Comme une bête (ヤッフォン教授視点)
「勇者は殺すべきです」
「ん?」
意気揚々と自室に引き揚げてきた魔王ラーズに、開口一番でゼータが言った。
誰よりも熱心な魔王信奉者であるこの男が、勇者という存在に対してこれほどの危惧を抱いていることに、私は少なからず興味を覚えていた。
ゼータの反応を見るに、彼の秘蔵しているという『魔王文書』には、勇者に関する何らかの記述があり、そこには魔王を脅かす何らかの示唆が秘められているのだろう。
それは何か?
異世界から召喚される人間を研究する者にとって、これほど興味をそそられる物は無い。
(見たい……『魔王文書』……)
私は何度も頭の中でそれを夢想した。
遺跡から発掘された先史の遺産。
そこに記されている、異世界の記述。
預言書なのか?
それとも、何らかの確定要素に従って著された分析書なのか?
『勇者典範』だけではどちらとも断じがたい。
私の推測では、『勇者典範』と『魔王文書』は二巻で一つなのだ。
(この二つを照らし合わせてみれば、異世界召喚という不可解な現象についても、何かしらの説明をつけられるだろうに……)
私は焦燥感に駆られ、身悶えした。
ゼータは決して『魔王文書』の内容を私に明かそうとはしない。
驚くべきことに、魔王本人にさえその全容は伝えていないという……
一体、そこに何が書かれているというのか?
「今すぐ首を刎ねましょう。魔王である貴方様ならば難しいことではありません」
「あんたはさっきからそればっかりだな」
さも面倒くさそうに、ラーズは手をひらひらと振る。
「勇者を軽んじてはなりませんぞ!」
「……」
ラーズは私の目から見ても趣味が良いとは言えないような金飾の立派な椅子に腰かけ、目の前の机の上にダン!と両足を投げ出した。
いつも顔にはゆったりとした笑みを浮かべているラーズが、珍しく、不機嫌であることの意思表示をしたのだ。
当然、ゼータも少し身を竦めた。
「……なあゼータ、あんたのことが好きになりかけてたんだぞ。こんな些細な問題で俺達の仲が壊れてしまうのはお互いに望ましいことじゃないだろう?」
「こ、これは……差し出がましい口を挟みました。魔王ラーズ様……」
一歩下がって謝意を述べると、ゼータは深々と首を垂れた。
それでも、その目にはいまだに不満そうな光が宿っている。
「しかし、私は……」
「ラーズ様ァ」
そこへ扉を開けて、背の低いカエル顔の男が部屋へ入ってきた。
両手に、いくつかの荷物を抱えている。
「おっ、持ってきたな」
「まったく、驚きましたねェ」
カエル男はラーズの前に抱えてきた品々を広げて見せた。
「女は二人とも小金持ちでさァ。金貨は二人合わせて八十枚ほど持ってやしたぜ。野郎は無一文でしたがね」
「ほほう……あの二人、よほど名のある家の御令嬢なのかな?」
「さぁてねェ……?身につけてる服も上等なもんでしたからねェ」
「おいおい、コリンチャ。まさか脱がしちゃいないだろうな?」
「そうしたいのは山々でしたがねェ」
カエル男――コリンチャ(私はその名を今日初めて知った)は下卑た笑みを浮かべて舌なめずりをした。
「ラーズ様の御命令通り、指一本触れちゃいませんよ」
「そうそう。昔は裸でも良かったんだけどな。最近は脱がせる楽しみにも気付き始めたんだ」
「へっへ……おさすがで……」
何が「おさすが」なのかは私には判然としなかったが、どうやらあの勇者とともに囚われていた女二人に関する話のようだった。
ふむふむ、なるほど。
つまり、忠実なる魔王の僕たるコリンチャはあの哀れな虜囚三人の持ち物を接収し、己が主のもとで検分しようとここへ持ち込んできたというわけだ。
「しかし、あのガキ、一丁前に剣まで腰に差してやがったんですぜ」
「どれどれ……ほー、こいつは立派」
ラーズがすう、と抜いた剣は確かに美しい光を放っていた。
「未練がましく『返せ』なんて言ってやがりましたぜ。何でも友人から貰ったもんだそうで……」
「ううむ、そうか……なら大事に使ってやんなよ」
そう言うと、大して興味も無さそうに、ラーズはぽいとコリンチャに剣を下げ渡してしまった。
コリンチャはその剣をさっそく自分の腰に差す。
しかし、彼の足が極端に短いせいで、鞘先がカチンと地面について音を立てた。
「おおっ、なかなか似合うじゃないか」
「へっへ……おありがとうございます」
「で、後は?」
「小娘のほうが上等そうなペンと手帳一冊、色っぽい女のほうは手鏡、短剣、口紅……」
「ゆ、ゆ、勇者のも、も、持ち物は?」
私はじれったくなって訊いた。
コリンチャは小馬鹿にしたような目をこちらに向けた。
「筆先の無いペンが一本と、飴玉二つ。へっ、その辺のガキでももう少しマシな物を持って遠足に行きやすぜ」
「よ、よ、よこせっ……」
私は彼の手からペンを奪い取った。
確かに、ペン先が無い。
一体これはどういう……
「教授。そいつは異世界のペンだ。胴体を回してみな」
「……お、おおっ」
なんとなんと、ラーズの言葉に従ってキリリと胴体部分を回すと、何と内部からペン先がひょっこり現れた!
「す、す、素晴らしい……!」
私は異世界の技術に驚嘆した。
この程度の細工は、勿論、こちらの世界の職人にも可能だろう。
しかし、たかがペンの如き小物に対してこれほどの余分とも思えるギミックを与えるということは、ラーズ、そしてあの少年がいた世界というのはよほど文明が進んでいたに違いない。
『異世界のペン』……いや、それだけでも十分に価値のある代物である。
「ふうん……」
私の隣から白い手が伸びてきて、机の上の手帳を取る。
振り返ると、ラーズの情婦だった。
ええと、名前はなんて言ったっけ……
「ルイーゼ、何か面白いことが書いてあるかい?」
そうだ、この女はルイーゼ。
「……なんだか、小難しいことが書いてあるわ。おまけに紀行文みたい……」
パラパラとページをめくっていく指が、ふと止まった。
「……」
女はほんの少しの間、押し黙っていた。
(ん……?)
私は異世界の研究を始める前は、人間の思考機能論を専攻していたので、人間の細かな動作を読み取ることが得意だ。
したがって目の前の女の、ちょっとした顔色の変化を見て、その異変に気付いた。
瞳孔が少し広がり、舌で唇を湿らせる。
非常に小さな動きではあるが、これは明らかに動揺している証拠だ。
「どうした?何かあったかい?ハニー」
「……いいえ、何も無いわ。ラーズ。何も」
「うん?」
「ほ、本当に変なノート。『勇者の生態』なんていう見出しまで載ってるのよ」
「ゆ、ゆ、勇者の生態……!」
私はその手帳を女の手からひったくった。
「きゃっ、何するのよ!」
「ゆ、ゆ、勇者の生態……ふむふむ……な、な、なるほど……」
そこには正確な観察に基づく勇者の能力や特徴が、微細にわたって記されていた。
(うむむ、見事だ……見事な研究ノートだ……)
何者かは知らないが、これを著したのが虜囚の女二人のうちのいずれかだとしたら、かなりの学術的知識と文才を持つ才媛であることは疑いようもない。
私が解読した『勇者典範』の内容を、奇しくも補完するような形で、様々な注釈が付け加えられている。
(『勇者は他人に善行を施すことで勇者タイマーをリセットすることができる。しかし、それは人間でなくても有効である。実証済み。例えば、樹上から転落した鳥の巣を、再び元の位置に戻すだけでもそれはできた』)
ほう、これは新しい発見と言える。
別の動物でも勇者タイムのリセットが可能とは。
では、植物はどうなのだろうか?
花に水をやるというのは?
この点に関してはテストの余地がある。
(『女性の身体への不純な動機によるボディータッチは禁止。勇者タイムにペナルティ。これは強引に触らされたという場合でも有効である。ただし、邪な心が無い場合のボディータッチは無効。実証済み』)
ふむふむ。
では、女にまるで興味の無い勇者であれば、この点は問題無いということになる。
「ね、ラーズ」
私が手帳の内容に没頭している傍らで、部屋の隅に控えていた女が甘い声を出した。
「うん?何だい、ルイーゼ?」
「……私、その、ちょっとお化粧直しをしてくるわ」
「おや?珍しいな?今すぐ?何かのお楽しみの用意とか?」
「当ててみて」
「ダメダメ、どんなにいやらしい格好をしてきても今夜は可愛がってやれないぜ」
「うふん……ば・か♪」
女ならではの奇妙な媚びを見せて、そそくさとルイーゼが部屋を出ていった。
ううむ、女というのは実に不可解な生き物だ。
泣いていると見せて笑っている。
悲しんでいると見せて怒っている。
なにやら困惑したかと思いきや、急に男に媚びて見せる。
俗情というものがあまりにも多い生き物に思えてしょうがない。
「ふーん……?」
ラーズはというと、女の消えたドアをしばらく見つめ、何やら色々と思案を巡らせているようだった。
この男も全く不可解だ。
俗情などというものを遥かに超越した、屈折した思考回路と強靭な意志、そして恐るべき実行力の持ち主である。
その点を考えると、確かに魔王に相応しい存在と言える。
(……では、あの少年は?)
ケンイチという名の、あのあまりにも若く、未熟な勇者。
彼は勇者に相応しいのか?
とてもそうは思われない。
このラーズという男に比すると、あまりにも差がありすぎる。
(そのことに関しても研究の余地ありだ……)
私は再び手帳へ眼を落とす。
そこで気になる記述を発見した。
(『勇者の体は完全な不死身ではない。物理法則はそのまま適用されるため、空気が無くなれば窒息する。無理が祟れば過労死の可能性も。乗り物酔いもするようだ。実証済み』)
ほほう……
では、手足を拘束した後に海中に沈めるといったような手順を踏めば、勇者を殺すことも可能なのだ。
(……魔王も殺せるのだろうか?)
そんな考えが頭をよぎり、私はちらりとラーズのほうを盗み見た。
そして――戦慄した。
彼と目が合ったのだ。
彼はこちらをじっと見つめていたのだ。
いや、それだけならば何も驚くまい。
私を戦慄せしめたのは、その目だ。
表面上は余裕に満ちた態度を取りながらも、その目だけは一時も油断というものをせず、この部屋の中にいる全員の一挙一動を、その心中さえも完全に把握しているかのように鋭く光っていたのだ。
(み……見透かされている……?)
当然、そんなわけが無いというのは分かっている。
しかし、私はその眼光に射すくめられ、呼吸することもままならなかった。
冷や汗が額に浮かぶ。
「どうした?教授?その手帳に何かございましたか?」
「ラ、ラ、ラーズ……わ、わ、私は……」
「うん?聞こえないな?もうちょっとハッキリ言ってくれないか」
「ち、ち、違う……こ、こ、ここには……ゆ、ゆ、勇者の……ゆ、ゆ、勇者のことが……」
「勇者の何が?」
「か、か、彼が、い、い、今まで旅してきた道程がし、し、記されておる……」
私はなんとか絞り出すようにそう言った。
「お、お、女の言うように、き、き、紀行文のようだ……い、い、今まで辿って来たみ、み、道筋……ル、ル、ルジェ、パ、パ、パルミネ、ほ、ほほう、ア、ア、アルヴァンの魔法塔にも行ったか……」
「アルヴァンの魔法塔だと!?」
ゼータが叫んだ。
「奴め!一体何をしに魔法塔へ行ったのだ!?」
おや?これはどうしたことだ?
彼は一体何を興奮しているのか?
「ヤッフォン!勇者はあそこで何をしたのだ!?」
「こ、こ、子供をた、た、助けたと書いてある……ふ、ふ、二人の子供を……」
「おのれ!忌むべき者め!……よりによって魔法塔へ!」
ゼータは完全に我を失って怒り狂っている。
「ラーズ様!やはり殺しましょう!勇者に死を!」
「いーや、俺はもう少しあのケンイチで遊びたい」
「一刻の猶予もなりません!」
「もう、うるさいね」
ラーズの手がヒュッと素早く動き、それと同時にゼータの声が止まった。
「……ッ!!」
私は茫然とその光景を見ていた。
(な……)
まるで手品のようだった。
先ほどまで机の上にあったペン――それが突然消え、代わりにゼータの喉から生えたかのように見えたのだ。
そのペンがラーズの手によって突き刺されたのだと気付いたのは三秒ほど後で、それはゼータがぐらりと力を失って倒れ込んだのとほぼ同時だった。
魔王教団の司祭は床の上で二、三度大きく痙攣し、そのまま動かなくなった。
(し、死んだ……)
間違いなく……魔王が彼を殺したのだ。
一瞬、静寂が訪れ――それから私は、なんとか口を動かした。
「な、な、な……」
「んん?」
「な、な、なんということを……!」
「おほほぅ、ご覧の通りさ」
そう言って肩をすくめて見せるラーズの様子からは、罪悪感はもとより、後悔の念さえも微塵も感じられなかった。
(な、なんという……)
なんと恐ろしい男だろう!
人を一人殺めた直後だというのに何事もなかったように平然としている。
逆に、その光景を目の当たりにした私とコリンチャの方が動揺していた。
カエル顔の小男に至っては――この手の暴力沙汰は見慣れているだろうに――カチカチとこちらにも聞こえるほど大きな音を立てて歯を震わせ、怯えていた。
私は思わず声を荒げた。
「し、し、しかし、ぜ、ゼ、ゼータは……!か、か、彼は、お、お、お前のみ、み、右腕では……!?」
「右腕……うむ、右腕だ。確かに。惜しい人間を亡くしたもんだよ。俺も残念でならない」
ラーズはひとまず沈痛な面持ちというのをして見せたが、すぐにこらえきれないといった様子で相好を崩し、親しげに私の肩を抱き寄せた。
彼は耳元で囁いた。
「なぁ、教授。例えばこう考えてみてくれないか。あんたが便所で用を足した後に自分の右腕が言う。『おい、こっちの手でケツを拭くんじゃないぞ』と、これだ。どう思う?」
「……?」
「煩わしいだろう?そう、『なんだよ、右腕の分際で指図しやがって!』と思うはずだ。まぁ、つまり――そういうことさ」
私は呆気にとられていた。
彼の発想の飛躍についていけなかったのだ。
「……?」
「ま、難しく考えないことさ。これはあんたにとってもラッキーなはずだぞ?」
「ど、ど、どういうことだ……?」
ラーズは答えるかわりに、ゼータの亡骸の前に屈みこんでその懐をまさぐり始めた。
「えーっと……うん?おおっ、そう、こいつだ」
そう言って取り出したのは、一本の鍵だった。
「そ、そ、それは……?」
「ゼータの部屋の鍵さ」
「?」
「これで――」
ラーズは私の目の前でそのカギをブラブラと揺らす。
「『魔王文書』はあんたの物」
私の手の平の上に、鍵がポトリと落とされた。
「願ったり叶ったりだろう?」
「!!」
お……
おお……
なんということだ。
そこまで明確に私の心中が見透かされていたとは……!
「ラ、ラ、ラーズ……」
「善人になるなよ。俺の……魔王の傍にひっついている以上はな」
低く冷たい声でそう言うと、ラーズは恐怖にまだ固まったままの私の肩をぱん、ぱん、ぱんと三回、軽く叩いてから、小男へ向き直った。
「コリンチャ!」
「へ、へい……っ」
突然冷水を浴びせられでもしたように、小男の声は上ずっていた。
「手下を二人ほど連れてきなよ。ちょっと面白いゲームが始まるぞ」
「へ、へぇ……」
「それじゃ、教授。後はごゆっくり」
それだけ言うと、ラーズはコリンチャと一緒に扉の外へ消えた。
「……」
取り残された私は、ぼんやりとゼータの亡骸を見下ろした。
顔は土気色に変じ、その虚ろな目は宙を睨んだまま、もはや何ものも映してはいない。
喉から流れ出る血は赤いカーペットに吸い込まれ、黒い染みをじわじわと作っていった。
(お前も私も、とんでもない男に関わってしまったようだな……)
その、あまりにも唐突で無意味な死に様には、哀れみすら覚える。
だが……
だが、私は手の中にしっかりと鍵を握り締めていた。
とうとう『魔王文書』が手に入る!
悔しいがラーズの看破した通りである。
学究心が倫理観を駆逐したのだ。
ゼータの死を悼む気持ちよりも、抑えきれない興奮が私の胸に渦巻いていた。
ああ……こうして人は、獣になっていくのだ。