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天使が生まれた世界  作者: 大泉小


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1─1 2024年 硝子窓の向こうの群青

2024年

 潮の香りが、微かに廊下の漂白剤の匂いに混ざって鼻腔をくすぐる。

 海沿いに建てられたその総合病院は、建物のどこにいても、かすかに波の砕ける音が聞こえるような場所だった。長く白い廊下を歩くたび、キュッ、キュッ、と自分のスニーカーが床と擦れる音が、妙に大きく響いて耳に触る。紡は、無意識のうちにブレザーの裾をきゅっと握りしめていた。

 病室の重い木製の引き戸を開けると、そこに広がっているのはいつもと同じ、切り取られたような四角い空と、その下に横たわる鈍色の海だった。


 二〇二四年、初夏。

 五月の風は本来なら爽やかで、街を行く人々をどこか浮き足立たせるもののはずなのに、この部屋の空気だけは澱み、重く沈んでいる。窓外に広がるその景色だけが、時間の止まったようなこの空間で唯一、生きて動いているように見えた。遠くを白波がかすめ、一羽のウミネコが弧を描いて横切っていく。

「紡、学校は楽しい?」

 ベッドの背もたれを起こし、白いシーツに埋もれるようにして座っている母が、カサカサに乾いた唇を綻ばせて微笑んだ。

 かつてふくよかで、いつも台所で鼻歌を歌いながら料理をしていた彼女の輪郭は、ここ数ヶ月ですっかり削げ落ちてしまっていた。点滴の針が痛々しく固定された細い腕、皮膚の下の骨の形が露骨に浮き出ている鎖骨。病魔は容赦なく母の肉体を蝕み、その生命力を少しずつ、だが確実に吸い尽くしている。

「うん、楽しいよ」

 紡は努めて明るい、半トーン上げた声を意識しながら、ベッドの脇に置かれたパイプ椅子に深く腰掛けた。

 膝の上で握りしめた拳が、わずかに震えているのを母に悟られないよう、制服のスカートの皺を伸ばすフリをして誤魔化す。

「お友達は、できた?」

「うん、できたよ。みんな優しくて、毎日すごく充実してる。この前もね、クラスの女の子たちと放課後に新しくできたカフェに寄って、限定のパンケーキを食べたんだから。写真、今度見せてあげるね」

 喉の奥がちりりと焼けるような感覚を覚えながら、紡は淀みなく言葉を紡いだ。存在しない友人、行っていないカフェ、撮影すらしていないスマートフォンの画面。

 いつからだろう、こんなにも滑らかに、顔色一つ変えずに嘘をつくことができるようになったのは。


 高校に入学してからの数ヶ月、紡の日常は「楽しい」という言葉からは最も遠い場所にあった。

 新しい環境、新しい人間関係。最初の一歩を少しだけ踏み誤った。ただそれだけのことだったはずなのに、気づけば教室での紡の居場所は消えていた。

 朝、教室のドアを開けた瞬間にピタリと止む話し声。背中を向けるクラスメイトたち。廊下ですれ違いざまに、わざとらしく聞こえよがしに囁かれる悪意の数々。「ねえ、あの子ってなんか変じゃない?」「なんか暗いよね」「話しかけてもテンポ合わないし」。

 教科書が隠されたわけでも、机に落書きをされたわけでもない。ただ、そこに「存在しないもの」として扱われる静かな地獄。それが紡の日常だった。

 けれど、そんな現実を、余命いくばくもない母の耳に入れるわけにはいかなかった。

 母の病状は、もう治療の段階を過ぎ、緩和ケアへと移行している。医師からは「今年の夏を越せるかどうか」と、静かに告げられていた。ただでさえ自分の身体のことで苦しんでいる母に、娘がいじめられているという心労まで背負わせるわけにはいかない。

 母を安心させるためだけの、優しい嘘。それは面会を重ねるごとに洗練され、今や紡の完璧な仮面となっていた。

「そう、よかった……。紡は昔から引っ込み思案だったから、お母さん、それだけがずっと心配だったの。良いお友達に恵まれて、本当に本当によかった」

 母は安堵したように息を吐き、穏やかな眼差しで紡を見つめた。その純粋な喜びの表情が、かえって紡の胸をナイフのように抉る。罪悪感が濁流となって押し寄せ、呼吸が苦しくなる。


 ふと壁の掛け時計に目をやると、短い針はすでに面会時間の終了を告げようとしていた。長居をすれば、母の体力を奪ってしまう。それに、これ以上嘘を重ねることに、紡の心が悲鳴をあげ始めていた。このままここにいたら、嘘の重みに耐えかねて、本当のことを叫び出してしまいそうだった。

「お母さん、もう帰るね。明日の予習もしなきゃいけないし。またすぐ来るから」

「そう。勉強も大切だけど、無理はしちゃだめよ。気をつけて帰るのよ、紡」

 紡は立ち上がり、ベッドの上の細い手をそっと握りしめた。

 驚くほどに痩せ細り、まるでお調子者の悪戯のようにもろくなってしまった手。カサカサとした皮膚の感触が、母の老いを、そして死が近づいていることをリアルに伝えてくる。だけど、その中心にある芯のような温もりだけは、紡が幼い頃から知っている、泣いた時に涙を拭いてくれた母の体温そのものだった。

 ゆっくりと、その温もりが指先から離れていく。

 紡は寂しさと、押し潰されそうな胸の痛みを振り払うように微笑み、「じゃあね」ともう一度言って、病室のドアを静かに閉めた。

 ピシャリとドアが閉まった瞬間、紡の顔から笑顔が消えた。大きく一つ息を吐き出し、壁に背中を預ける。

 病室の前のネームプレートには、母の名前が冷たく書かれている。その文字をじっと見つめた後、紡は重い足取りで歩き出した。


 エレベーターを降り、一階のエントランスホールに出ると、それまで静まり返っていた世界が一気に騒がしくなった。

 高い天井のロビーには、診察を待つ高齢者の低い話し声や、会計を呼び出す機械的なアナウンスが響き渡っている。薬局の独特な匂い、自動ドアが開閉するたびに流れ込む生ぬるい外気。

 その雑音の中で、紡の身体が不自然に強張った。

 視界の端に、強烈な違和感を持つ色彩が飛び込んできたからだ。

 見慣れた、緑を基調としたチェックのスカート。白のソックスに、指定のスクールバッグ。それは、紡が毎日嫌々ながら身にまとっている、あの高校の制服だった。

 紡は反射的に柱の影に身を隠した。心臓がドクン、と大きく跳ねる。

 恐る恐る視線を向けると、そこには二人の女子生徒がいた。

 一人は、点滴のスタンドを片手で支えながら、病院のレンタル用と思われる水色の入院着を着ている。制服のスカートだけを入院着の下に穿いている歪な格好だ。見覚えがあった。同じクラスの三笠だ。先週あたりから「盲腸で入院する」とクラスのLINEグループで騒がれていたのを思い出す。

 そしてその隣で、制服のままパイプ椅子に腰掛け、大声をあげて笑っているのは、同じくクラスの中心グループにいる女子生徒、矢野だった。お見舞いに来ているのだろう。手にはコンビニの袋と、流行りのファッション雑誌が握られている。

「ウケる、マジで? じゃあさ、来週の球技大会、三笠出られないじゃん」

「そうなのよー! 絶望なんだけど。でもさ、暇だから院内探検してたら、結構若いイケメンの看護師さんいてさー」

 二人の声は、静かな病院のロビーで妙に浮いていた。周囲の高齢者たちが眉をひそめて見ているが、彼女たちはそんな視線など一向に気にする様子もない。自分たちの世界がすべてであり、世界の中心にいると信じて疑わない、あの教室での傲慢な態度そのままだ。

 紡は冷や汗が額を伝うのを感じた。

 どうしてこんなところで会ってしまうのだろう。世界は広いのに、なぜ自分の逃げ場所はこうも簡単に侵食されてしまうのか。

 もしここで見つかったら。学校での「透明人間」としての扱いが、さらに悪化するかもしれない。それとも、新しい格好の噂のネタにされるだけか。

「ねぇ、あれって古山じゃない?」

 矢野の声が、鋭く空間を切り裂いた。

 紡は息を止めた。柱の影に隠れたつもりだったが、移動しようとした一瞬の隙を見られたらしい。

「ほんとだ。えっ、何? 古山って病気なの?」

「さあ? いっつも暗い顔してるし、どっか悪いんじゃないの? てか、何で制服のままいんの? ウケるんだけど」

 甲高い、悪意の混じった笑い声が、広いエントランスの天井に反響して紡の鼓膜を刺した。

 彼女たちにとって、クラスの浮き殻である紡が病院にいるという事実は、心配の対象などでは断じてない。ただの、退屈な日常を刺激する格好の「暇つぶしの燃料」に過ぎないのだ。明日になれば、教室で「ねえねえ、昨日病院で古山見たんだけどさー」と、尾ひれをつけて言い触らされるに違いない。

 紡は俯き、彼女たちと視線が絶対に交わらないように歩行速度をあげた。

 床だけを見つめる。視界に入るのは、誰の物かもわからない無数の靴と、白い床のタイルだけ。

 心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝って制服のシャツを濡らしていく。耳の奥で、ドクドクと自分の血流の音がうるさいほどに鳴り響いていた。早くここから消え去りたかった。自動ドアを通り抜け、あの鈍色の海が見える外へと飛び出したかった。

「古山さん……古山紡さん!」

 背後から響いた、よく通る鋭い女性の声に、紡は最初、それが自分のことだと気づかなかった。

 いや、気づきたくなかった。自分の名前が、この最悪な空間で大声で呼ばれたという事実を拒絶したかった。

 偽名を使ってこのまま走り去り、世界の果てまで逃げ出したい衝動が頭をもたげる。しかし、足がすくんで動かない。ここで走れば、余計に目立つ。

 紡は、錆びついた人形のように、恐る恐るゆっくりと振り返った。

 そこに、少し息を切らせて立っていたのは、総合受付のカウンターから飛び出してきたと思われる、白い白衣を着た若い医療事務の女性だった。彼女の手には、数枚のプラスチックカードが握られている。

「診察券、待合室の椅子に忘れていましたよ。これ、お母様の。次回からまた使いますから、無くさないように気をつけてくださいね」

 女性は親切心からの笑みを浮かべ、紡にそれを差し出した。

「あ……あ、りがとう、ございます……」

 受け取ったプラスチックのカードが、指先で小さく震えた。

 医療事務の女性が「お大事に」と言って受付に戻っていく。

 紡が恐る恐る振り返った先では──案の定、先ほどの女子高生たちが、獲物を見つけた猛獣のような目を輝かせてこちらを見ていた。

 いや、猛獣というよりは、もっとタチの悪い、他人の不幸を娯楽にする見物人だ。まるで滑稽な見世物でも見たかのように、お互いの肩を叩き合いながらケラケラと笑っている。

「ねえ、聞いた? 『お母様の』だって。古山のお母さん、ここに入院してんの?」

「マジかー。てか、フルネーム『つむぎ』って言うんだ。ウケる、名前だけは可愛いじゃん」

 ひそひそ話のつもりなのだろうが、静まり返ったロビーでは、その悪意に満ちた言葉が面白いほどによく聞こえた。

 フルネームを大音量で晒された恥ずかしさと、隠し通したかった聖域──母の存在──を土足で踏みにじられたような惨めさが、一気に紡の顔を真っ赤に染め上げる。頭に血が上り、視界がかすむ。

(どうして……どうして私ばかりが、こんな目に遭わなきゃいけないの?)

 母の前で必死に作り上げてきた「楽しい学校生活」という優しい嘘の仮面が、足元から音を立てて崩れ去っていくような恐怖。もし彼女たちが母の病室を突き止めたら? もし母の前に現れて、本当のことをバラしてしまったら?

 想像するだけで、全身の血の気が引いていく。

 もう、一秒だってここにいることはできなかった。

 紡は脱兎のごとく、自動ドアの向こう側へと駆け出した。

 背後から「あ、逃げた!」という引きつった笑い声が聞こえた気がしたが、もう振り返らなかった。

 自動ドアが左右に開くと、初夏の生ぬるい風がぶわりと顔を包み込む。

 病院の敷地を出て、海岸線へと続くアスファルトの道を、紡はただひたすらに走った。スクールバッグが激しく腰に当たり、痛みを訴える。肺が破れるのではないかと思うほどに呼吸が荒くなり、喉の奥が鉄の味で満たされる。

 やがて、人通りの途絶えた防波堤の影にたどり着いたとき、紡は力尽きたようにその場にしゃがみ込んだ。

 目の前には、どこまでも広がる鈍色の海。

 病室の窓から見たときは、あんなに綺麗に切り取られていた群青の世界が、間近で見ると、ひどく濁っていて、底知れない冷たさを湛えているように見えた。

「お母さん……」

 ぽつりと呟いた声は、激しい波の音にかき消されて誰にも届かない。

 嘘をつき続ける限界と、現実の圧倒的な悪意。その狭間で、十五歳の紡の心は、今にも壊れてしまいそうなほど激しくきしんでいた。

 手のひらの中に残る、母のあの細い手の温もりだけが、今の紡をこの世界に繋ぎ止める、唯一の蜘蛛の糸だった。


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