おっさん、本気を出す
六階層の結晶に三回目の手を触れた日、八階層の奥壁が音もなく割れて新しい通路が現れた。九階層。壁の紋様はもはや模様ではなく文字だった。読めない。だが、意味があるものだと分かる。刻まれた線の一本一本に密度がある。
「篠塚さん、魔力濃度が五階層の十二倍です。S級ダンジョンの中層と同等——」
真凛の声がわずかに掠れていた。
「そうか」
「引き返しませんか」
「もうちょっとだけ」
通路を進んだ。空気が粘る。息を吸うたびに肺の中で空気が抵抗する感触。足の裏に伝わる床の振動が、歩くたびに強くなっていく。
九階層の最奥に出た。
広い。天井はヘッドライトの光が届かない。上に向かって暗闇が続いている。ドーム状の空間。八階層の紋様と同じ紫色の光が壁の隅々まで走っていて、空間全体がうっすらと明るい。
そして、空間の中央に——それがいた。
足が止まった。
匂いが先に来た。鉄。石。それから、何か生き物の体温に似た重い匂い。鼻の奥にまとわりつく。
竜だ。
いや——竜に近い、何か。四足歩行。体長は十メートルを超えている。全身を覆っているのは鱗ではなく黒い甲殻で、鈍い光沢がある。背中から突き出た角のような突起が紫色に発光していた。八階層の紋様と同じ色。こいつの体にも、あの紋様が刻まれている。
目が合った。
金色の瞳。二つ。こちらを見ている。動かない。呼吸もしていないように見える。ただ、見ている。
「…………でかいな」
足の裏に震動が伝わってくる。こいつの体温が床を通して届いているのか。それとも、心臓の鼓動か。
視聴者数:八万五千。
『コメント:竜じゃん!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!』
『コメント:B級ダンジョンの底に竜がいるって何の冗談??????????????????????????????????』
『コメント:おっさん逃げろ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!』
『コメント:>>3 逃げるべきなんだがこのおっさんの場合……』
『コメント:おっさんなら……おっさんなら……(祈り)』
『コメント:竜種はS級ダンジョンの最深部にしか出ないはず 管理局のランク設定が根本から間違ってる』
「篠塚さん、退避しましょう。この相手は——」
真凛の声を最後まで聞く前に、竜が動いた。
速い。
十メートルの巨体が一瞬で詰めてきた。前脚が天井まで上がって、振り下ろされる。風圧が先に来た。
横に跳んだ。着地。足裏に衝撃。
背後で床が砕けた。見なくても分かる。さっきまで立っていた場所が陥没している。石の破片が飛んできて、頬を掠めた。ぬるい。血か。
「……重い」
園田と真凛を背中に庇って、壁際まで距離を取った。竜がこちらを向く。金色の瞳。敵意——ではない。品定めしている。こいつは、俺を測っている。
もう一撃。前脚。今度は横薙ぎ。
しゃがんだ。頭上を風が通過する。髪が乱れる。甲殻の内側が見えた。首の付け根。腹との接合部。隙間が二ヶ所。
息を吐いた。肺の底から、全部。
走った。
竜の懐に飛び込む。甲殻の表面が視界いっぱいに広がる。黒い壁。硬そうな壁。近づくと匂いが強くなる。鉄と石と、もっと古い何かの匂い。
尾が背後から来た。空気を裂く音。首を傾けて回避。風圧で体が揺れた。左手で甲殻の突起を掴む。硬い。冷たい。指が滑りそうになる。握り込んで、体を持ち上げた。
首の付け根。甲殻の隙間。そこに、剣を差し込む。
手応え。
硬い。
今までのどのモンスターよりも、硬い。ナーガの鱗の比じゃない。剣が弾かれそうになる。手首に走る衝撃が、肘を通って肩まで届く。骨が軋む感触。
押し込んだ。
腕の力だけじゃない。肩を入れた。腰を回した。足の裏から床を蹴る力を、全部、剣先に乗せた。二十年間ダンジョンに潜り続けた体が覚えている。力の通し方。刃の角度。硬いものを貫くときの、骨の使い方。
刺さった。
竜が吼えた。
声ではない。振動だ。空間全体が震えた。壁の紋様が激しく明滅する。空気が波打って、肌を叩いてくる。耳の奥が痛い。
剣を引き抜いた。傷口から紫色の光が漏れる。血ではない。光だ。こいつの中に流れているのは、血じゃない。
跳び下りた。着地。膝がわずかに笑った。踏ん張る。竜がよろめいている。首を振っている。
——もう一撃。
走った。今度は下から。腹の接合部。甲殻の継ぎ目。さっき見えた隙間。
飛び込んだ。十メートルの巨体の腹の下に潜り込む。暗い。甲殻の黒が頭上を覆っている。重い。こいつの体重が空気を通して圧し掛かってくるような重さ。
見つけた。隙間。一点。
下から突き上げた。
全体重を乗せた。足が床から離れた。体が浮いた。剣が甲殻を貫いて、柄まで沈み込む。手に伝わる感触が変わった。硬さが消えて、ぬるい何かに到達した。
竜の動きが止まった。
金色の瞳がこちらを見下ろしていた。
敵意はなかった。怒りもなかった。
何か——納得したような。安堵したような。ずっと待っていた相手に、ようやく会えたような。
そういう目を、していた。
竜が塵になった。
黒い粒子が空間に舞い上がる。紫色の光を纏った粒子が、天井の暗闇に吸い込まれていく。壁の紋様の光が弱まる。静寂が戻ってくる。
ゆっくりと。
静かに。
音が消えた。
「…………つかれた」
剣を降ろした。右手が震えている。止まらない。左手で右手首を掴んだ。それでも止まらない。
肩がだるい。重い。腕が自分のものじゃないみたいだ。呼吸が荒い。鼻から吸って口から吐く。心臓がうるさい。こめかみの血管が脈打っている。汗が目に入って、しみる。
久しぶりだ。こんなに体を使ったのは。何年ぶりだろう。スフィアにいた頃のSランク応援でも、ここまでは——
いや、覚えてない。覚えてないくらい昔のことだ。
視聴者数——十万を超えていた。十二万三千。まだ増えている。
『コメント:………………………………………………………………………………』
『コメント:は??????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????』
『コメント:嘘だろ……………………………………………………………………………………』
『コメント:竜を……ソロで……??????????????????????????????????????????????????』
『コメント:人間じゃねえよこのおっさん……………………』
『コメント:元Sランク攻略者とかそういうレベルじゃないだろこれ』
『コメント:>>6 Sランクでも竜はフルチームで挑む相手だぞ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ソロで倒せる人間は日本に何人いるんだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!』
『コメント:おっさん「つかれた」しか言ってなくて草も生えない 笑えない 震えてる』
『コメント:手が震えてる……サブカメラに映ってる……おっさんも人間だったんだな……』
『コメント:泣いてる奴いるだろコメ欄に 俺は泣いてる まじで泣いてる』
『コメント:竜の最期の目を見たか あれ……敵意じゃなかった なんだったんだあれは』
真凛が横にいた。何も言わなかった。座り込んでいた。膝を抱えて、顔を伏せていた。肩が震えていた——泣いているのか、怖かったのか、分からない。聞かなかった。
園田が黙って水筒を差し出してくれた。キャップが外してある。受け取って、口をつけた。水。冷たい。喉を通っていく。胃の中に落ちる。
うまい。水がうまい。
「帰ろう」
「はい」
「飯食いたい」
「……はい」
真凛の声がかすれていた。
*
ダンジョンを出た。
夕暮れの空が赤かった。西の空が燃えるように赤くて、電柱のシルエットが黒い。住宅街の路地裏に立つと、空気が薄くて軽い。ダンジョンの中の重い空気と比べると、地上の空気は水みたいだ。
三人とも、しばらく無言だった。
吉田食堂。引き戸を開けると、出汁の匂い。いつもの匂い。じいさんがカウンターの向こうから顔を出して、俺たちを見た。何か察したのだろう。何も聞かなかった。
大盛りの白飯が三つ並んだ。焼き鮭。味噌汁。漬物。
箸を持った。右手がまだ震えていた。箸の先がかちかち鳴る。気にしないことにして、白飯を口に運んだ。
うまい。
噛んだ。飲み込んだ。もう一口。焼き鮭の皮をかじった。ぱりっとした食感。塩味が舌に広がる。味噌汁を啜った。白味噌の甘さが胃に沈んでいく。
体が食い物を求めている。細胞の一個一個が、カロリーをくれと叫んでいる。
大盛りの白飯を平らげた。じいさんが黙っておかわりを出してくれた。それも食べた。
箸を置いた。右手の震えが、いつの間にか止まっていた。




