俺はラノベの主人公に向いてない
風呂から出て、尿意を催した俺はイグナツィオを先に部屋へ帰らせてトイレへ向かう。
臨死体験をしたせいで膀胱が過活動になってしまったようだ。
用を足しながら、俺は自嘲の笑みを浮かべる。
(死にかけたり殺されかけたりで……俺って大変だな)
迫りくる生命の危機を鼻で笑い飛ばす――これこそがクールな主人公ってやつだ。
俺は手を洗ってから、やることも特に無いので、ついでにぶらぶらと旅館の中を散策することにした。
こういうところは大体ロビーに土産物屋があるもんだ。
キーホルダーとかペナントとか御当地菓子とか、そういうの。
いつも思うが、ペナント――あの三角形の布は本来、何の役に立つものなのか?
その正式な用途については仮定すら困難だ。
「あ、ケンイチ!」
ペナントのことを考えていると、後ろから元気な声をかけられた。
アリィシャだ。
風呂上がりだから、褐色の健康的な肌がほの赤く上気している。
健全なエロティシズムとでも言うべきだろうか?
俺はちょっとドキッとした。
「ケンイチもお風呂上がり?ここのお風呂、立派だったねぇ」
そんな立派な風呂で殺されかけたことは内密にしておこう。
妙に心配されても困るし……
「ああ。確かに良い風呂だったな」
「あと五、六回は入りたいねっ」
「そんなに入ったら体がふやけるぞ」
「あははっ、ふやけたりしないよぅ」
アリィシャは朗らかに笑う。その笑顔を見ていると、こっちもつられて微笑んでしまう。
本当に心が清らかで、優しい娘だ。
彼女との出会いは俺にとってまさに幸運そのものだった。
ラーズという悪魔の化身に敗北し、惨めったらしく樹の上に吊るされ、為す術もなく死にかけていたところを救ってくれたのがこの少女。
彼女がいなければこれまでに二、三回くらいは死んでいただろう。
そして、彼女の父親にも――
本当に、感謝してもしきれない。
俺に宝くじが当たったら、全額丸ごと彼女の口座に振り込んでもいいと思っている。
家の近所に土地を買って、そこに記念碑を立ててもいい。近付いたら自動的に歌が流れるようなやつを。
だが、アリィシャはいつだって見返りを求めることをしない。
金銭や名誉はもちろん、感謝の言葉さえ自ら欲しがらない。
自分の正しいと思うことを迷いなく行い、それを決して後悔しない。
そのスタンスはハッキリ言って俺よりも百倍は勇者らしい。
そんな彼女を心から尊敬している。
「でも、よかったね、ケンイチ。もうすぐ自分の世界に帰れるんだから」
「ああ……」
「ねえ、ケンイチの世界ってどんなところ?」
「俺の世界……」
まさか、そんな事を聞かれるとは思ってなかったが、よく考えれば、彼女の父親の生まれた世界だ。
気にならないわけがないだろう。
「う――――――ん……」
難しい。
この質問にスパっと答えるのは難しいぞ……
こっちの世界での生活は刺激が強すぎて、もう俺の元の世界がどんなところかも忘れちまった。
すごく平凡で、何の危険もない、無味乾燥な世界だったようにさえ思える。
「まぁ、モンスターはいないな。剣も魔法も無くて、そのかわりに便利な機械がいっぱいあって……」
一つずつ思いついた順に並べていくが、どれも大したものではないように思えてきた。
それでも、アリィシャは目を輝かせながら一生懸命に聞いてくれる。
「……そこそこ平和で、まぁ、そんな感じだ」
「へえー。いいところだねっ」
いいところ?
ああ。本当にいいところだと思う。
普段は気にしたこともなかったが、携帯電話やらテレビやらパソコンやら、何かと便利な世界だった。
だが、こっちの世界だっていいところはたくさんある。
「ボクね、お父さんの生まれた世界に一回行ってみたいなーって思う」
「ああ。ぜひ来てほしいよ。いつでも大歓迎さ」
「その時はケンイチの家に泊まってもいい?」
「もちろんだぜ。ただ、気をつけた方がいい。家にはカタブツの親父とロリコン趣味の兄貴がいる。あいつらときたら、君のお父さんの三分の一も紳士の嗜みを心得ちゃいないんだから」
「えーっ?でも、ケンイチの家族ならボク、仲良くできると思うなぁ」
「それはどうかな?会ったら幻滅するぞ、マジで」
しかし、口ではそう言うものの、俺の頭には家族の顔が懐かしく思い浮かぶ。
今ごろホームシックに?俺ってメンタルが強いのか、弱いのか。
だが、一人でそんな感傷に浸っていられる権利は俺には無い。
アリィシャの親父さん――シゲハルさんは、俺の身代わりになって今もあの異次元に閉じ込められたままだ。
それを考えると、彼女の前で呑気に家族の話なんか持ちだした自分を責めたくなってきた。
「すまん、アリィシャ。俺は本当に……シゲハルさんのおかげでここにいるんだ。そのことは絶対に忘れないよ」
「な、何さぁ、まだ気にしてるの?」
「気にする。忘れちゃいけないことだから」
「気にしなくていいのに……」
アリィシャは、むーん…と何やら思案気に唇を尖らせて、すぐに何かを思いついたようにパッと明るい表情を浮かべた。
「ケンイチ!じゃあ、向こうの世界に戻ったらお父さんの実家を探してみてよ!」
「え?」
「ケンイチと同じように、お父さんもいきなり召喚されたんでしょ?だったら、家族の人たちも心配してると思うんだよね。だから、お父さんの実家の人たちにちゃんと説明してあげて」
説明……どう説明したものやら。
いきなり俺のような赤の他人の若造が訪ねて行って、『こちらのご家族のシゲハルさんは異世界で勇者をやっております。ご心配なく』と言えばいいのだろうか。
病院に連れて行かれるか、警察に突き出されるか……ごくりっ!
いや、しかし、アリィシャがそうしてくれというならそうしよう。
「わ、わかった。あまり上手く伝えられる自信は無いが、必ずそうするよ」
「それでチャラだねっ。これ以上ウジウジ言ったら嫌いになるからね」
「ああ」
俺が頷くと、アリィシャはホッとしたような顔で笑い、手を差し伸べてきた。
俺はその手を強く握る。
異世界でもどこでも、友情の絆は握手で始まり、握手で終わる。
アリィシャ。
強く、純粋で、自由な少女。
君との出会いに感謝している。
清廉で、崇高なフレンドシップは今ここに永久のものとして――
「ケンイチ……」
「ん?」
「ボク……ボクね……」
「なんだ?」
「ケンイチのこと……好き……かもしんない……」
震える声と、真っ赤な頬と、潤んだ瞳。
俺はしばらく思考が停止して、何も言えずにアリィシャの顔を見つめ続けた。
嘘だろう。
そんなバカな。
そんなはずはない。
俺は社会の底辺をさまよう非モテ男だぞ。
こんなラノベの主人公のような都合のいい展開があるはずがない。
そんな……ことが……
「ご、ごめんねっ!こんなタイミングで言われても困るよねっ!」
「い、いや……」
「でも、その、ケンイチが元の世界に帰っちゃう前に言っておきたかったんだ……後悔しないように……」
「ア、アリィシャ……」
「じゃ、じゃあねっ!忘れていいからっ!いや、忘れてっ!」
顔を真っ赤にしてそう言うと、彼女は凄まじいスピードで廊下を駆け、あっという間にその姿を消した。
後に残された俺はというと、硬直したまま、呆然と宙を見つめ、空気とエアー握手をし続ける。
きっと他の人間がこの現場を見たら、気が触れていると思うに違いない。
たしかにその可能性は否定できないが。
(……マジか……)
聞いたことがある。
人間には一生に三度、モテ期が到来するという。
だが、それはあくまでもモテた事のある奴が語る成功例であって、モテない奴は一生モテずに生涯を終えると思っていた。
毎年バレンタインデーに母親からもらったチョコを修羅のように食らっていた俺は、非モテ界の闇でひっそりと生きていく覚悟を決めていたのだが……
それがまさか……
(まさか……!)
ついに来たのか!?俺のモテ期が!?
フェロモンがムンムンともう……そんな感じなのか!?
(そうなのか……?)
何を疑うことがあるのか?
アリィシャの性格は良く分かっているはずだ。
彼女は打算や駆け引きとは無縁の、純粋無垢な一輪の花だ。
「ドッキリでした~」なんていうことは絶対にあり得ない。
だが、何故だ?
俺よ。すごく嬉しいはずなのに……何を困惑している?
モテない期間が長過ぎたせいで心の動きがどうしようもなく鈍化しているのか?
アリィシャは美少女だし、性格も良くて、文句のつけようもない存在だ。
彼女に好かれるってのは渋谷のギャル100人に好かれるよりも遥かに価値のあることのはず。
今だって、極端に布地の少ない服に着替えて、そのへんを奇声を発しながら走りまわってもいいくらいにテンションが上がってもおかしくないはず。
なのに、何故、こんな……複雑な気持ちになるのか……
「あーっ!くそっ!」
俺は一人で吠え、頭を掻き毟る。
アリィシャ、俺も君が好きだぜ!
と、そう叫びたい。
だが、その気持ちには応えられない。安易に応えてはいけない気がする。
俺は自分の世界に帰らなければいけないから……
一時の感情に流されて、無責任なことを言ってはならないから……
この世界に余計な未練を残してはならないから……
そう自分に言い聞かせる。
なんでラノベの主人公たちはあんなに気軽にハーレムを作れるんだ?
もっと男としての道義的な側面とか、異世界から帰還した後のこととか、もっと考えろよ!くそっ!
だが、それらは臆病な自分への言い訳なのかもしれない。
何もかもを捨てられず、でも、中途半端に何もかもを欲しがって、結局何も手に入れられないのが俺なのかも。
でも、アリィシャの言葉は本当に嬉しかった。
その言葉は俺のこれからの人生に、強い活力と自信を与えてくれるだろう。