おっさん、呼び出される
朝。アパートの窓から白い光が差している。四月も半ばになると、朝の空気がぬるくなってくる。布団を蹴って起き上がると、右手にまだ昨日のあの温かさが残っている気がした。——気のせいかもしれない。
顔を洗って、歯を磨いている途中に玄関のドアが叩かれた。真凛だ。いつもの時間より二十分早い。
ドアを開けると、真凛の顔が険しかった。スマホを耳に当てたまま、口だけで「すみません」と言って、通話を続けている。
「——はい。はい。本日中に。……分かりました。こちらから連絡します」
電話を切った。真凛がスマホを握ったまま、数秒黙った。肩が上がっている。息を吐いて、肩を落として、こちらを向いた。
「篠塚さん。管理局の特別調査課から出頭要請です」
「出頭」
「昨日の八階層の件を受けて、C-087の探索許可を一時凍結する可能性があると」
「凍結って——入れなくなるってことか」
「S級以上の危険性が認められた場合、管理局の判断で個人探索権を一時停止できる規定があります。ダンジョン管理法の第四十七条。めったに使われないやつです」
「あー……面倒くさい」
歯ブラシをまだ持っていた。口の中が泡だらけだ。洗面台に戻ってうがいをした。蛇口の水が冷たい。
「面倒くさいで済む話じゃないです」
真凛が上がり框に座った。靴を脱がずに、スマホの画面を操作している。目つきが変わっていた。スフィアの企画室にいた頃の——仕事モードの目だ。
「これ、裏でスフィアが動いてる可能性があります」
「スフィアが?」
「スフィア・コーポレーションは管理局の外部委託先の最大手です。ダンジョンの安全調査、探索データの分析、装備の認証——管理局の業務の三割がスフィアの委託。つまり、管理局の判断にスフィアの意向が影響しうる関係にある」
真凛がスマホの画面をこちらに向けた。組織図のようなものが表示されている。矢印が何本も交差していて、俺にはよく分からない。
「昨日の配信で八階層の映像が六万人に流れました。古代文明型の紋様、脈動する円形紋様。これが外部に出た以上、スフィアが動かないわけがない」
「つまり——スフィアが管理局を動かして、俺のダンジョンを取り上げようとしてる」
「断定はできません。でも、タイミングが良すぎる。八階層の映像が出た翌朝に出頭要請。準備してなきゃこの速さは無理です」
「……そういうの、得意だったよな。あの会社」
真凛がスマホを閉じた。唇が一文字に結ばれている。
俺はインスタントコーヒーを淹れた。安い粉末を湯で溶く。苦い。砂糖はまだ買っていない。マグカップの取っ手が指に当たる。欠けた陶器の断面がざらりとしていた。
「朝飯、食ってからにしよう」
「……はい」
吉田食堂は省略した。時間がない。コンビニのおにぎりを二つ買って、アパートの前で立ったまま食べた。鮭とおかか。海苔が湿気ていて、指に張りつく。真凛はおにぎりを一口齧って、残りを鞄に入れた。食欲がないんだろう。
園田にはLINEで事情を伝えた。『了解です。装備の調整を進めておきます』と返ってきた。
*
管理局。都内の官庁街にある、六階建ての地味なビル。外壁がくすんだベージュで、看板が小さい。通り過ぎそうになるくらい目立たない建物だ。
入口のセキュリティゲートを通って、三階の特別調査課に案内された。廊下が長い。蛍光灯の色が白くて、目が痛い。リノリウムの床を革靴が鳴らす音だけが響いている。
オフィスに通された。狭い。デスクが三つ並んでいて、そのうちの一つに書類が積まれている。窓の外にはビルの壁しか見えない。
担当者が入ってきた。中年の女性。髪をきっちりまとめていて、黒縁の眼鏡をかけている。名刺を差し出された。村瀬。特別調査課主任。
「篠塚さん、お忙しいところすみません」
声は落ち着いている。事務的だが、不快ではない。だが、目の奥が観察している。こちらの反応を量っている目だ。
「C-087について、探索者からの報告と配信映像を基に調査を進めています」
村瀬がファイルを開いた。八階層の紋様の画像がプリントされている。俺の配信のスクリーンショットだ。
「S級以上のダンジョン反応が確認された場合、安全確保のために一時凍結措置を取ることがあります。これは探索者の安全を守るための——」
「報告って——俺が電話したやつですか」
村瀬の手が一瞬止まった。
「六階層の結晶のことを電話で報告したとき、折り返しもなかったですけど」
村瀬がわずかに目を逸らした。ペンを持つ指が、ほんの少し力を込めた。
「……外部からの情報提供もありました」
「外部。スフィア・コーポレーションですか」
村瀬は答えなかった。ファイルに視線を落としたまま、二秒ほど沈黙した。答えないということは、そういうことだ。
「篠塚さん。現時点では凍結ではなく、調査のための一時制限です。配信も探索も当面は継続できますが——」
「できるんですね?」
「当面は」
「じゃあ、続けます」
村瀬が何か言いかけた。口が開きかけて、閉じた。
代わりに真凛が一歩前に出た。
「村瀬さん。管理局として深層の安全調査を優先されるのは当然です。私たちも協力します」
真凛の声は静かだった。だが、トーンが変わっていた。吉田食堂でおいしいと言うときの柔らかさはどこにもない。企画室で五年間、予算と人事と社内政治を相手にしてきた人間の声だ。
「ただ、探索権はダンジョン管理法に基づいて篠塚に法的に帰属しています。一時凍結には第四十七条二項の要件——すなわち管理局独自の安全調査による危険度の確定が必要で、外部企業からの情報提供のみでは法的根拠になりません」
真凛がスマホの画面を村瀬に見せた。法令のテキストが表示されている。今朝の電話から、ここまでの短時間で条文を確認してきたのか。
「また、第四十七条三項により、一時凍結を行う場合は探索者に対して十四日前の書面通知が義務付けられています。本日の口頭での要請は、手続き上の瑕疵に当たる可能性があります」
村瀬の目がわずかに細くなった。眼鏡の奥で、何かを計算している。真凛を見て、俺を見て、また真凛を見た。
沈黙が長かった。壁の時計が秒を刻む音だけが聞こえる。
「……分かりました。当面は現状維持で」
村瀬がファイルを閉じた。指先が少しだけ強く、紙を押さえた。
「ただし、調査は継続します。八階層以深の探索データは管理局にも共有してください」
「もちろんです」
真凛が頭を下げた。俺も頭を下げた。何に頭を下げているのかよく分からなかったが、こういう場では下げておくものだろう。
*
管理局を出た。四月の日差しが目に刺さる。ビルの谷間を風が通り抜けて、スーツの裾を揺らした。官庁街は人が多い。みんな足が速い。
「助かった。俺一人だったら押し切られてたな」
「篠塚さんは交渉事が苦手ですから」
「苦手っていうか、面倒なだけだけど」
「同じことです」
真凛が笑わなかった。いつもなら呆れた顔で半笑いを返してくるのに、今日は口元が硬いままだ。歩きながらスマホを操作している。
「篠塚さん。スフィアは本気です。超深層の価値に気づいてる。古代文明型のダンジョンが都内のB級の下に眠っているとなれば、企業として確保しにくるのは当然です」
「そうだろうな」
「これから圧力は強くなります。管理局を使ったのは最初の一手。次は——メディアか、業界団体か」
真凛がスマホを閉じた。立ち止まって、こちらを見上げた。目の下に隈がある。昨夜、寝てないんじゃないか。
「対策を立てます。法的な根拠の整理と、世論の確保。配信の視聴者が多いのは、ここでは武器になります」
「……配信が武器ねえ」
俺はただ潜りたいだけなんだが。
そう言おうとして、やめた。真凛の横顔が険しい。自分の仕事として、この問題を引き受けている顔だ。余計なことを言うと邪魔になる。
駅までの道を並んで歩いた。昼時で、どこかのビルの地下からカレーの匂いが上がってきた。腹が鳴った。真凛が横目でこちらを見て、少しだけ口の端が上がった。
——まあ、飯を食おう。それから考えればいい。
*
夜。布団の中でスマホを開いた。
```
【速報】管理局がおっさんのダンジョンを凍結しようとした模様【スフィア暗躍か】
445: 名無しの探索者
おっさんが管理局に呼び出されたらしい
今日は配信なし 初めてじゃないか?
448: 名無しの探索者
>>445
スフィアが裏で動いてるって情報が複数のソースから出てる
管理局の委託関係を調べたら真っ黒だよこれ
452: 名無しの探索者
リストラしておいて取り返すどころか管理局使って潰しにくるの?
スフィアさんさあ……人としてどうなの
456: 名無しの探索者
>>452
企業に人としてとか求めんな
利益構造の話をしろ
459: 名無しの探索者
法的にはおっさん側が正しいはず
ダンジョン管理法47条の凍結要件、外部企業の申し入れだけじゃ満たせない
管理局が独自調査で危険度を確定しないと手続きに入れない
462: 名無しの探索者
>>459
法律ニキ詳しすぎて草
お前何者だよ
465: 名無しの探索者
真凛ちゃんが管理局との交渉で法的根拠ぶつけて凍結阻止したって本当?
有能すぎない??????
468: 名無しの探索者
>>465
元スフィア企画室出身だぞ
社内政治のプロがそのままおっさんの参謀になってるんだ
スフィアは自分で育てた人材に殴り返されてる
472: 名無しの探索者
企業vs個人の構図になってきたな
これもう探索配信の域超えてるだろ
476: 名無しの探索者
おっさん応援の署名運動がXで始まってるぞ
ハッシュタグ「#おっさんのダンジョンを守れ」がトレンド入りしかけてる
480: 名無しの探索者
>>476
署名とかおっさん絶対困惑するやつ
483: 名無しの探索者
おっさんは多分この掲示板見てないだろうけど
応援してるぞ
486: 名無しの探索者
>>483
泣くな
489: 名無しの探索者
スフィアの株価が今日1.2%下がってて草
世論を敵に回すとこうなる
```
見てるよ。たまに。
スマホの画面の光が天井に反射している。築三十年のワンルームの、いつものシミ。
応援されてるとか、署名がどうとか、そういうことは——あんまり考えないようにしている。考えたところで、俺にできることは変わらない。ダンジョンに潜る。報酬結晶を拾う。飯を食う。それだけだ。
スマホを閉じた。画面が暗くなると、右手の温かさがまだ残っていることに気づいた。昨日の八階層の、あの紋様の体温。一日経っても消えない。
明日は潜れるらしい。
なら、潜る。




