リストラおっさん、底辺ダンジョンを押し付けられる
朝七時のアラームを三回止めて、三回目の沈黙のあとにようやく布団を蹴った。四月の朝の空気はまだ冷たくて、フローリングが足の裏に突き刺さる。
築三十年のワンルーム。天井に見慣れたシミがある。引っ越してきた日からずっとここにいる、古い知り合いみたいなやつだ。
顔を洗う。タオルがごわごわしている。柔軟剤を切らしていた。冷蔵庫を開けると、卵が二個と納豆が一パック。牛乳は賞味期限が昨日。鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。
「……まあ、いけるだろ」
篠塚遥一。四十二歳。独身。住所は杉並区のワンルーム。
今日でダンジョン探索大手スフィア・コーポレーション勤続二十年と三ヶ月——の、はずだった。
玄関の靴箱の上に封筒がある。一昨日届いた退職通知書。探索部門の統廃合に伴う人員整理。要するに、リストラだ。二十年やって、封筒一枚。まあ、しょうがない。会社だってボランティアじゃないし、俺だって別にあの会社を恨んでるわけでもない。ただ、なんというか——二十年か。長かったな、とは思う。
インスタントコーヒーを淹れた。安い粉。マグカップは取っ手が欠けている。ドリップなんて面倒なことは十年前にやめた。苦い。砂糖を入れたいが、砂糖もない。
スマホに通知。元上司の高梨部長。
『最終出社日の件。十時に本社ロビーで。引き継ぎの話がある』
了解、とだけ返して、コーヒーを飲み干した。
*
スフィア・コーポレーション本社ビル。新宿の高層ビルの四十二階。エレベーターの中が妙に静かだった。平日の朝なのに、誰ともすれ違わない。もう俺の居場所はここにはないのかもしれない——とか思うほど感傷的にはなれなくて、ただ、ロビーのソファに座って高梨を待った。
革のソファが尻に冷たい。空調が効きすぎている。
五分ほどで高梨が来た。五十代半ば。探索部門の統括だった男で、この二十年間の直属上司だ。顔色が悪い。この人も楽じゃないんだろう。
「篠塚、すまんな」
「お疲れさまです。座りますか」
「いや、手短に済ませる」
高梨が茶封筒を差し出した。退職金の書類かと思ったが、薄い。指で触っても、紙が一枚しか入っていない。
「退職金の件だが……正直、厳しい。探索部門の統廃合で予算が——」
「足りない」
「ああ」
知ってた。同期の連中がSNSのグループチャットで愚痴っていた。退職金は雀の涙だと。
「その代わり、と言うのも変な話だが」
高梨が封筒から取り出したのは、ダンジョン管理局のロゴが入った書類だった。青いインクの公印。
「個人探索権の譲渡書だ。ダンジョンC-087。都内のB級」
「B級」
「ああ。うちが保有してたが、統廃合で手放すことになった。篠塚、お前に渡す」
B級ダンジョン。AからSSSまであるダンジョンランクの中で、下から二番目。「素人には危険だが、プロには物足りない」。そういう場所だ。探索報酬も微々たるもので、大手企業がわざわざ保有するような物件じゃない。うちの若手が研修で使ってたくらいの、そういうダンジョンだ。
それを退職金代わりに寄越す、と。
「……つまり、押し付けですか」
「そう取られても仕方がない。だが、個人探索権は法的には資産だ。配信でもすれば多少の収入にはなる」
配信ね。最近流行りのダンジョン配信ってやつか。探索者がヘルメットにカメラをつけて、攻略の様子をライブで流す。人気がある配信者は月に数百万稼ぐらしいが——四十二歳のおっさんが今さら始めて、誰が見るんだっていう話だ。
「まあ、ありがとうございます」
「……すまんな、篠塚」
高梨の声のトーンが変わった。低く、少しかすれた。何か言いたそうな顔をしていた。俺の成績のこととか、本当は部門に残したかったとか、そういうことかもしれない。分からないけど。
俺は立ち上がった。
「二十年、お世話になりました」
それ以上は、お互いに言わないほうがいい。言ったら、たぶん面倒なことになる。
*
帰り道にコンビニで弁当を買った。のり弁。四百八十円。海苔が少し湿気ていて、白飯にぺたっと張りついている。アパートの狭い台所でレンジにかけて、立ったまま食べた。ちくわの天ぷらが妙にうまかった。
食べ終わって、譲渡書をもう一度テーブルに広げた。
ダンジョンC-087。所在地は杉並区の住宅街の外れ。B級。登録探索者数ゼロ。最終探索記録は三年前。
三年間、誰も入っていないダンジョン。
「……配信、か」
スマホで配信アプリをダウンロードした。アカウント登録。名前の欄で手が止まる。しばらく考えて「おっさん探索者」と打った。プロフィール画像は面倒だから猫のフリーアイコン。自己紹介欄は空白。
明日、行ってみるか。飯代くらいは稼がないと。
*
翌朝。六時半に目が覚めた。昨日より一回少なくアラームを止めた。
C-087の入口は、住宅街の路地裏にあった。ブロック塀と生垣に挟まれた狭い道の突き当たりに、古びたコンクリートの建物がある。外壁には苔がびっしりついていて、排水管が錆びている。入口ゲートの上に看板があった。
「ダンジョンC-087 管理:スフィア・コーポレーション」
ただし、「スフィア・コーポレーション」の部分にガムテープが雑に貼ってあって、その上にマジックで「篠塚遥一」と手書きしてある。字が下手だ。誰が書いたんだこれ。
管理室のカードリーダーに個人探索権のカードを通す。赤いランプが緑に変わって、ゲートがギギ、と軋みながら開いた。油切れだな。
ヘルメットにカメラを装着する。ネットで三千円で買ったウェアラブルカメラ。画質は期待するな。配信アプリを起動する。
『配信を開始しますか?』
「……よし」
親指でボタンを押した。
視聴者数:0。
「えー……おっさん探索者です。今日からB級ダンジョンC-087のソロ配信をやります。見てる人はいないと思いますが、まあ、よろしくどうぞ」
視聴者数:0。
まあ、そうだろうな。
腰の鞘から剣を抜いた。スフィアにいた頃の社用品の使い回しだ。刃は研いである。握ると手に馴染む。二十年握ってきた感触が、手のひらの皺に染み込んでいるような——いや、別にそんなポエムみたいなことは考えてない。ただの道具だ。
ダンジョンに入った。
*
中は予想通り地味だった。
石造りの通路。天井から垂れ下がった苔。魔力灯の薄暗い青白い光が、壁の凹凸に影を落としている。空気はひんやりしていて、わずかに湿っぽい。カビの匂い。それから、もっと奥のほうから——鉄と土が混じったような、ダンジョン特有の匂いが流れてくる。
二十年潜ってきた人間にとっては、通勤路みたいなものだ。この匂いで体が勝手にスイッチを入れる。肩の力が抜けて、足の運びが変わる。
一階層。通路の奥から、ぺたぺたという足音が近づいてくる。ゴブリンが三体。錆びた短剣を持って、キイキイ鳴きながら走ってきた。
「おう」
右手が動いた。
振り抜いた剣が空気を切って、三体の首が同時に落ちた。断面から緑色の光が散って、塵になる。ほとんど手応えがなかった。蝋燭の炎を指で摘まむような——そんな感触。
「……今日のゴブリンは脆いな」
足元に報酬結晶が三つ転がっている。小粒。五百円にもならないだろう。拾ってポーチに入れた。
視聴者数が動いた。0から1。
『コメント:え、今の何? 一振りで三体??』
「ああ、B級のゴブリンだからな。こんなもんだろ」
二階層。スケルトンが五体。骨の剣を構えて突っ込んでくる。横薙ぎに二体、返す刀で二体、最後の一体は踏み込みで突いた。全部合わせて、息を三回吐く間に終わった。
三階層。大型のオーク。こいつは少しだけ硬い。斧を振り下ろしてくるのを半歩横にずれて避けて、がら空きの脇腹を突いた。手首にわずかな衝撃。まあ、この程度だ。
四階層。ワイバーンの幼体。翼が邪魔だったので、翼膜を裂いてから首を落とした。体が勝手にやった。考えるより先に、手が最適な場所を知っている。二十年ってのは、そういうことだ。
肩が軽い。体が温まってきた。久しぶりにダンジョンの空気を吸って、体の奥のほうが喜んでいるような気がする。気のせいだろうけど。
五階層目。このダンジョンの公式最下層だ。
ボスの間。広い空間の中央に、巨大なミノタウロスが立っていた。体長四メートル。茶色い体毛。手には人の胴体より太い大斧。鼻息がここまで聞こえる。
「よっと」
ミノタウロスが咆哮した。空気が震える。大斧を振りかぶって、
——振り下ろすより先に、懐に入った。
四メートルの巨体の腹の下を駆け抜ける。牛脂の匂いが鼻をかすめた。背中側に回り込んで、腰と背中の継ぎ目——鎧の隙間と同じで、ここが一番柔らかい——に剣を突き立てた。
手応え。柔らかい。
ミノタウロスの動きが止まった。膝が折れて、四メートルの巨体がゆっくりと崩れていく。地面に倒れる前に塵になった。黒い粒子が舞い上がって、薄い光に溶けていく。
「おつかれさん」
視聴者数:2。
『コメント:は????????????』
『コメント:B級ボスを一突き???? 何が起きた???? このおっさん何者?????????』
「え? B級のボスってこんなもんだろ。——さて、報酬を回収して帰る……か……」
言葉が途切れた。
ボスの間の最奥。本来なら石壁があるだけの場所に——亀裂が走っていた。
いや、亀裂じゃない。
人ひとりが通れるくらいの幅の、暗い通路が、壁の向こうに続いている。通路の壁は五階層までの石材とまったく違う、滑らかな黒い石でできていて、見たことのない紋様が刻まれていた。
「……あれ」
腰のポーチからダンジョン管理局発行の公式マップを取り出した。折りたたんだ紙を広げる。C-087の断面図。一階層から五階層まで。ボスの間が最奥。その先は——ない。壁だ。地図に載っていない。
だが、通路はある。
空気が変わった。五階層までの空気は生温かくて、吸っても物足りない薄さがあった。だがこの通路の奥から流れてくるのは——冷たい。肺の奥にまで染みるような冷たさ。そして重い。密度がある。ずっしりと体にまとわりつくような、息をするだけで体力を使う類の空気だ。
B級ダンジョンの空気じゃない。
腕の産毛が逆立っている。これは——知ってる。この感覚。スフィアにいた頃、Sランクの応援で何度か感じた。高濃度の魔力が充満した空間に入ったときの、肌がぴりつく感覚だ。
「……なんだこれ。地図だと、ここで行き止まりのはずだけど」
視聴者数が跳ねた。
2。12。47。135。300——
スマホの画面の数字が、見ている間にどんどん上がっていく。
『コメント:おいおいおいおいおい』
『コメント:は?? 地図にない階層ってマジ??』
『コメント:このおっさん大丈夫か?? 引き返せ!!』
『コメント:管理局に通報しろって!!!!!!!!!』
『コメント:いや待て、このおっさんさっきB級ボス一突きで倒したぞ 何者だよ』
『コメント:未発見の深層……B級扱いのダンジョンに……嘘だろ……?』
『コメント:これリアルタイムで見れてる俺ら勝ち組じゃね???』
「……あー。とりあえず、入ってみるか。飯の前には帰りたいけど」
『コメント:飯!!!!!!!!!wwwwwwwwww』
通路に足を踏み入れた。黒い石の床が靴底に硬い。冷たい空気が頬を撫でる。ヘッドライトの光が通路の奥に吸い込まれていく。十メートル先から、もう光が返ってこない。
視聴者数:812。
奥から流れてくる冷気に、鉄錆に似た匂いが混じっている。ダンジョンの核に近い匂いだ。B級の、こんな浅い場所で嗅ぐ匂いじゃない。
足を進めた。靴音が通路に反響する。自分の呼吸が聞こえる。心拍が、わずかに上がっていた。
——俺はまだ気づいていなかった。
この配信が、翌日には再生回数十二万回を超えることも。掲示板が燃え上がることも。元いた会社の人間が、画面の向こうで顔色を変えることも。
俺はただ、通路の先に何があるのか知りたかった。二十年ダンジョンに潜ってきた体が、この空気を覚えていた。この奥に、何かがある。
腹が減る前に帰れればいいな、と思いながら、暗い通路の先へ歩いていった。




