掲示板が燃えている
結局、六階層の入口で引き返した。
通路の奥は暗かった。ヘッドライトの光が十メートルで途切れて、その先はただ黒い。壁の材質が五階層までと明らかに違っていた。滑らかな黒い石に、指の腹でなぞれそうなほどくっきりした紋様が刻まれている。触れると冷たい。石というより、金属に近い感触。
モンスターの気配はなかった。ただ、奥に進むほど体にかかる圧が増していく。足の裏が床に吸いつくような感覚。重力が変わったわけじゃない——空気そのものが重いのだ。一歩ごとに、胸の中の空気が押し出されるような圧迫感。
B級ダンジョンの空気じゃない。知っている。この重さは。
「……今日はここまでにしとこう」
配信を止めて、ダンジョンを出た。夕方の空が白く曇っていた。路地裏の空気が薄くて軽い。普通の空気だ。自分がどれだけ重い空気の中にいたのかが、外に出て初めて分かる。
*
翌朝。吉田食堂。
アパートから歩いて三分の定食屋だ。商店街の端っこで、看板の字がかすれている。引き戸を開けると、出汁の匂いが鼻を包んだ。昆布と鰹節。五年間変わらない匂いだ。カウンター七席。奥のガスコンロの上で、やかんが湯気を上げている。
店主の吉田のじいさんが一人で回している。七十過ぎ。白髪を後ろで束ねて、手拭いを肩に掛けている。朝定食は五百円で、味噌汁と焼き魚と白飯と漬物がつく。
「おう、遥一。今日は早いな」
「うん。昨日から無職だから」
「あらま」
じいさんは焼き魚をトングでひっくり返しながら、眉一つ動かさなかった。この人はいつもこうだ。俺が風邪で寝込んだ時も、スフィアの仕事で三日間ダンジョンに籠もった時も、顔を出せば「おう」と言うだけだった。
「まあ、飯は食えるんだろ」
「今のところは」
「なら大丈夫だ」
味噌汁がカウンターに置かれた。白い湯気が立っている。椀を両手で持って、口をつけた。白味噌。出汁が濃い。舌の上を旨味が滑っていって、胃の底にじんわり沈む。朝一番にこれを飲むと、昨日がどんな日だったとしても、今日はまだやれるような気がしてくる。
焼き魚は鯵。皮がぱりっとしていて、身がほろりとほぐれる。大根おろしに醤油を垂らして、白飯と一緒に口に運ぶ。うまい。
箸を動かしながら、スマホを見た。配信アプリの通知が異常な量だ。画面を下にスクロールしても終わらない。
フォロワー数——二千三百。
「……は?」
「どした」
「いや、なんか……増えてる。すごく」
「何が」
「配信の、その、見てくれる人が。昨日ゼロだったのに」
「へえ。人気者じゃん」
「いや、俺が人気なわけじゃ——」
再生回数を確認した。昨日の配信。十二万回再生。
十二万。
嘘だろ。視聴者二人から始めたんだぞ。何が起きた。
じいさんが漬物の皿を追加してくれた。きゅうりの浅漬け。
「おかわりいるか」
「……もらう」
白飯をおかわりして、漬物で食べた。ぽりぽりと音がする。歯触りのいい音。頭の中がぐちゃぐちゃでも、飯を食ってる間は落ち着く。
*
アパートに戻って、掲示板を開いた。
「ダンジョン配信総合」のスレッドに、昨日の配信のサムネイルが貼られていた。暗い通路にヘッドライトの光が差し込んでいる画像。再生ボタンの上に「12.3万回再生」の文字。
```
【速報】底辺B級ダンジョン配信のおっさん、ボスを一突きで倒して地図にない階層を発見してしまう
1: 名無しの探索者
昨日たまたまTLに流れてきた底辺配信なんだが
この「おっさん探索者」ってやつがヤバい
B級ミノタウロスを一突きで塵にしたあと
ボス部屋の奥に地図にない通路を見つけやがった
3: 名無しの探索者
見た。は?ってなった
5: 名無しの探索者
B級ボス一突きって最低でもA級上位の実力だぞ
モーション解析したやつがXに上げてたけど
抜刀から突きまで0.3秒だってさ
8: 名無しの探索者
>>5
0.3秒はさすがに盛ってるだろ……
11: 名無しの探索者
>>8
フレーム解析のスクショ見たか? 盛ってない
しかもこのおっさん「B級ボスってこんなもんだろ」って言ってる
自分で何やったか分かってない
15: 名無しの探索者
それより最後の通路だよ
管理局の公式マップで五階層最下層って出てるダンジョンに
六階層以降がある
これ大発見じゃね?
18: 名無しの探索者
>>15
ヤバいよ。未発見の深層なんて、S級以上のダンジョンでも滅多にない
B級扱いのダンジョンの下に隠れてたとか聞いたことない
22: 名無しの探索者
おっさんの正体が気になる
プロフ見ても猫アイコンだけで情報ゼロ
自己紹介欄も空白
26: 名無しの探索者
配信中の身のこなしを見る限り、現役のプロだな
剣の抜きが異常に速い
しかも無駄がない。手首の角度が毎回同じ
十年二十年の実戦経験がないと、ああはならん
31: 名無しの探索者
>>26
わかる。一番ヤバいのはモンスターの処理が呼吸みたいに自然なとこ
考えて動いてないんだよあのおっさん。体が勝手にやってる
本人が自分の速さに気づいてないのが一番怖い
36: 名無しの探索者
ダンジョン管理局のデータベースを調べたやつがおる
C-087の管理者が最近変更されてる
旧:スフィア・コーポレーション
新:篠塚遥一(個人)
40: 名無しの探索者
>>36
スフィアって探索大手だろ
なんで個人に管理権が移った?
43: 名無しの探索者
>>40
最近リストラしたって話が社員の愚痴垢から漏れてる
探索部門の統廃合。ベテラン切りまくったらしい
47: 名無しの探索者
つまりこのおっさん
大手をリストラされて
底辺ダンジョンを退職金代わりに押し付けられた
元プロってことか……
50: 名無しの探索者
>>47
それで視聴者2人から配信始めたのかよ
……泣けるわ
54: 名無しの探索者
次の配信が待ち遠しすぎる
地図にない階層の続き、頼むぞおっさん
58: 名無しの探索者
俺もリストラ経験者だけどこのおっさん応援したくなる
会社にいらないって言われたやつが一人でダンジョン潜って
誰も知らなかった場所を見つけるって
フィクションかよ
62: 名無しの探索者
>>58
リアルタイムのノンフィクションなんだよなあ
```
読み終わった。
スマホを閉じて、テーブルに置いた。画面が暗くなる。部屋が静かだ。
掲示板の人たちが何を言っているかは、なんとなく分かる。でも——「A級上位の実力」とか、「0.3秒」とか、そういうのは分からない。俺はいつも通りに潜っただけだ。B級のボスなんて、スフィアにいた頃の朝の体操みたいなもんで、別に特別なことをしたわけじゃない。
腹が減った。冷蔵庫を開けたら、卵が一個だけ残っていた。
フライパンに油を引いて、卵を割る。白身がじゅっと音を立てた。白飯は朝炊いたのが残っている。卵かけご飯にしようかと思ったけど、目玉焼きにした。なんとなく。半熟に焼いて、醤油を垂らして、白飯に乗せた。黄身を箸で突くと、とろりと流れて飯に染みる。
食べた。うまい。卵はいい。安いし、うまいし、裏切らない。
明日もダンジョンに行こう。六階層の奥がどうなっているのか、気になっている。飯代は稼がないと。
掲示板のことは——まあ、気にしても仕方ない。気にしたところで、俺は俺だ。
あの通路の先に、何があるのか。それだけが、知りたい。




