでも隠れてなさいよ。邪魔だわ!」
あまりの言い様に少しムッとしてしまうが、確かに暗殺者である私には、この場で出来ることは何もない。
言われるままに勇者殿の背後へ周る。そして、勇者殿の影から半身を乗り出し、大鎌を振り下ろそうとした影魔の首に鋼線を引っかけ釣り上げた。
高校生という聞き慣れない職業〈クラス〉についている異界の勇者殿は、頼もしくもあるが少し脇の甘いところがある。
そんな勇者殿の背後を護ることが、私に与えられた役割なのだ。
◆◆◆◆
私達はかなりの苦戦を強いられはしたが、勇者殿の奮戦により勝利を収めることが出来た。
私自身は実際のところ影魔と戯れているだけだったのだが、戦いの幕切れはあっけないとすら言えた。
勇者殿の最終秘奥義――王威の剣による終わることのなき壮絶な乱舞が終わりを告げた時、魔王竜ガル=シスの頭部は完膚無きまでに破壊し尽くされていた。
やはり、脳髄も捨て難い。
魔王竜討伐のしらせは、瞬く間に各地へと広まっていた。
王都への帰路、道行く先々では勇者殿を讃える民草の歓声が絶えなかった。
驚いたことに、勇者殿の次に多くの声援を受けたのは私だった。
裏方の存在であるこの身に贈られた謝意に、私は柄にもなく照れてしまう。
やはり民衆にも、暗殺者という職業のストイックさと、影に生きる悲哀が分かるのだな。浪漫である。――しかしこれには、女戦士と女僧侶から、忌ま忌ましげな顔をされてしまった。
二人は勇者殿の両側から腕を絡め歩いている。
こいつらと来たら、戦闘でこそ役には立つが、普段は勇者殿に色目を使いっぱなしの牝豚共だ。
今もまるで私に見せつけるかのように、アバズレ女戦士は勇者殿にしな垂れかかり、その豊満な体をこすりつけていた。
そして、聖職者らしからぬ露出度の高い衣をまとった淫乱僧侶も、こちらをちらちら見ながら勇者殿の耳元で何事かを囁いている。
きっと何か私の悪口でも言っているのだろう。なんせこいつらは普段から私に対し、やれ役に立たたないだの戦い方が姑息だなどと、悪意に満ちた雑言を投げつけて来るのだから。
忿懣やる方ない思いではあるが、あながち的外れでないところが悔しい。
それでも私は、暗殺者という職業に誇りを持っている。
私には私にしか成し得ない仕事があるのだ。
◆◆◆◆
その夜、私達は王都にも程近い森の野営地で一夜を過ごしていた。
すでに皆は寝静まり、小屋の中は深いしじまに包まれている。私も浅い眠りについていたのだが、微かな違和感で瞼を開いた。
異質な、気配がする。
闇の中で、空気すら揺らがせず歩を進める人影。完全にその存在感を断った同業者の気配だ。
私は音も無く立ち上がり、影の背後を取る。
闇夜の暗殺者は私に気づくことなく、凶刃を逆手に構え勇者殿の傍らへと移動した。
なるほど、と思う。
他の者には目もくれず、勇者殿を標的にするということは……その雇い主にもあらかたの想像が付く。
そこまで分かれば充分だ。
たとえ生かして捕らえたところで、何も口を割るまい。
もう生かしておく意味も無い。
私はそっと腕を伸ばし、今まさに勇者殿へ刃を振り下ろそうとする暗殺者の口許を塞ぐ。
「――――ッ!?」
暗殺者は、自らの背後に潜む何者かの存在に気づいた瞬間、人体で一番きれいな箇所を破壊され、その体を弛緩させた。
背に突き立てた短刀はそのままに、暗殺者が崩れ落ちて物音を立てぬよう、優しく抱き留める。
暗殺者は私の腕の中で一度だけ痙攣し、すぐに動かなくなった。
勇者殿の暗殺を謀った首謀者には心当たりがある。現在、王国の国政を預かるあのタヌキ――宰相だ。
おそらく、王都へ帰還すれば戴冠式を経て王位につくことが決まっている勇者殿を取り除き、王国を我が物にしようと考えたのだろう。前々からその兆候は感じ取っていたのだ。
私は後悔した。
不穏な動きありと察しながら、まさかここまで直裁的な手は打って来ないだろうと高を括っていたのだ。
だが、ある意味好都合でもある。
これは私の領分だ。
闇に跳梁し、邪魔者を排除する。
私のやり方で勇者殿をお護りすることが出来るだろう。
思わず笑い声が漏れそうになるのを慌てて飲み込む。
王都へ帰ってからの仕事が決まったのだ。
まずは粛正だ。勇者殿を亡き者にしようとする宰相一派に対する、大規模な血の粛正。
万難を排した上で、彼を王位につけてやるのだ。
――――だが、
その前に一仕事必要なようだ。
小屋を包囲していた気配が、その輪を狭めて来ていた。先遣で送り込んだ刺客がしくじったことを気取ったのだろう。
……五……六…………七人、だな。
森に潜む暗殺者は七名。
なかなか手練揃いのようだ……が、大した障害ではない。
日の出にはまだ時間もある。それまでにはすでに倒した者も含め、八つの死体を人目に付かぬよう処理することも可能だろう。夜の森は、死体を作るにも隠すにも立地としては都合がよい。
心優しい勇者殿を思い煩わせないためにも、暗殺者たちを闇から闇へと消し去る必要がある。それは、私が最も得意とする所業だ。
大きく息を吸い、肺に酸素を溜め込み横隔膜の位置を下げる。肺の許容量を増し、緩やかに息をはき呼気を殺す。そして、腰に差した二本の短刀を抜き放つ。
小屋を囲む者達に見せてやろう。
勇者殿の勇壮な剣舞と比べれば華やかさには欠けるが、黄泉路を辿る者しか目にすることの叶わない死演舞を、とくとご覧に入れて進ぜよう。
私は扉を押し開き、外気にべっとりと張り付く闇の中へ踏み出した。まったく殺気を発さぬ優秀な暗殺者たちと舞い踊るために。
◆◆◆◆
私が自らの仕事を終えた頃には、すでに辺りも明るくなってきていた。
小屋へ戻ってみると皆も起き出していて、淫乱僧侶が不機嫌そうにしている。
「ちょっと! 一人で勝手にどこへ行ってたのよ。夜の見張りはあなたの仕事でしょ!」
「そうよ、戦闘ではほとんど役に立たないんだから、数少ない出来る仕事をサボらないで欲しいわね」
アバズレ女戦士もきつい口調で厭味と蔑むような視線を飛ばして来た。
私が無視を決め込んでいると、すかさず老魔法使いが仲裁に入る。
「これこれ。お前達、さすがに口が過ぎるぞ」
「そうだよ。戦闘では的確な援護をしてくれるし、いつも力になってくれてるのを僕は知ってる」
勇者殿も私の味方だ。淫乱僧侶とアバズレ女戦士に絡まれるたび庇ってくれる。でも二人は、それが余計カンに障るようだ。
なんとか勇者殿の気を引こうとはしているが、物事の本質を見抜くことが出来る彼を篭絡することは出来ないだろう。
第一、勇者殿にはすでに結婚を約束した愛する人が居るのだから。
「あれ? その血……怪我をしたの!?」
勇者殿が私の右手を見て驚きの声を上げた。
……しまった。返り血には気をつけていたのだが、得物から伝った血が手の甲に付着していたようだ。
「えっ……と……これはその……」
思わぬ不手際によい言い訳が出てこず、私は後から考えると羞恥で卒倒してしまいそうなことを言ってしまう。
「あ……そう、今日は多い日なんです。二日目ってやつです」
「え…………あっ!?」
純心な勇者殿は一瞬意味が分からなかったようだが、すぐに思い当たったらしく気まずそうな顔でうつむいてしまった。
「もう! ばっちい小娘ねっ」
アバズレだが面倒見のよい女戦士が、私の手を布で拭いてくれる。
「今日中には王都まで行く予定なんだからね。途中で倒れたりしたら許さないんだから!」
淫乱だが根は優しい僧侶が回復魔法をかけてくれる。
結果的に仮病を使ってしまった私は、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「あの、よく分からないけど……女の子のそうゆうのって凄くつらいんでしょ。僕、体力だけはあるから、よければおぶって行くよ」
勇者殿が私の前で背を向け、片膝を床に付ける。
いまさら嘘とも言えなくなってしまい、私はその好意に甘えさせてもらった。
決して逞しいとは言いかねるが、意外と広い背に身を預ける。
勇者殿がどんな顔をしているのか、この位置からでは見えない。しかし、黒髪からのぞく耳が真っ赤に染まっていることから、だいたいの予想は付く。
ふと、そんな勇者殿の正直な反応に、私の中で悪戯心が芽生えてしまった。
赤くなった耳たぶに唇を寄せ、息をはきかけるように囁く。
「私、重くはございませんか?」
「い、いえ、そんな! とても羽毛のようです」
「では、筋張っていて骨が当たったりして痛くはないですか?」
「とんでもないですっ、姫のお体は感触も羽毛のようですごく……」
言いよどみ、勇者殿は前屈みになって腰をもじもじさせた。
耳が敏感なのか、私の言葉で押し潰された乳房を意識してしまったのか……
勇者殿は心根だけではなく、体の方も正直なようだ。
「さあ、急ぎましょう。王都へ戻れば姫と勇者様の婚礼ですじゃ。その後には戴冠の儀も控えているのですからの」
―英雄王を影から支えた暗殺姫―完―