魔王は死なず
とっぷりと日が暮れ、月が夜空にポツンと出ていた。
人気の無くなったブナジャラ川岸に、ぽつりと一人、たたずむ影がある。
誰あろう、ヤッフォン教授であった。
彼はせわしなく視線を動かして、川面を観察しているようだった。
(死ぬはずがない……あの男が……)
そう確信していた。
『あの男』というのは魔王ラーズの事である。
この世界の為を考えるのであれば、死んでいたほうが良い。
しかし、それでは彼の中に渦巻いている、飽くなき学究心を満たすことはできない。
ヤッフォン・ダフォンという人間にとっては、その学究心こそが何をおいても第一に優先すべき事項であり、尊重すべき真理であり、世界の全てであった。
もちろん人間らしい感情に乏しいというわけではないが、正義も悪もその前では何の意味も持たないのである。
勇者が世界を救うにしても魔王が世界を滅ぼすにしても、異世界学というジャンルにおいては学術的に同義であるとも考えていた。
そういった極論を、正邪の観念に囚われて煩悶するでもなく、純粋な信念として己の内に抱えている点に、この男の恐ろしさがある。
(死なれては困る……ようやく『魔王文書』を手に入れたのだ……!)
胸にしっかりと抱いた古文書にチラリと目を落とした時。
「よう」
背後から、声がかかった。
「ひっ……」
待ちに待った男の声だというのに、ヤッフォンの背筋は凍りついた。
やはり、この男には底知れぬ恐怖……言い換えれば、魔王の資格が備わっている!
「ラ、ラ、ラーズ……い、い、生きていた、か」
「ああ、全く、ひどい目にあっちまった」
そう言いながらも、月明かりに照らされるラーズの顔には大きな笑みが浮かんでいた。
「ケ、ケ、ケミィ・パシャに、く、く、喰われたと聞いたが……」
「ああ。あんなのはもう二度とごめんだね」
「ど、ど、どうやって……」
「なぁに、生き物ってのはどんなに図体がでかくてもだいたい同じところに急所がぶら下がってるもんだ」
ラーズの言葉は、ケミィ・パシャを葬ったということを示唆している。
その話ぶりから察するに、おそらく、何の苦も無かったに違いない。
「しかし……出迎えはあんただけか。まったく、殺風景なもんだ」
「お、お、お前のて、て、手下は、ぜ、ぜ、全員やられた……」
ヤッフォンはラーズの館が女――メイヘレンによって襲撃され、壊滅させられた一部始終を二階の自室で見ていた。
そして女が二階に上がってくるときに、急いで『魔王文書』だけを抱えて、窓から飛び出したのだ。
一世一代の大脱出だった。
「そうか、俺の館はやられたか」
そう言うラーズの顔に、落胆の色は全く無い。
むしろ、どこか嬉々としているようにも見えた。
(それでこそだ、魔王ラーズ……)
ヤッフォンは目の前にいる酷薄な男を、頼もしくさえ感じた。
「さて、どうするかな?魔王文書にはなんて書いてあるんだ?」
ラーズはヤッフォンの心の内を見透かしているように笑った。
「パ、パ、パルミネ……」
「ほう?」
「ア、ア、『アルヴァンの魔法塔』に行く……」
「よし。そうしよう」
ラーズは詳しいことも聞かずに歩きだした。
ヤッフォンも慌ててその後を追う。
「も、も、もう出発するのか?」
「いーや。ゆっくり行くさ。急ぐ旅でもない。ただ、『魔王タイム』を稼がせてくれるような女を調達してこようと思ってな」
調達、という言葉はこの場合、誘拐や強奪を意味する。
ラーズが喜色を満面に浮かべながら、ぞり、と顎を撫でた。
「長旅を退屈させない女でないと。五、六人もいればいいかな……?」
「そ、そ、そんなに……?」
「うん?けっこう少なめに見積もったつもりだったんだがな」
「……」
二人は夜の貿易都市に消えていった。