決戦都市 ②
場にいた誰もが、最初は幻覚を見ていると思っていた。
うっすらと空間に霞む、見上げるほど丈高いその姿。
しかし、その身体が徐々に輪郭を露わにしていき、確かな質量をもつ実体として存在を感じる事が出来るようになった時、ようやく人々の口から悲鳴が上がった。
「な、何だ!?」
「ヒィィィッ!!」
腕組みをして仁王立ちするプルミエルの背後に現れたのは、金色の獅子であった。
ただの獅子ではない。
そのたてがみはめらめらと燃え盛る紅蓮の炎であり、その巨体は三階建ての家ほどもある。
低い唸り声を上げる口の端からは青白い焔が噴き出し、あたかも広場の大気を焦がすようだった。
太陽がすぐ間近にあるような、眩暈を催すほどの熱風が観衆に吹きつける。
なんという、神々しきまでの偉容。
なんという、戦慄するほどの威容。
「ば、化物だッ……」
誰かが、語尾を震わせながらそう呟く。
「違う。『マギ・ハルカオ』」
その言葉を受けて、プルミエルが言う。
「化物なんて言うと食べられちゃうわよ」
安直な脅しではあったが、観衆はざわめき、どよめく。
その大半はああ、とか、ううといった声にならない呻きだった。
それでも、恐怖に縛られたものか、はたまた、頭が真っ白になるほど動揺しているのか、誰一人としてその場から逃げだそうとする者はいない。
呆けたように、全員がただ立ち尽くし、その美しい獣を見上げているだけだった。
ただ一人の例外を除いて。
「面白くなってきたな」
そう言って前に進み出て来たのは、もちろんラーズだった。
「俺は魔法って奴にはあまり明るくないんだがね……」
彼は神話的と呼べるほどの巨獣を前にしても、いまだに微笑をその顔に浮かべている。
「ここは魔法の使えない地帯だったはずだ。一体どういうことかな?」
「……これは『精霊』の力を借りる精霊魔法ではなく、より高位の『聖霊』を力ずくで呼び出す召喚魔法。ま、私も呼び出すのは初めてだけど――」
プルミエルは背後の獅子を仰ぎ見て、ヒューウと口笛を鳴らした。
「上手くいったみたいね」
「つまり、そいつが君の切り札か?」
「そう。これが切り札よ。命の惜しい人は逃げなさい。命を捨ててでも私を止めたいという人だけここに残りなさい。猶予は十秒」
プルミエルの声を聞いても、観衆はまだ心ここにあらずといった様子で立ち尽くしている。
「さっさと逃げる!」
彼女は苛立ちながら、一喝した。
「うぉ!?」
「ヒィ!」
「そ、そうだ!逃げよう!」
広場を埋め尽くしていた人間達が、ハッと我に返り、今度は我先に逃げ惑った。
悲鳴が空高く響き、雑踏が大地を揺らす。
「ラ、ラーズ様、俺達もズラかりましょう!」
コリンチャがラーズの足元に縋りつき、懇願する。
「逃げる?何で?」
当然、ラーズはそう言うに決まっていた。
この男が求めているのは常にスリルであり、『安全』などという退屈な言葉は唾棄すべき禁忌なのだ。
自分の命を駒にして、生死を賭けた危険なゲームにどっぷりと浸ることを夢見ている倒錯志向の持ち主。
それこそがラーズ・ホールデンという男の本質である。
だが、彼の取り巻き達はそうではない。
プルミエルを取り囲むために薪の上によじ登っていた男達は、転げるように地面に降りると、観衆達に混じってどこかへと消えてしまった。
「ラ、ラーズ様!逃げます!私ゃ、逃げます!」
「駄目だね」
ラーズはにべもない。
コリンチャは泣きそうな顔をして、へたりこんだ。
そんな彼の前に、ラーズが屈みこんで、顎をしゃくってみせた。
「ほれ、見ろよ」
「へ?」
コリンチャがその先に視線を移すと、人混みをかき分けてこちらへ進んでくる大きな影が見えた。
それは、豪商連合の装甲兵団だった。
「どうだ?救援が来たぞ。いいタイミングだな」
「へ、へぇ……」
コリンチャはその数を数える。
二十、三十……なんと、三十五人!
それが全身を重装甲に固めて、こちらへ向かってくる。
コリンチャは妙な安堵感を覚えて、大きな溜息を吐いた。
「こ、こうして見ると頼もしい奴らですね……」
「そうかな?そうだな」
ラーズは顎ヒゲをぞり、と撫でて、意味ありげに含み笑いを洩らした。
「ラーズ!」
声をかけてきたのは、アザールだった。
先ほど教訓を得た彼は、今度はしっかりと兵士達の背後に隠れ、その隙間からラーズを睨んでいる。
「おう」
「な、な、何だ?あれは?」
アザールは慌てた口調で、マギ・ハルカオを指さした。
「あそこのお美しいお嬢さんが呼びだしたらしい」
「し、し、しかし、おい、ここは反魔結界の中だぞ!?」
「そんなことは承知で……あー、もう、面倒くさいな。とにかく、あのお嬢さんが魔道貴族だ。そして、この都市を自分の管理下に治めると豪語してる」
「そ、そんなことは許されん!!」
「そうだろうとも。だから、あんた達はどうするんだ?」
「た、戦うしかねぇだろう!おい、アレを使うぞ!あの化け物を吹っ飛ばせ!」
アザールの号令で、兵士達がザザっと道を開ける。
そこに、六人の男が踏ん張って曳く、いかにも重量のありそうな幌車が現れた。
「おい!お嬢さんよ!」
ルイーゼを磔から降ろしていたプルミエルに、アザールが怒鳴り声をかける。
「何?めんどくさそうなのが来たわね」
「あんた、魔道貴族だか何だか知らんが、この都市にはこの都市のルールがある。さっさと出て行けば見なかったことにしてやるぜ!」
「そうもいかないわね。あんたは聞き逃したかもしれないけど、この都市のルールは私が改訂するの」
「な、生意気言うんじゃねぇ!」
「声が震えてるわよ」
「くそ!おい!これを見ろ!」
先ほど運び込まれた車から幌が外され、そこに黒光りする、巨大な筒が現れた。
なんと、それは砲門である。
「対要塞の火砲だ!その化け物でも、ひとたまりもねぇだろう!」
恐ろしく剣呑な代物に、ヒューウとラーズが口笛を吹いた。
しかし、プルミエルは全く動揺を見せない。
美しい碧眼で、虚勢を張るアザールを、哀れむように見つめていた。
「『化物』と呼ぶのはやめなさい。『マギ・ハルカオ』。あんた達、少しは聖霊に敬意を払ったら?」
その不遜な態度は、アザールを不安にし、次いで困惑させ、そして、最後に苛立たせた。
「ちっ。おい、撃て!」
「ほ、本当に?」
言われて兵士が戸惑ったのも無理はない。
仮にも魔道貴族を名乗る相手である。
ここで殺してしまった後で、どのような罪を被るか知れたものではないのだ。
「いいんだよ!もともとベデヴィアに足を踏み入れた時点で、魔道貴族の優位性は無ぇんだ!」
ヤケクソになってアザールが叫ぶ。
それに圧されて、装甲兵は導火線に火をつけた。
「ハルカオ!とっちめなさい!」
プルミエルが叫ぶのと同時に、マギ・ハルカオは宙に飛び上がっていた。
その巨躯が火砲の前にズドン!と降り立ち、大地を揺らす。
「ひ……」
射手が悲鳴を上げる間も無い。
マギ・ハルカオの振るう前腕の一撃によって、火砲は車ごと吹き飛ばされた。
明後日な方角を向いた砲身が、空しく宙に炸裂弾を放つ。
それは山なりに放物線を描いて飛んで行き、広場の隅に着弾して大きな爆発を起こした。
「な!?」
兵士達は驚嘆の声を上げる。
炎獣は大きく天に吠えると、さらに前腕を振るった。
「げわぁ!」
「ぐっひぃ!」
重装甲を着込んだ兵士達が、木の葉のように宙を舞う。
それはあまりにも非常識な光景だった。
「ひ、ひぇぇぇぇ……」
アザールは這いつくばって、逃げ惑った。
その間にも装甲兵が吹き飛ばされ、噛み砕かれ、叩き潰されていく。
マギ・ハルカオはタガが外れたように暴れ回っていた。
口から焔の玉を吐き、装甲兵の大盾をドロリと瞬時に溶かしてみせる。
大きな咆哮を上げると、その熱波が衝撃波となり周囲の建物を薙ぎ倒す。
目を覆いたくなるような破壊と惨劇がそこに展開されていった。
それをプルミエルはじっと見つめている。
「満足かい?」
いつの間にやらプルミエルの背後に立っていたラーズから声を掛けられても、彼女は動じない。
素早く振り向くと、ツンと胸を張ってラーズに対峙した。
「そうね。驕った商人どもには痛い目を見せないとね」
「ふふん、嘘つきだな、プルミエール」
「?」
「そんな悲しそうな顔をして言うセリフじゃないぞ」
「……」
「本当は君は心優しい女の子なんだ。人が傷つくのを平気で見ていられる、俺のような冷血動物じゃない。だが、ここで魔道貴族の力の恐ろしさを深く、鮮明に人々の記憶に残しておかなければ、この都市を支配することができない……そうだろう?」
プルミエルの眉がピクリと動く。
(やれやれ。恐ろしいほどカンの良い男ね……)
ラーズの言葉はまさに図星だった。
穏便に事が解決するならばそれで済ませておきたいところではあったが、プルミエルにとっては今、この場で都市の主導権を掌握する必要があったのである。
その理由は右手に光る『マギ・リンカー』にあった。
本来、高位聖霊を召喚するという術法は心身ともに大きく負担がかかる。
だが、一時的に術者の内在魔力を倍加させ、その負担を軽減させるアイテムが『マギ・リンカー』なのだ。
(でも、この腕輪の力はもって三十分……)
それ以上は自分の魔力も、もたない。
したがって、三十分という限られた時間の中で、魔道貴族ミスマナガンの力をこの貿易都市を牛耳る連中に誇示し、支配下に置く必要があったのだ。
今、広場で繰り広げられている苛烈な蹂躙は、その為のパフォーマンスである。
当然、プルミエルにとっては気分の良いものであるはずがない。
「なぁ、プルミエール。俺と一緒に来ないか」
「はぁ!?」
ラーズの突拍子も無い提案に、さしものプルミエルも、ずっこけそうになった。
「俺は君が気に入ったよ」
「冗談」
「冗談じゃないさ。君が望むなら、奴隷制度を廃止するのは勿論、世界を平和にしたっていい」
「……アホなの?」
怪訝、という言葉がぴったりなプルミエルの視線をラーズは堂々と正面から受け止める。
「ふふ、手厳しいな。いいか?難しく考える事は無いよ。ケンイチから俺に乗り換えろと言ってるだけだぜ」
「……それはお断りだわ」
「何でだ?あいつと俺で何が違う?素行の違いか?だが、あいつは『勇者タイム』のせいで良いことをしているだけさ。自分が生き延びるためにな。俺だってそうさ。自分が生き延びるために、やむなく悪いことをしてる。お互いに縛られているものが『勇者タイム』か『魔王タイム』か、それだけの違いだ」
ラーズは両手を広げてアピールする。
と、その背後にゆらりと影が立った。
「ラーズ!この悪党!」
それはルイーゼだった。
彼女は太い薪を拾い上げると、背後からラーズの脳天にそれを振り下ろした。
バキィ!と小気味良い音が響く。
「おっ!とぉ……忘れてたぜ、ルイーゼ。まったく、イケない女だな」
「……!?」
ルイーゼは瞠目した。
へし折れたのは手に持った薪のほうで、ありったけの力で強打したはずのラーズは、よろめくどころか、微動だにしなかったのである。
「話の腰を折る……悪い子にはお仕置きだ」
目にも止まらぬ速さでラーズの手が動き、ルイーゼの頬を張る。
パン!と乾いた音が響いた。
「あう!」
勢い余って前方に投げ出され、倒れそうになるルイーゼの身体を、プルミエルが手を伸ばして抱きとめる。
「おっと、大丈夫?」
「くっ……」
「まったく、女の子に手を上げるなんてサイテーだわ」
ルイーゼを背後に庇うようにして、プルミエルはラーズの前に一歩進み出た。
「ラーズ。今ので確信したわ。あんたはケンイチよりも『下』ね」
「……」
「『ケンイチとあんたと何が違うか』?いいわよ、あんたのバカげた問いに答えてあげましょうか。ケンイチはね。そりゃあ、普通の男の子ね。正義漢かと言われればそうでもないし、知力、体力も人並み、運に至っては良いのか悪いのかも判断しかねるわね。おまけにちょっとスケベだし」
プルミエルはしみじみと、溜息まじりに言う。
「あんたの言う通り、彼はこっちの世界に来てから、生き延びるために『勇者タイム』のルールに従って善人をやってるわ。まー、成り行き任せでね」
ラーズは黙って彼女の言葉を聞いていた。
「でもね。彼、成り行きだろうが何だろうが、今まで生き延びてきたのよ。それこそ、数えきれないほどの人を助けたり、世話をしたりしてここまで来たわ」
「……」
「人間らしく、弱気になったり、ヤケになったりもしてたわ。それでも、歯を食いしばってここまで生き延びた。気ままに暴力をふるったり女を抱いたりしてきたあんたとは大違いね」
「……」
「自分が生き延びるためでも構わない。成り行きでも構わない。それでも――」
どこか満足そうに、プルミエルはふっ、と微笑んだ。
「それでも、彼は人の為に生きていくでしょうね」
そう。
「一時間刻みで……これからも――ずっと」
その時、ラーズの目に灯った光を何と呼ぶのだろう。
嫉妬?憤怒?憎悪?
ただ、紛れも無く禍々しい殺意が、彼の瞳をどろりと染めた。
「いいだろう。どいつもこいつも……そんなにケンイチが良いなら、あの世で逢わせてやるぜ!」
そう叫んだラーズの手がプルミエルの首に伸びた瞬間。
「うぉ!?」
大きな火の玉が彼に直撃し、その身体を大きく横へ吹き飛ばした。
「ありがと、ハルカオ」
律儀に召喚士を守った炎獣に、プルミエルはウインクを贈った。
それに照れたのか、マギ・ハルカオは天に向かって大きく咆哮する。
「やれやれ……」
ぶすぶすと煙を上げる薪の山の中から、ラーズがむっくりと起き上った。
その身体には傷一つ無い。
そう、彼も異世界の人間であり、不死身の持ち主なのだ。
「不死身でなければ粉々になってただろうな。まさか、忘れてたかい?」
「忘れてないわよ。そもそも――」
言いさして、プルミエルは天を仰ぐ。
「?」
ラーズも同じく、天を見上げる。
「来た」
「……ほぅ」
見上げる先――茜色の空に、人影が踊る。
それはまっすぐこちらに向かって落下してきて――
「ぐへぇぼ!!」
二人からは少し離れた場所に頭から墜落した。
えげつない衝撃音が響き、土煙が巻き上がる。
「な、な……」
アザールは突如として目の前に堕ちてきたそれに腰を抜かし、起き上れないまま呻いた。
「こ、こ、今度はなんだァ……?」
土煙が薄れ、人影が見えてくる。
そいつはあれほどの衝撃で地面に叩きつけられたというのに、なんと、何事も無かったかのように自分の足で立ち上がり、埃を払っているではないか。
アザールは戦慄し、情けない声で再び呻いた。
「な、なんなんだよぉ、テメェは……?」
「ぺっぺっ……へ?」
人影がこちらに気付き、ヘコヘコと頭を下げながら言った。
「ど、どうも、ケンイチといいます……」
「ケンイチ……?」
「あー、えーと……勇者ッス」