二人の配信
真凛が加わって最初の配信日。
朝六時半。真凛がアパートのドアを叩いた。早い。俺がまだ歯を磨いている段階で、もう配信のスケジュール表とコメント管理のマニュアルを作ってきていた。
「篠塚さん、今日のスケジュールです。朝食、七時。ダンジョン入場、八時。配信開始、八時十五分。帰還予定、正午。午後はデータ整理」
「……朝からすごいな」
「普通です」
吉田食堂に二人で行った。引き戸を開けると出汁の匂い。いつもの匂い。ただ、隣に人がいる。それだけで、いつもの匂いが少し違って感じる。
じいさんがカウンター越しにこちらを見た。
「おっ。遥一、連れがいるのか。珍しいな」
「元同僚です。一緒に仕事することになった」
「久我真凛です。お世話になります」
真凛が背筋を伸ばして頭を下げた。じいさんの目がわずかに細くなった。
「いい子じゃん。朝定食二つな」
焼き鮭と味噌汁と白飯と漬物。真凛の前に定食が置かれた。真凛は両手で味噌汁の椀を持ち上げて、湯気の匂いを嗅いでから口をつけた。
「おいしい」
声が柔らかかった。昨日の卵かけご飯のときと同じ声。じいさんが嬉しそうにへらっと笑った。
俺は焼き鮭に箸をつけた。皮がぱりっとして、身がほぐれる。白飯と一緒に口に運ぶ。うまい。いつも通りの味だ。
*
C-087。配信準備。
真凛がカメラの位置を直してくれた。今まで俺のヘルメットにつけっぱなしだった三千円のウェアラブルカメラに加えて、胸元にサブカメラを追加した。ネットで急ぎ注文したらしい。二画面構成。メインカメラがダンジョンの景色を映し、サブカメラが俺の手元と足元を映す。
「これで画角が安定します。視聴者にはダンジョンの環境とリアルタイムの動きが同時に見えるので、臨場感が段違いです」
「へえ」
「『へえ』じゃないです。テスト配信いいですか」
「おう」
「画角よし。音声よし。魔力測定器のデータもオーバーレイで表示できるようにしました。——本番いきます」
配信開始。視聴者数:八千。開始直後でこの数字は異常だ。昨日までは開始時千くらいだった。
「おっさん探索者です。今日から助っ人が一人増えました。久我です」
「久我真凛です。コメント管理とデータ分析を担当します。よろしくお願いします」
『コメント:新メンバーきた!!!!!!!!!!!!!!!!!!』
『コメント:声かわいい 何者??????』
『コメント:おっさんの仲間? 彼女? 嫁??』
『コメント:>>3 元同僚って昨日の掲示板に出てたぞ 情報は正確にな』
『コメント:企画室出身とか有能確定じゃん 配信のクオリティ上がりそう期待』
『コメント:画面が二画面になってる!! すでに有能!!!!!!!!!!』
「彼女じゃないぞ。元部下だ」
「部下じゃなくて別部署です、篠塚さん」
「あー、そうだったか。企画室だっけ」
「……はい。五年間いました」
『コメント:おっさんの雑さよwwwwwwww』
『コメント:この掛け合いすでに好きwwwwwwwwww』
『コメント:真凛ちゃんのため息が聞こえた気がしたwwww』
五階層までを三十分で駆け抜けた。真凛が後方から環境データを取っている。携帯型の魔力測定器を持ってきていた。自腹で買ったらしい。中古だが、性能は十分だと。準備がいい。
六階層の結晶の間を通過して、七階層の通路に入った。空気が変わる。冷たく、重くなる。肌がぴりつく。
「篠塚さん、この階層の魔力濃度、五階層の三・二倍です」
「そうか」
「『そうか』じゃないです。これはA級ダンジョン相当の数値です。B級の下にA級がある時点で異常なんです」
「まあ、空気が重いとは思ってたけど」
『コメント:A級相当をB級の装備で普通に歩いてるおっさん』
『コメント:マジで何者なんだこのおっさん 数値でA級って言われてもピンときてないだろこれ』
『コメント:ピンときてないなこれ……』
『コメント:おっさんは数字に興味ないから真凛ちゃんの解説ありがたい 今まで何が凄いのか分からなかった層が理解できるやつだ』
七階層の奥。空気の密度がさらに増した。視界の端で、壁の紋様がかすかに脈動している。
気配を感じた。大きい。五階層のミノタウロスより、ずっと。空気の震え方が違う。
角を曲がると、広い空間に出た。天井が高い。暗闇の中に、巨大なシルエットが浮かんでいる。
蛇の下半身に人型の上半身。体長六メートル以上。暗い紫色の鱗が魔力灯を反射して、ぬらりと光っている。目が四つ。全部こちらを見ている。ラミアの上位種——ナーガだ。
「でかいな」
「篠塚さん、データ取りたいので少し離れ——」
ナーガの尾が空気を裂いた。
風圧が来た。砂利が舞い上がる。尾の先端が真凛のほうに向かっている。
間に入った。
剣で尾を弾く。手首に衝撃が走った。重い。五階層のミノタウロスの比じゃない。腕の骨が軋むような感触。弾いた尾が壁に当たって、石が砕けた。
二撃目。横薙ぎ。しゃがんで回避。頭上を尾が通過する風圧で髪が揺れた。懐に飛び込む。六メートルの巨体の腹が目の前にある。鱗の隙間——ある。腹と腰の境目に、鱗が薄い箇所がある。
突き上げた。
ナーガが身をよじった。傷口から紫色の光が漏れる。鳴き声が空間に反響した。甲高い、金属を擦るような音。
もう一歩。踏み込む。頭上から尾が振り下ろされた。右に跳んだ。着地と同時に、首の付け根を突いた。ここも鱗が薄い。二十年の経験が、弱点の場所を体に覚え込ませている。考える前に手が動く。
ナーガが崩れた。六メートルの巨体が重い音を立てて倒れ、塵になっていく。紫色の粒子が空間に舞った。
「……硬かった。腕がだるい」
右腕を振った。手首から肘にかけて、鈍い痛みが残っている。握って、開いて。大丈夫。折れてはいない。
視聴者数:三万八千。
『コメント:は??????????????????????????????????』
『コメント:A級相当のナーガをソロで……三十秒で……????????????????????????????????????????????????????????』
『コメント:あの回避→踏み込み→弱点直撃の流れ見たか?? 人間の動きじゃないぞあれは』
『コメント:おっさん「硬かった」しか言ってなくて草草草草草草草草の草』
『コメント:真凛ちゃんがフリーズしてるwwwwwwwwwwwwww』
『コメント:そりゃフリーズするわ 目の前で六メートルの化物が三十秒で塵になったんだから』
『コメント:おっさんの動き、フレーム解析班が検証するぞこれ 多分人間の限界値超えてる』
真凛が横で立ち尽くしていた。魔力測定器を持ったまま、画面も見ていない。口が半開きになっている。
「久我?」
「……いえ。すみません。何でもないです」
真凛の手がかすかに震えていた。怖かったんだろう。当然だ。六メートルのナーガに尾を振られたら、誰だって怖い。
「すまん。もっと早く前に出るべきだった」
「いえ——それより、篠塚さん、今のは——」
「ん?」
「……何でもないです。報酬結晶を回収しましょう」
何か言いかけたが、やめた。目が潤んでいたような気がしたけど、暗いから分からない。俺は気にしないことにした。
*
帰り道。夕暮れの住宅街を二人で歩いた。
電柱の影が長く伸びている。どこかの家から夕飯の匂いがする。カレーかな。
「篠塚さん」
「ん」
「配信、楽しいですか」
「楽しくはないけど——飯代は稼げてるから、まあ、悪くない」
「そうですか」
真凛が少し笑った。横顔が夕日でオレンジ色に染まっていた。
「何だよ」
「いえ。篠塚さんらしいなと思って」
「らしいって何だよ」
「何でもないです」
吉田食堂の暖簾をくぐった。出汁の匂い。じいさんがカウンターの向こうから顔を出した。
「今日は鯖の味噌煮だ」
二人分の定食がカウンターに並んだ。鯖の味噌煮。甘辛い煮汁が皿に溜まっていて、鯖の身がふっくらしている。箸を入れると、とろりと崩れた。白飯に乗せて食べる。味噌の甘さと鯖の脂。うまい。
真凛が「おいしい」と言うたびに、じいさんが嬉しそうにしている。真凛は食べるのが丁寧だ。一口ごとに箸を置いて、よく噛んでいる。
——配信準備のルーティンに、もう一人分の朝定食が加わった。それだけのことだ。
カウンターに二人分の茶碗が並んでいる。さっきまで一つだったものが、二つになった。
それだけの、はずだ。




