勇者の辿る道
喜び勇んで浴室に向かった俺だが、残念ながら浴槽には残り湯が一滴も残されていなかった。
一体、どうやったのだろう?
毛の一本も落ちていないのだ。
いや、別にそれが落ちてたからどうするということでもないんだが。
(うーむ、掃除の必要があるんだろうか……)
だが、一つだけ、彼女が確かにここの風呂を使っていたという痕跡が残っていた。
匂いだ。
清潔感のある、石鹸の芳香。
それが俺の鼻孔を甘やかにくすぐる。
(こ、これが、プルミエルの……っ)
なんという興奮!そして昂揚!
俺はそれをスンスンと肺一杯に取り入れながら、手際良く床をブラシがけして回る。
うーむ、我ながらアブナイ奴だ。
よもや自分にこういったフェチシズムがあろうとは……
だが、誰が俺を責められる?
覗きもボディタッチも禁じられた俺に許されたのは、こういった間接的な手掛かりによって頭の中で妄想を膨らませることだけなのだ。
そう、俺は変態でもエロス・ボーイでもない。
ただ、神の定めたシステムに翻弄されている、哀れな被害者……生贄なのだ!
「終わった?」
「おわぁっ!?」
いつの間にか、背後にプルミエルが立っていた。
「もー、そんなに驚くことないでしょ」
「お、驚くだろうよ、いきなり後ろに立ってんだから」
「で、終わったの?」
「まだ。でも、あとは水で流すだけ」
「じゃあ、早くしてね。外で待ってるから」
プルミエルは手をヒラヒラさせながら出ていった。
その後ろ姿を見ながら、俺はぼんやりと考える。
うーむ……この絶妙な距離感……言うなれば『アッサリ感』は天性のものだろうか?
俺のように女の子に対してほとんど免疫の無い青少年にとっては、あの小悪魔的ともいえる『アッサリ感』は思わず恋に落ちてしまう要因の一つだ。
あんまりベタベタされるのも照れくさいし、冷たくされすぎるのも心が痛む。
でも、あれくらい向こうがアッサリしていてくれると、かえって色々と話しやすいもんだ。
ただでさえ女の子と話すのって緊張するしね。
(……おおっと、そんなこと考えてる場合か。さっさと終わらせよう)
俺は慌ててブラシを放り投げて、バケツの水を床に撒いて、流した。
俺が慌てて外に出ると、もう辺りは真っ暗だった。
ホーホー、リリリ……といった、動物や昆虫の穏やかな鳴き声も聞こえる。
夜の森、そのもの。
しかし、俺はこの森の中で昼間のような気味悪さや心細さは感じなかった。
なぜだろう?
空だ。
丸天井のように見える空に、無数の星の明かりが輝いていたからだ。
それは俺のいた世界のものよりも強い光を放っているように見える。
そりゃそうか。
大気中にスモッグやら排気ガスが充満していれば、星の光が弱くなるのは当たり前だ。
だが、この世界にはそんなものは無いだろう。
ここには俺たちの知らない、ありのままの自然の姿が残っているんだ。
そうか……星空って、こんなに綺麗だったんだなぁ……
「何をニヤニヤしてるの?」
おおっと、いけねぇ。
ロマンチスト・健一が現れて俺の心に一輪の薔薇を置いていったぜ。
感傷を振り払って地上に視線を移すと、家の前には粗末な机が出してあって、その上には一本の燭台とプルミエルがのっかっていた。
「遅い!」
プルミエルは腕組みをして、不機嫌そうに言った。
地に着かない足がブラブラと揺れている。
小柄な女の子がこういう風につんと威張りくさっているのは本当にヤバい。
うっかり萌えてしまうでしょ!ありがとうございます!
「ジジ……エスティ老師は?」
「裏」
「裏?」
「物置よ。ほれ、あなたはこっちに集中なさい」
プルミエルは机から降りると、ばん、と茶褐色に色褪せた紙を広げて見せた。
地図だ。それもかなり年代物の。
彼女はその上に指を滑らせた。
「現在地がここね、『キナの森』。平野を抜けて『ルジェ』。海を渡って『パルミネ』。次の山を超えると『ベデヴィア』。もう一つ山を越えると『チャペ・アイン』よ。で、『チャペ・アイン』の南端にある熱帯雨林の中に『ジャパティ寺院跡』があるの。そこが目的地」
しなやかな白い指が、地図の三分の二ほどの距離を横断した。
「ここ、目的地。わかった?」
わからん。
「ちゃぺ……何だっけ?」
「もー、いいわ」
プルミエルは呆れたように溜息をついた。
おう、頼む、がっかりしないでくれ。
「ううっ……すまん」
「あー、べつに謝ることないわ。異世界から来た人に地名を説明しても分からないだろうし」
「おいおい、なら、何で説明したんだよ?」
「どれくらい距離があるかっていうのを確認してもらいたかっただけ」
「あー……すっげぇ遠いっていうのは分かった……」
「覚悟が必要ってこと。目的地にたどり着くまでに、あなたが勇者タイムを何回チャージしなければいけないか……少なくとも、記録を塗り替える程度じゃ駄目ね」
「記録……って、67時間だったっけ?」
「『ジャパティ寺院跡』までは最短でも二週間はかかるわ」
一週間……えーと、24×14だから……
(さ、336時間!)
なんて気の遠くなる数字だ!
生き延びるためには最低でも336回の善行を積まねばならないのだ。
それも、一つもカブらないように。
そして不眠不休で一時間刻みに、だ。
改めて思うが、なんてシビアなルールだ。
(……だが!やってやるぜ!)
死なないためには、生き延びるしかない!当り前か。
「……俺は負けん!」
「おー、ナイスガッツ」
プルミエルがパチパチと薄っぺらい拍手をくれた。
だが、重要な疑問もある。
「でも、これって二週間でいけるような距離か?山やら海を越えるんだろ?」
昼間。
この森を歩きまわっていただけでも相当に疲れたのと、エライこと時間がかかったのを思いだす。
勇者が不死身とはいってもそれはあくまでも攻撃された時だけなんだろう?
24時間耐久登山なんて過労死のコースだぞ。
「『最短で』って言ったでしょ。聞いてた?」
「聞いてたよ。そりゃあ、俺だって最短でいけるルートがあるならそっちを使いたいんだが……」
「だから、それを使うの」
「?」
なんだか、会話が噛み合っていない気もするが?
俺が首をかしげた、ちょうどその時だ。
裏手からジジイの声が上がった。
「おぉーい、準備完了じゃ」
おおっ、老師。
あんたの存在そのものをすっかり忘れてたぜ。
それにしても準備って?
弁当とか?
「来て」
「お、おう」
俺はプルミエルに誘われるままに、家の裏手へ回った。