第1章 第2話:一歩跨げば、ただの幼馴染
メッセージの予告通り、きっちり10分後。
玄関のシリンダーが回る金属音が静かな部屋に響き、ドアが静かに開いた。
「うー、疲れたぁぁ……! 今日はマジで厄介なプレスリリースの修正が入って、脳みそ溶けるかと思った……!」
入ってくるなり、盛大なため息とともにバッグを玄関の床へ放り投げたのは、まぎれもない如月千歳だった。
ただし、そこにはオフィスで見せる「広報のエース」の面影は微塵もない。
ジャケットはすでに腕に引っ掛けられており、ブラウスの第一ボタンは外され、おまけにきっちりまとめられていたハーフアップの髪は、歩きながらヘアゴムを外したのか、少し乱れて肩に散らばっている。
「おかえり。相変わらず、玄関にモノをぶちまけるなよ。足の踏み場がなくなるだろ」
「いーの、ここは私の第二の実家なんだから。あー、ストッキング脱ぎたい……。蓮、ちょっと後ろ向いてて」
「向くかよ。自分の家でやれ」
「減るもんじゃなし、冷たい男友達ねぇ」
千歳は口を尖らせながら、ソファの背もたれにジャケットを雑に放り投げ、そのまま俺の隣にどさりと倒れ込んできた。
ふわりと、彼女が愛用している少し甘い香水の匂いが、オフィスの無機質な空気感を塗り替えていく。
「はい、ご所望のビール」
「わーい! さすが蓮、気が利く!」
冷蔵庫から出しておいた冷えた缶ビールを渡すと、千歳は嬉しそうに目を輝かせた。
プシュッ、と小気味いい音がして、彼女は勢いよくビールを喉に流し込む。
「ぷはぁーっ! 生き返る……! やっぱり仕事終わりの一本はこれに限るね!」
「……お前、さっきの会議での『如月さん』はどこに行ったんだよ。あの完璧なビジネススマイル、今ここでやってみせろよ」
「無理。あれは1時間あたり数千円の労働対価として会社に提供してる『仮面』だから。プライベートまであんな顔してたら、顔の筋肉が引きつって死んじゃう」
千歳はソファの背もたれに頭を乗せ、天井を見上げながらゲラゲラと笑った。
その姿は、お世辞にも上品とは言えない。足を少し崩し、ビール缶を両手で包み込むように持っている姿は、ただの「だらしない男友達」そのものだ。
「でもさ、今日の会議の蓮も、なかなか『人事部の相馬さん』っぽくてカッコつけてたじゃん。『こちらの配慮が不足しておりました』なーんて、プライベートじゃ絶対に言わないセリフ、よく噛まずに言えるよねー」
「仕事だからな。お前みたいに、裏表が激しすぎる奴と一緒にするな。俺は社内でも比較的、素の延長線上でやってるつもりだ」
「嘘ばっかり。社内じゃ『冷静沈着で、何でも見抜く人事部の若手ホープ』って言われてるくせに。家じゃこんなに口が悪くて、テレビ見ながらポテチ食べてるの、会社の女の子たちに暴露してあげようか?」
「やめろ。営業妨害だ」
俺が呆れたように言うと、千歳は「ひゃはは」と悪戯っぽく笑った。
この距離感。この空気。
これが、俺と千歳が物心ついたときから続けてきた「幼馴染」の日常だ。
どんなに会社で他人のフリをしていようが、夜、この部屋に集まれば、瞬時にして十数年来の時間へと引き戻される。
俺にとって千歳は、何でも話せる気楽な「男友達」のような存在であり、千歳にとっても俺は、唯一「仮面」を脱いでダラけられる安全基地なのだろう。
「ねえ、蓮。お腹空いた。なんか食べるものないの?」
「コンビニで買ってきた唐揚げとサラダならある。あと、冷凍のチャーハンでも炒めるか?」
「チャーハン食べたい! 蓮の作るチャーハン、パラパラで美味しいから好き」
「はいはい。お前は座ってビール飲んでろ」
俺はソファから立ち上がり、キッチンのほうへと向かった。
背後で、千歳が「やったー!」と子供のように歓声を上げる声が聞こえる。
フライパンを火にかけ、冷凍の米を投入する。パチパチという小気味いい音が響く中、俺はふと、リビングの千歳に視線をやった。
彼女はテレビのリモコンを操作しながら、本当にリラックスした様子で足を伸ばしている。
その横顔を見ていると、時折、不思議な感覚に囚われることがあった。
仕事では、人の表情の機微や、声のトーンから「その人間が何を考えているか」を高い確率で見抜くことができる。それが人事部員としての俺の最大の武器であり、自負でもあった。
なのに――。
こんなに近くにいる千歳の考えていることだけは、時々、霧がかかったように全く見えなくなる。
「男友達」としての完璧な防壁。
その裏側にあるかもしれない感情を、俺は探ろうとして、いつも無意識に思考にストップをかけていた。近すぎる関係だからこそ、下手に踏み込んでこの居心地のいい空間を壊したくない、という臆病な心理が働いているのかもしれない。
「蓮ー、チャーハンまだー? お腹と背中がくっつきそうなんだけど」
「今やってる。せっかすな」
俺は雑念を振り払うようにフライパンを大きく煽った。
この時の俺は、まだ知らなかった。
俺たちのこの「変わらない日常」に、あまりにも巨大で、あまりにも残酷な「タイムリミット」が、すぐそこまで迫っているということを。




