10話 時系列で遊べ!
12月、なろうで小説を始めました。新人作家のチラシの裏です。
小説は未経験のまま、構造から入ってみた記録です。
演劇系の作家、三谷幸喜や宮藤官九郎の作品では、物語をクライマックスから見せる手法がよく使われます。
いわゆる「結末を先に見せる」構成ですね。
演劇という媒体は、観客の脳内補完能力がとても高い。
舞台装置は最小限でも、距離感や時間経過は観る側が自然に補ってくれる。
わざわざ劇場に足を運ぶ人たちは、その前提を共有している。
これは、作り手にとってとても幸福な環境です。
ただ、三谷幸喜や宮藤官九郎が画期的なのは、
その手法をテレビや映画という「補完能力が必ずしも高くない媒体」で成立させた点にあります。
たとえば『古畑任三郎』。
ミステリーの核心である「犯人」や「犯行」は、最初から明示されます。
それでも面白いのは、「誰がやったか」ではなく
「どうやって追い詰めるか」に快楽の軸を移しているからです。
『ピンポン』では、物語中盤の象徴的なシーン――
主人公が空に向かって飛ぶ場面が、早い段階で提示されます。
観客は無意識に「そこに至るまで」を見続けることになる。
そして『あまちゃん』。
この作品では、時系列を入れ替えるだけでなく、岩手県が舞台の、時間そのものを刻む演出が使われています。
2011年3月にむけて西暦や日付が画面に表示されるだけで、
それまでギャグとして見ていたシーンに、急に緊張感が生まれる。
誰もが知っている現実の出来事と、物語が静かにつながるからです。
ここがとても重要で、
「時系列をいじる」ことと
「時間を意識させる」ことは、似ているようで別の技術だと感じています。
つまり作家は『脚本家』だけでなく『演出家』といえます。書く順番だけじゃなく、見せ方(提示のタイミング)まで設計しているからです。
いまはタイパが重視される時代です。
小説という媒体でも、本来じっくり描くべき過去や積み上げを、
PVが伸びないという理由で圧縮せざるを得ない場面が増えています。
その結果、辛い過程は省略され、「ざまぁ」だけが強調される。
もちろん、ざまぁやテンプレは大切です。
私自身、大好きです。
ただ、それだけに寄りすぎると、
物語が持っていたはずの“厚み”が失われてしまうこともある。
私が小説を書くときに立てている順番は、
テーマ > 構成・役割 > 視点 > キャラ
これは、流行に流されすぎないための、自分への戒めでもあります。
作者も読者も、現実ではそれぞれの場所でサバイバルしています。
同じ温度で闘っている。
だからこそ、時系列をどう扱うかは
「ごまかし」ではなく「設計」の話だと思うのです。
最後に。
タイパの時代だからこそ、
作家の脳内って、脚本家・演出家・監督が同じ部屋に住んでて、
映画『インサイド・ヘッド』
みたいに毎回ケンカしてる――
そう思うと、読者様の物語の見え方もちょっと変わるかもしれませんよ。
次回は少し趣向を変えて、
音楽の力について書いてみます。
小説を書くとき、
あえて音楽を聴くこともあれば、
逆に完全に無音にすることもあります。
音楽は、世界観を一瞬で伝えてしまう。
便利だけれど、時に丸裸にしてしまう――
そんな危うさも含めて。
今夜更新する『ゲームチェンジャー』の
アカネのショートエピソードにも、
その感覚を少しだけ忍ばせています。
アカネはどんな音楽きいてるのか?
ちなみに、メイン作品は
『ゲームチェンジャー』
です。
本日ヒロイアカネと主人公の出会いがあかさせます!ショートエピソードです。
作者プロフィールからよろしければ読んでください。一話完結短編好きはep16がおすすめです。




