第一話
何処---
気が付いたらどこかの建物の中で泣いていた。なぜ泣いていたのだろうか。ただ何かに怯えていて、その何かがとても怖かったのは覚えている。
そうか、怖くて泣いていたのか。何が怖かったのだろう。もしかしたらそれも分からず泣いていたのかもしれない。
さびしい、さびしいと言いながら。
……ああそうだ。やっと思い出した。「寂しい」のが怖かったんだ。一人になるのが、離れ離れになるのが怖くて泣いていたんだ。その時のおれもその事に気付いたんだ。それで寂しくなるのが嫌で、周りを見渡したら
「すまない、怖がらせたか?」
誰かが声を掛けてきた。
その声はとても優しくて、とても安心できて、なぜかとても……嬉しかった。そして子どもの勘なのか、おれは気付いた。
あ、神様だ…と
出雲国---
「あ~、疲れた。」
さっきまで知り合いの武家の道場に行って鍛練をやっていたせいで体中がミシミシいっている気がする。
「ちょっと、信弘!なんで先に帰るのよ。」
後ろから声が聞こえてきたので振返ってみると、黒い長髪をなびかせながら走ってくる巫女姿の少女がいた。ちなみに信弘とはおれの名前である。
「待ってくれたっていいじゃない。」
幼馴染の静香だった。気付いたらもう十年以上の付き合いになっていた兄姉のような関係だ。
「だってお前話してたけん、邪魔したら悪いなと思ってな。」
「それでも普通待っているものでしょ。家同じなんだから一緒に帰ってもいいじゃない。」
「家が一緒だけんって一緒に帰らなくても良いと思うがな。」
子供のころ杵築大社にいたおれを引き取ってもらった時から、おれは静香の家に世話になっている。
ちなみに静香の父親は杵築大社の神職で、出雲国造様に仕えている。静香も杵築大社の巫女で、おれも一応手伝い程度だが大社で働いている。
「何でよ?昔からいつも一緒に帰ったじゃない。」
言われてみれば確かにいつも二人で出かけてた気がする。おかげで他の子達と遊びに出かけた覚えがない。が
「昔は昔、今は今だ。」
「なによ。いじわる」
何か不満そうだが気にしない。てか、年頃の女子が頬脹らますな。
「しかし何でお前着いてきたんだ?鍛錬しないのに。」
「も~、父様にあんたを見とくようにって言われたって何回言えばいいのよ。」
「あ~、何か言ってた様な気が。けど暇じゃなかったか?ずっと見てるだけだったろ。」
「別にそうでも無いわよ。玉もいたし。」
玉とは道場の師範の娘で、まだ十歳だが将来は美人になるだろうと巷で噂になっている子だ。
「それに信弘がぼこぼこにされるのを見るのも面白いしね。」
「悪かったな、弱くて。」
ふてくされたようにすると静香は笑いながらごめん、ごめんと言ってきた。
そんな風にいつもの様に他愛ないことを話しながら帰っていた。いつも通りに過ぎていくと、おれがそう思った時だった。
「…ねえ、信弘最近なんか元気ないんじゃない?」
と静香が心配そうな表情をしながらいきなり聞いてきた。
「なんだよ、藪から棒に?」
「……何かそう見えたから。」
「そうか?」
「うん。今日も何となく上の空だったし。何かあったの?相談にのるわよ。」
……自分ではいつも通りに振る舞っているつもりだったんだがな。
「なんでもない。ただ今朝見た夢が悪かっただけだ。」
ま、それでも言う訳にはいかないが。
「……どんな夢見たのよ?」
「山にいたら大量の蜘蛛に襲われた夢。」
蜘蛛という単語に静香の顔がさっと青くなった。おれはそれに気付かないふりをして続ける。
「あれは怖かった。ただの蜘蛛じゃないんだぞ。おれより一回り位大きいせで、気持ち悪さが何倍にもなっててな。そんなのが何十体、何百体も八本の足をカサカサいわせながらこっちに向かって来るんだ。」
静香はヒッと後ずさった。目には心なしか涙が少し見えるような気がする。
「しかもな、逃げようとしたら足に蜘蛛の糸が絡まって逃げられなくなって、そうして近づいた蜘蛛の目に睨まれてそのまま…」
「もうイヤ~~!!!」
ついに静香は我慢出来なくなったようで、悲鳴をあげながら走って行った。
「怖がらせ過ぎたか…」
静香は蜘蛛が昔から大の苦手だった。指先ほどの小さな蜘蛛でも見ただけで涙目になって逃げていく。その後慰めるのにどれだけ苦労したことか。そう考えるとさっきのはただの作り話とはいえ、良くあそこまで耐えたものだ。
「こりゃ、後が大変だ…。」
ハハと乾いた笑いが出る。しかしいつも一緒とはいえ、静香に気づかれ、あまつさえ心配させちまうとは。こりゃほんとに疲れてるかもな。
「時が来たか…」
ぽつりと出たこの言葉が教える。あの時の約束を果たす時が来たと。
「まあその前に、目先の問題か」
言えないとはいえ、心配してくれたのに悪い事しちまった。下手したらしばらく話をきいてくれないかもしれん。何とか謝らねーと。
---森山家の屋敷
「ただいま」
「おかえりなさいませ~。信弘様、また静香様泣かせましたね。」
「げ、泣いてた?」
「寸前ぐらいでした。」
この人は千代さん。たしか三つぐらい年上で結構気さくに話しかけてくれるここにお手伝いに来ている人だ。まあ気さく過ぎて先輩の松さんによく叱られているが。
「全く。ほどほどにしないと嫌われてしまいますよ。気を付けてくださいね。」
「気をつけるのはあなたでしょ。」
げっ…と千代さんが後ろを見ると、そこにはどう見ても怒っている年配の女性、松さんがいた。
「おかえりなさいませ、信弘様。」
「ただいま。」
「大旦那様がお待ちでしたのでお部屋にお向かいになってください。」
「幸隆様が?」
「はい。急ぎ来るようにと。」
何の用だろうか…。もしかしたら…いや、考えても仕方ないか。
「分かった。すぐ向かうよ。」
「だめですよ信弘様、先に静香さまのところに…。」
「あなたの口の出すことではありません。あなたには私から話があります。」
「あ、松さんそんな~。信弘様助けて~。」
松さんに引っ張られて行く千代さん。まあ、いつものだが。
「今度は何やったんだろ…。」
この前は味噌と塩を間違えたんだっけ。どうやって間違えたかは今でも謎だ。
「っと、早く向かわないと。」
静香には悪いがおれは先に幸隆様の部屋に向かった。…ほんと、なんて謝ろう。結構あいつ、根に持つからなー。
---
幸隆様の部屋の前に来て、一呼吸した。この部屋の前に来るといつも緊張する。子供の頃からここに来るとしたら叱られるか、勉強するかのどちらかだったからだろうか。
「幸隆様、信弘です。」
「入れ。」
返答の声は年相応の落ち着きを持っていると同時に威厳にも満ちていた。
「失礼します。」
襖を開けると、部屋には一人の老人がおられた。森山家先代当主、森山幸隆様だ。白髪、しわの目立つ顔ですでに七十を超えておられるはずなのにそれを感じさせない威厳をこちらに思わせる見事な風格だ。子供の頃より幸隆様は色々してくださった。学を教えて頂いたり、道場、知り合いの武家で剣術を学ばして頂いたり。幸隆様曰くこれらは後のおれを助けるからやっておけだそうだ。
「今日ここにお主を呼んだのは聞きたいことがあったからじゃ。」
「……何でしょうか。」
「お主、最近変わったことはないか。」
「変わったこととは?」
「たとえば…」
幸隆様は一呼吸あけられ
「夢じゃ。」
………気付かれている。誰にも、静香にでさえ話していないのに。
…いや、最初から分かっていたのかもしれない。おれは大社の本殿にいた所を見つかっている。本殿は帝も入ることを許されず、入れば厳罰を受けるという。しかしおれは罰を受けず、それ所か森山家に住まわしてもらっている。あの頃は気にしなかったが、今考えれば不可解なことだらけだ。しかし…
「いえ、特には…。」
おれは隠すことにした。心苦しいが、それでも知られたくなかった。知られる事で落胆されるのがおそろしかった。
「そうか…」
幸隆様は少し考えられて…
「信弘。」
「はい。」
「今から大社に向かうのだ。」
「今からですか?」
時刻はもう夕時。距離は近いとはいえ、帰る頃には暗くなってしまう。
「うむ。国造様と美保様にお会いしてくるのだ。」
「その必要はありませんよ。」
声は外から聞こえてきた。窓の襖をあけるとそこには一羽の雀がいた。
「美保様…」
宣託の現人神、美保様。無論この雀が美保様ではない。美保様の神威によるものだ。美保様は数多の生き物に自分の意思を乗せる事ができ、その神威により人々に言葉を伝える事が出来る。普段は美保関の美保神社におられるが最近はよく大社の方に来られていた。
「失礼ながら立ち聞きしてしまいました。」
「お気になさらず。して、どの様……もしや?」
「はい。先ほど宣託があり、お伝えしに来ました。」
美保様の宣託は、宣託の神『事代主神《ことしろぬしのかみ》』よりの予言。という事は…
「もうすぐです。」
---
幸隆様の部屋を出た後、おれは部屋で考え事をしていた。
「国造様にも神威が戻った。」
出雲国造様は天津神『天穂日命《あめのほひのみこと》』の子孫。国造様も現人神であられ神威を持たれている。しかし先代の国造様は五十年前の『讃岐の戦い』には向かわれなかった。なぜなら国造様の神威は先代まで発現しなかったからだ。
……しかし今の国造様には神威が現れた。
「必要な時が来たということか。」
それは世の中が荒れるということ。神の力は人には過ぎたるもの。その力を人に持たせなければならない程の何かが起きるということか。戦か飢饉か、人か自然か。
そして…
「内か、外か。」
今、この日本には多くの現人神がいる。それは出雲も同様だった。美保様や国造様を始め出雲の神の神威を受けた現人神がいる。それは、朝廷が、否、天津神が出雲の力の復活を許したということになる。天津神がそこまでするとなると、大神が仰られたようにおそらくこの国の建国史上最大の危機が訪れる。それこそ日本が滅亡するほどの。
そして、美保様の宣託…
「古王再来…」
古王。聞いたのはあの時以来になるか。
「まあ、今のおれが考えても仕方ないか。」
夕飯まで寝るか。稽古で疲れたし。
「……しかし、何か大切な忘れているような。」
しかもごく最近のことで…。
「ま、いいか。」
それを思い出す事無く、おれは瞼を落とした。