19話 サムい・エモい 〜近代文学~
今、自分を磨くために、なろうを私なりに盛り上げるため企画実施してます!
ご協力頂ける方は本作品ep18参照のうえご協力お願いします。
12月、なろうで小説を始めました。新人作家のチラシの裏です。
小説は未経験のまま、構造から入ってみた記録です。
年末年始ぼっちだ~!
執筆活動集中。。。
大晦日は、恐れ多くも、近代文学について少し書いてみます。
もしかしたら、いまの「なろう」も、未来の教科書に載るかもしれない——そんな与太話からです。
そもそも近代文学の定義って難しいですが、
私なりの、かなり雑だけど大事だと思っている定義があります。
文学とは、まだ言語化されていない感情を、言葉にする営みではないか。
人間には、名前のついていない感情がたくさんあります。
不快なのか、怖いのか、恥ずかしいのか、自分でもよく分からないやつ。
それを「こういう感じだよね」と、
誰かが言葉にして、みんなが「あ、それだ」と共有できるようにする。
私は、それが文学の一つの役割だと思っています。
たとえば——
「サムい」。
今では普通に使われる言葉ですが、
これはダウンタウンの松本人志が、
芸人の楽屋で共有されていた“感じ”を、
テレビを通して一般化した代表例だと思っています。
「面白くない」とも、「つまらない」とも違う。
その場にいる全員が気まずくなる、共感的羞恥。
それを「サムい」と言語化したことで、
多くの人が同じ感情を同じ言葉で共有できるようになった。
「エモい」も、たぶん同じです。
理由は分からないけど心が揺れる、その感じ。
誰かが「エモい」と名付けたことで、
その曖昧な感情は、共有可能なものになりました。
近代文学も、やっていることは似ていると思います。
夏目漱石は、
近代化の中で生まれる個人主義と孤独を『こころ』で描きました。
芥川龍之介は、
正体の分からない将来への感情を
「ただ漠然とした不安」という言葉で言語化しました。
この「不安」という感情自体は、
芥川以前から、誰もが感じていたはずです。
でも、それが一つの言葉として定着し、共有されたのは、
文学という回路を通してでした。
つまり、
太古の昔から「サムい」も「エモい」もあったし、
「漠然とした不安」もあった。
ただ、それが発見され、一般化される回路がなかっただけ。
私は、芥川龍之介や梶井基次郎を、
そういう意味で再定義してみたいと思っています。
『ゲームチェンジャー』の ep16 や ep19 でやってみたのも、
結局はそれです。
うまくいっているかは、正直まったく分かりませんが。
では次回、
私の仮説——
「いまの〈なろう〉の文脈は、近代文学の黎明期と少し似ているのでは?」
という話に入ります。
……あ、私の文章、サムくないですか?
エモかったらいいな。
相馬ゆうでした。
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