プリズンブレイカー
ポツン……ポツン……
天井から何の汁か分からない雫が落ち、それが地面を打つ音が静寂を一層引き立たせる。
古からの死臭漂う密室。
そこに美女二人と閉じ込められてる俺。
ちょっとした18禁ゲームの題材にはうってつけだが、事態はそれほど楽観的ではない。
俺は舌の先で奥歯に触れてみた。
……やっぱり少しグラついてる気がする。
(当分はゼリーしか食いたくない……)
なんて悠長なことを考えながらも、俺は天井に繋がれている鎖に全体重をかける。
「ふんっ……くぉぉぉぉっ……!ていりゃあっ!」
手首をねじったり身体を回転させたり、ぶるんぶるんと思い切り揺れてみたりと縦横無尽の一人相撲だ。
天井の鎖が切れるとか手錠が壊れるとかを期待しての非常にポジティブかつ野心的な行動なんだが、傍からは『動物園にたまにいる躁病の気のあるゴリラ』にしか見えないんじゃないかと不安になる。
そんな俺の狂態に哀れむような視線を向けながら、プルミエルが遠慮がちに口を開いた。
「あー……なんて言うかケンイチ。あなたは一生懸命やってるんでしょうけど、『躁病の気のあるビフビス』みたいよ」
「『ビフビス』……?」
「プルミエル……ビフビスは言い過ぎだよ。彼も頑張っているんだぞ」
「そうね、ごめんね」
ううむ……褒め言葉じゃなかったってのは分かったな。
「しかし、ふふ……あっはは、ビフビスとは!(笑)」
「えー、あんたまで、なに笑ってんのよぅ(笑)」
もうこらえきれないワ、といった様子で二人が笑う。
な、何だ?その(笑)は!
そこまで言われると見てみたいぜ『ビフビス』!
よほど素っ頓狂な生き物に違いない。
(いやいや、今は……)
今はそれどころではないのだ。
ビフビスの謎は追々解くとして、今はこの狭くてジメジメしたクソったれの地下室から逃げ出すことが急務だ。
「ええい!くそっ!おらぁぁぁ!でりゃあ!……ちくしょう!駄目か……?」
俺の一人相撲はあっという間に千秋楽を迎えた。
くそぅ、やっぱりどう足掻いてもこの鎖は切れそうにない。
となると、他の手を考えなければならないということだ。
(考えろ、ケンイチ……喧嘩はからっきしの三級品でもトンチは一級品だろ?)
とはいえ、実際は焦りが募るばかりで上手いトンチは閃かない。
おお、やべぇなんて思っていた時――
ガチャン
とノブが回り、ゆっくりと重たい鉄扉が軋む音を立てながら開いていく。
(おいおい、嘘だろ……まだ十分ほどしか経ってねぇぞ……)
しかし、相手は天下無敵の魔王様だ。
約束を破るなんてのは朝飯前だろう。
まぁ、三十分てのはあいつのサジ加減だし、もともと約束したワケでもない……
(ああ、もう、ちくしょう……どうしよう?)
そこそこの絶望感が俺の心を覆い始める。
ギィィィィ……
あ、あれは終焉を告げる破滅の音……
しかし――鉄の扉の向こうからひょいと顔を出したのはラーズではなかった。
「……生きてるわね?」
「……え?」
おお……この人は、アレだ。
先ほど、俺が人間サンドバックと化していた時に少しだけ庇ってくれた、あのセクシーなお姉様だ。
彼女は部屋の様子を窺い、また顔を引っ込めると、今度は素早く部屋に入り、そっと音を立てないように扉を閉めた。
伊賀者も真っ青の、無駄の無い動き。
それはどう見ても、人目を警戒している動きだ。
しかし、何故?
ラーズの彼女ならもう少し堂々としていればいいだろう?
「……なにしに来たの?」
プルミエルが警戒心剥き出しでつっけんどんに聞く。
「そんな目で見るんじゃないよ……ここからあんた達を出してあげるわ。ついておいで」
「おお……」
なんて言うか――待ちに待った急展開だ。
彼女は鍵の束をさっと取り出すと、俺達の手錠を素早く外していく。
俺は腕が自由になった途端に支えが無くなって、その場に倒れこんでしまった。
くそ、思った以上に膝にキてるな……
「ちょっと、ケンイチ、大丈夫?」
「ああ、大丈夫……けど、しばらくアルゼンチンタンゴは踊れそうにない」
「いい?無駄な話をしてる暇は無いわ。すぐにラーズがここに来る。一回しか言わないから良く聞いて」
屈みこんで、そう切り出した女性の顔は真剣そのものだった。
もちろん、俺の眼はその圧倒的ボリュームの、深い谷間に釘付けになどなってはいない。
「女子達はこの先の通路を真っ直ぐ進んで、突き当たりの階段を上る。そうするとラーズ専用の娼館の前に出るわ。そこは男子禁制だから、中に入り込めれば、裏口から簡単に外に抜け出せる」
「ん?ケンイチは別行動?」
「娼館に男は入れないのよ。彼は私が連れてくわ」
「どこに?」
「下水道を通って行く。あそこは入り組んでるから、道を知ってる人間と一緒に入らないとすぐに迷う」
「私達も下水から行けないの?」
「それは無理。下水の出口には『アンビルカッター』っていう極悪な刃物のついてる水車が回ってるわ。奴隷たちの逃走防止にね。ラーズが言うように、彼が不死身の勇者なら通れるだろうけど……」
「あなたを信用する材料が無いな」
メイヘレンがぴしゃりと言う。
「それは……」
「メイヘレン、その気持ちも分からんでもないが、せっかく助けてくれるって言うんだから乗っかろうぜ」
「しかし、ラーズの女だ。これも彼を楽しませるためのゲームなんじゃないか?」
メイヘレンの目は冷たい敵愾心に満ち溢れていた。
正直言って、背筋がぞっとするほどだ。
確かに、目の前に希望を与えておいて、それをさっと絶望に塗りかえる、なんてことは性悪説を標榜する、あの野郎の好きそうなことだけど……
「何とも言えないわ……信じる、信じないはあんたらの自由よ……」
女性はひどく歯痒そうに、そして残念そうに俯いた。
俺はその様子に、先ほどまでラーズに甘ったるい媚を売っていた時とは大違いの、ひどく無防備な、人間らしい感情を見た気がした。
そんなのを見せられちゃあ、勇者として黙っていられないな。
「なぁ、俺は……」
「何だ?」
「俺……この人を信じるよ」
「……」
「ほら、手錠も外してくれたしさ……いずれにせよ、少しは状況が好転したんじゃないかな」
「君は甘いぞ、ケンイチ」
「そう、俺は甘い。俺の正体はマシュマロマンなのかもしれない。でも、この人を信じてついていく。頼むよ、メイヘレン、プルミエル。疑うよりも信じてみようぜ」
俺だって根っからの善人じゃない。
裏切られれば傷つくだろうし、腹も立つだろう。
でも、俺の為に何かしてくれるっていう人には信頼で応えたい。
甘い考えだけど、たぶん後悔はしないだろう。
俺の言葉に、プルミエルとメイヘレンは互いに目を見合わせ、やれやれといった様子で肩を竦めた。
「……まー、このままじゃあこのままだしね」
「仕方ないな……君の賭けに乗ろう」
「よし、決まりだな。それじゃあ、えーっと……」
「ルイーゼよ」
「ルイーゼさん、よろしく頼みます」
「……ええ」
大脱走開始だ。
「……しかし、クサいッスね……」
「……下水だから当り前でしょ……」
「まぁ、そうッスね……」
プルミエル達と別れて、俺とルイーゼさんは地下へと潜り、暗黒の下水道を進んでいた。
足がようやく一つ載せられるくらいのやたら狭い道を、前を歩くルイーゼさんの持つ松明の明かりを頼りに慎重に歩いていく。
ぬめりに足を取られて踏み外したが最後、脇を流れる黒く淀んだ汚水の流れに顔面から突っ込むだろう。
綺麗好きを自負する俺にとっては拷問に近い。
うう、なんてスリル満点のゲームなんだ……
「そういえば……」
「何よ?」
「どうして俺達を助けてくれたんです?」
「……別に。気まぐれよ……」
「あー……そっスか……」
会話終了。
あまり聞くとご機嫌を損ねそうな雰囲気だ。
ま、急に仏心を出してくれたってことかな?
もしくは俺のいたぶられる姿が予想以上にセクシャルだったとか?
(へっへ、それはないだろうな……)
自嘲気味に笑う俺。
しかしこの世界に来てからってもの、女の人(しかも美女)に助けられることが多い。
プルミエルに始まり、メイヘレン、シスター・メアリ、アリィシャ、そしてこのルイーゼさんだ。
(フェロモン……?異世界フェロモン……?)
何考えてんだ俺、と思ったところでルイーゼさんが静寂を破った。
「……あんた達の日記を読んだわ……」
「日記?」
「ほら、勇者の生態とか何とか……」
「あ……あーあー!そういえばプルミエルが書いてましたね、『勇者研究ノート』」
「パルミネで助けた二人の子供のことも……」
「え?ロビンとニナシスのこと?」
頭の中に、さっとあの二人の子供の顔が浮かんだ。
ちょっとおマセではあったが、可愛いわんぱくキッズ。
何だよ、そんな細かいことまであのノートに書き込んでたのか。
ひょっとしたらプルミエルは、勇者研究の権威の座のみならず小説家デビューまで狙ってるんじゃなかろうな?
「……ニナシスはね、あたしの娘なの」
「え……」
予想外のルイーゼさんの告白に、俺は言葉を失った。
前を歩く妖艶で、グラマラスで、セクシーな女性が……
あの、少し内気だけど、はにかむと世界一可愛らしいあの女の子の……
「お……お母さん……?」
そ、そうだったのか……と俺は口の中で小さく呟く。
そして、なんだか恥ずかしい気持ちになった。
俺はさっきまで偉そうなことを言っていたけど、それでもやっぱり少しはこの女性を疑っていたのだ。
逃がすと見せてラーズのもとに連れていかれるんじゃないか?
もっとひどい拷問を食らわせられるんじゃないか?
このままこの臭い下水に閉じ込められるんじゃないか?
そんな不安が、やっぱり心のどこかに残っていた。
でも、ルイーゼさんは自分の身の危険も顧みず、助けに来てくれたんだ。
(娘を――ニナシスを俺達が助けたという、あの手帳の書き込みを見て……)
娘を思う母の愛、そして心の絆を感じて、俺は胸が熱くなった。
「あたしは十六の時に田舎を飛び出して、この街に来たわ。あんな寒村で明日の食べ物の心配をしながら細々と肩身を狭くして生きていくのが嫌だったの。まぁ、とにかく若かったのよ……」
ルイーゼさんは歩みは止めずに、淡々と語り始めた。
「でも、世間の右も左も分からない田舎娘に現実は厳しかったわ。そうしてすぐに悪い男に騙されて、気が付いたら路地裏に立って客を取らされてた」
「……ひどいっスね……」
「苦痛の日々だったわ……何度も死を望んで、でも、死に切れなくて……そんな時だったわ。ニナシスを身籠ったのは……」
心なしか、ルイーゼさんの声がすこし明るくなった。
「私、嬉しかったのよ。父親なんて誰だか分からなかったけど、でも、その時に決めたの。この子の為に生きようって。私の希望になってもらおうって……でも……私はもうこっちの世界に堕ちきってて……」
彼女の声が詰まった。
そこから先は聞かないでも、ニナシスが孤児院にいたことで大体のことは察しがつく。
「ニナシス……もう五歳になるわね……元気だった?」
「……はい。素直な、いい子でしたよ」
「そう……」
こちらから顔は見えないけれど、その肩が少し震えているのを見て、彼女が泣いているのに気づいた。
「会いに行っていないんですか?」
「会えるわけないわ……こんな女がいきなり会いに行って『お母さんよ』なんて……言えるわけが無いわ」
そうかな……
俺はそうは思わない。
「会いに行ってあげてください。ニナシスは、絶対喜びますよ」
「無理よ」
「無理じゃないッス。あなたがニナシスのことを思っているように、ニナシスもあなたのことを思っているはずですよ」
「それは無いわよ。あの子は私の顔も覚えちゃいないわ」
ふ、と自嘲気味にルイーゼさんは笑う。
「でも、それでいいの」
「え……?」
「このまま、世の中の汚いことを何も知らないまま、あの優しそうなシスターのところで暮らすのがあの子にとって一番の幸せなんだわ」
「そんな……そんなわけねぇよ!」
俺は耐えきれなくなって、思わず叫んでいた。
暗闇の中に、声がこだまする。
「そんな……そんなわけないじゃないッスか!何があっても、どんな理由があっても、親が恋しくない子供がいるはずないッスよ……」
「あんた……」
ルイーゼさんが足を止め、振り向く。
俺は気がついたら、泣いていた。
自分の親のことを考えちまうと、もう、駄目だった。
普段は厳しいけど、男らしい俺の父さん。
普段は優しいけど、口うるさい俺の母さん。
二人は、息子がいきなり消えちまってどう思ってるだろう?
どんなに心配させてしまってるだろう?
父さんの性格を考えると、毎晩夜遅くまで起きてて、俺が帰るのを待ってるかもしれない。
母さんの性格を考えると、朝飯も弁当も晩飯も、毎日、俺の分をちゃんと用意してくれてるに違いない。
考えるだけで胸が痛んだ。
それだけで涙が止まらなかった。
「お願いだ、ルイーゼさん……ニナシスを迎えに行ってあげてくださいよ……子供が親の顔を知らないで生きていくなんて不幸すぎるよ……」
「ケンイチ……」
「ううっ……」
「……わかった。わかったよ、ケンイチ。ありがとう……あたし……ニナシスに会いに行くよ」
ルイーゼさんが慰めるように、俺の涙をハンカチで拭いてくれる。
う、なんか格好悪いけど、でも、どうしようもない。
いい香りのするハンカチは、俺の脳裏に母親を思い出させてくれた。
「ね、行こう、ケンイチ。今はここから逃げるんだよ。あたしもあんたを無事に逃がしたら、きっとこの街を出る」
そうルイーゼさんが言った時だった。
俺の背筋が、凍りついた。
(……!?)
彼女の背後で、『ボシュッ』と音がして、小さな火の玉がゆら~っと動くのが見えたのだ。
俺は目を凝らして、前方の闇を見つめる。
火の玉はゆっくりと移動して……そして、一つの顔を照らしだした。
「ラ……ラーズ……」
最悪だ……
火の玉に見えたのはマッチの火。
奴はそれで煙草に火をつけ、悠々とふかした。
その後ろには、大小の人影が蠢いている。
ち、畜生……なんて対応が早いんだ……
「随分と臭うところに――忍び込んだもんだな?」
俺達の逃亡劇に慌てた様子は微塵も無い。
奴は、そこでもう何時間も前から待ってましたと言わんばかりに、余裕の笑みを浮かべて壁に寄り掛かっていた。
「ラーズ!?あ、あんた、どうして!?」
「残念でならないよ、ハニー。まったく、なんてことだ。お前には目をかけてやってたのに……」
口ではそう言いながらも、奴の顔には笑みが浮かんでいる。
「ち……違うの、ラーズ。その、彼は、勇者なんかじゃなかったのよ。ただのガキよ。ほら、見たら分かるでしょう?」
「うん、うん」
「ほら、あんたがゲームだって言ってたじゃない?これはその延長みたいなもんよ」
ルイーゼさんの必死な言い訳を、ニヤニヤしながらラーズが訊く。
その様子を見て、俺は確信する。
駄目だ、と。
どんな必死の言葉も、奴の底の見えない、ブラックホールのような心には全く届かない。
奴はあくまでも魔王らしく、自分のやりたいようにやるだけだ。
ここから先は、奴の気分次第でしか状況が動かないだろう。
(いや、ここは少しでもこっちがイニシアチブを取ってやる……)
俺は腹にぐっと力を入れた。
「待ってくれ、ラーズ」
「ん?何だい?勇者ケンイチ」
「この人は関係ない。俺がそそのかしたんだ。俺の――異世界フェロモンで」
「ぷっ!」
おっ、どうやらツボにはまったらしい。
ラーズの大きな笑い声が暗い下水に響き渡る。
「はっはっはっは!……あー、面白ぇ。最高だ、ケンイチ」
「センキュー、ラーズ。さぁ、そこで提案だ」
「聞こう」
「一対一で勝負しようぜ」
そうだ。
戦わなくてはならない。
根拠の無い自信だけが俺の支えだ。
「俺が勝ったら、全員を逃がす。ルイーゼさんも自由にする。あんたが勝ったら、えーと……まぁ、好きにすりゃあいい」
「……」
「返答や如何に?」
「ケンイチ……君は本当に最高だ。このボンクラどもなんぞよりもよっぽど男らしいぞ」
ラーズは自分の背後に立つチンピラどもを指さして言う。
それから、天を仰いで恍惚とした表情を浮かべた。
「アーーーーーア……その言葉――その言葉が聞きたかったんだ……!」
うお、本当に危ないヤツだ。
だが、そんなことに動揺してはいけない。
ここはあくまでも冷静に……
「ラーズ、やるのか?やらんのか?」
「やるやる」
予想通りの二つ返事だった。
「やらない理由が無いよ、ケンイチ」
「よし。でも、ここは臭いし、狭い。どうだろう、外に出てからやらないか」
「いいとも。ウワァオ!血が滾ってきたぞ」
ラーズは狭い道を、小刻みにステップを踏みながら、さも愉快そうに歩いていった。
チンピラどももそれにぞろぞろと続く。
ルイーゼさんは真っ青な顔でこちらを向いた。
「ケンイチ……あんた!」
「ここじゃあ、絶対に二人とも逃げられないッス。外に出れば、隙を見て何とかなるかもと思って……」
「バカ!あんたはあの男の怖さを知らないんだ」
「大丈夫ッス」
俺はルイーゼさんのまだ震えている肩に、そっと手を置いた。
「勇者が魔王を倒すのはお約束……というか、決まりみたいなもんですよ」
もちろん、強がりだ。
勝算は無い。
勝てる気もしない。
(だが、やるしかないんだ……)
戦う意志だけは手放したくない。