第2章 第29話:月曜日の絶対零度、最後の他人のフリ
月曜日の朝。ロンドンへの出発を今週末に控えたオフィスは、いつにも増して冷徹な現実感をもって俺の五感を刺激していた。
俺は人事部のデスクで、海外渡航者向けの最終チェックシートに一つずつレ点を書き込んでいた。
パソコンの画面に表示されたロンドン行きのフライトスケジュール、そしてデスクの足元に積まれた引き継ぎ完了済みの段ボール箱。これらが、この場所での俺の時間が残りわずか数日であることを無慈悲に告げている。
「相馬さん、お疲れ様です。ロンドン支社への最終挨拶状のドラフトですが、これで広報部側の確認も通りました。共有サーバーに格納してあります」
「ありがとう。確認するよ」
後輩から渡されたクリアファイルを受け取り、画面に視線を戻す。
すでに俺の頭の中は、迫り来るタイムリミットへの焦燥と、毎晩繰り返されるあの時間へのドギマギとした感情で奇妙な飽和状態を迎えていた。
ふと顔を上げると、フロアを横切る千歳の姿が目に入った。
一寸の隙もないネイビーのジャケット、知的にまとめられたハーフアップの髪。
彼女は広報部のチーフと並んで歩きながら、手元のタブレットに視線を落とし、淡々と今週のプレスリリース配信のスケジュールを確認しているようだった。
「――はい。海外配信分の時差調整はすべて完了しています。本日16時の便で予定通り配信いたします」
その声は涼やかで、どこまでもビジネスライクだ。
毎晩俺の部屋のキッチンに立ち、ピンクのエプロン姿で「玉ねぎは飴色になるまで炒めるの!」と息巻いている少女の面影など、そこには微塵も存在しない。
千歳がふと足を止め、こちらのフロアへと視線を走らせた。
――目が合う。
距離にして十メートルほど。オフィスを飛び交う電話の呼び出し音やキーボードを叩く雑音の向こう側で、俺たちの視線がまっすぐに交錯した。
千歳はいつも通り、表情を一切崩さない。ただの「今週ロンドンへ赴任する人事部の相馬さん」に対する、極めて事務的で冷淡な一瞥。それだけを俺にくれると、彼女はすぐに上司の方を向き、そのまま廊下の向こうへと歩き去っていった。
すれ違いざまに視線だけで拒絶されるような、この徹底された「他人のフリ」。
その絶対零度の仮面の冷たさに胸を穿たれながらも、俺は知っていた。
彼女が今、どれほどのパニックをエプロンの下に隠し、どれほど不器用な大義名分を掲げて俺の部屋にやってきているかを。
昼間のオフィスで見せる完璧な赤の他人のフリと、夜の部屋で見せるエプロン姿の裏の必死さ。
その圧倒的なギャップに、俺の胸は締め付けられるような精神的狂瀾を抑えきれずにいた。
今週末には、俺はこの完璧なモラトリアムから強制的に連れ出される。
終わりの見えた砂時計の最後の砂が、音もなくオフィスに降り積もっていくような焦燥感の中で、俺は今日も、「完璧な他人のフリ」という名の、じれったい防壁を演じ続けるしかなかった。




