50話 お知らせ(ジャンル変更について)
業務連絡です。
「文学ポンコツの観測者」だった私が、気づけば——
「構造をわかり始めた今」の自分になっていました。
この連載で私は、ずっと言ってきたつもりです。
構造ひとつで、人も、物も、作品も、見え方すら変わってしまう。
同じ出来事でも、枠が違えば意味が変わる。
結末の置き方ひとつで、途中の景色は別物になる。
……で、ここで気づきました。
それを論じてきた自分自身が、もう昔の「新人の観測者」には戻れない。
二週間。たったそれだけで、私はもう別人になってしまった。
「文学処女を卒業した」という言い方が正しいのかは分かりません。
純愛に行くのか、ピッチに行くのかも分からない。
でも、どちらにせよ——
今の私は、もう“評論のふり”だけでは書けない。
これはヒューマンドラマだと思うのです。
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今回、ジャンルを引っ越そうと思った理由は二つあります。
一点目は、「比較の条件」の話です。
たぶん多くの方は、作品をある程度書き上げて、少し時間が空いたときに、エッセイを書いている。
作品と距離ができて、落ち着いてから、振り返るように。
でも私は逆でした。
私はいま、連載と同時に、エッセイを何本も投稿している。
しかも作品と連動させたり、読者の反応で考え方を変えたり、文章の癖を矯正したり——
「作品を書くこと」と「エッセイを書くこと」を、同時進行の実験として混ぜてしまっている。
これって、冷静に考えると、同じ「エッセイ枠」で比べられるの、ズルくないですか?
完成後に振り返って書くエッセイと、
連載の熱量を背負ったまま、毎日更新の勢いで投下されるエッセイ。
同じ“エッセイ”という名前でも、やってることが違いすぎる。
実際、お正月からジャンル週間1位を連続で取らせていただいています。
さらに今この時点で、月間はすでに2位。四半期でも4位。
まだ連載2週間なのに、数字だけ見ると——
“このまま行ったら”月間や年間の上の方まで届いてしまいそうに見える。
それが嬉しいのに、同時にすごく怖いんです。
明日になれば分かる。だからこそ、いまの自分は一回ブレーキを踏みたい。
でも、もしそうなったとき。
この順位って、私の文章力だけじゃなくて、
「連載の勢い」「同時進行の物量」「連動企画」という条件が強く効いてしまっているんじゃないか。
つまり、私は“同じ土俵”にいる顔をしながら、
実は別の走り方で走ってしまっている。
それで勝ってしまったら——それは、私が欲しかった答えなんだろうか。
——そう思ってしまった。
二点目は、もっと厄介な本音です。
私は、観測者でいるつもりだったのに、
いつの間にか、自分自身が物語に侵食されていた。
揺れや葛藤を、わざわざ構造にして見せたくなる。
“作者の内面”を、ドラマとして提示したくなる。
それを解放しないと壊れそうになる。
アクセルは、
「もっと書ける」「もっと行ける」「もっと見せたい」という衝動。
ブレーキは、
「これはもうエッセイじゃない」「そのまま突っ込むのは危ない」という自覚。
だから、ブレーキを踏みたかった。
踏むために、枠を変えたかった。
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正直、こう思った瞬間もあります。
もういっそ、フィクションのジャンルで書いてしまおうかな、と。
枠を外してしまえば自由に書けるのかもしれない。
“観測”を捨てるのではなく、
観測者が物語に侵食されていくプロセスごと、物語として引き受ける。
そのほうが、今の自分には誠実な気がしました。
なのでこの連載は、ヒューマンドラマへジャンルを引っ越します。
これまでの斜めから見た文学批評や、構造の考察が嫌いになったわけではありません。
むしろ、あれは私の核です。
ただ、今の私は一度そこから離れて、
ちゃんと“終わる”形のドラマとして書いてみたい。
落ち着いたら、またここで——
ひねくれた目線の評論は、別の形でやりたいと思っています。
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最後に。
励まされて、毎日5000字近い連載ができました。
これは、たぶん私ひとりでは無理でした。
読んでくださっているのが数字で分かるからこそ、嬉しいのに、怖い。
もう少しだけ、お付き合いいただければ幸いです。
相馬ゆう
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ということで、次回は『君の膵臓を食べたい』でお勉強します。
『世界の中心で、愛をさけぶ』のヒットから10年。
「定められた死」は、どうアップデートされたのか。
同じテーマを追った二作を並べて、物語の“終わらせ方”の新しい形が見えてくるかも——という思考実験です。
今、書いてます。
ジャンル変更について、もしご意見があれば、教えてください。
自分がよりエッセイのなかで、自分より振れ幅高くなってきて、物語にしたいという欲が出てきました。
これからも相馬ゆうをよろしくお願いします。




