仕掛けられた罠……
外へ出ると、もう太陽が山際へ顔を隠そうとしていた。
二つの影法師が夕陽の朱色に染まる地面に揺れる。
俺とメイヘレンは『清風荘』へ向かって坂を下っていた。
フェルミナは皆で泊っていけばいいのに、と実に寂しそうだったが、メイヘレンがその申し出を遮ったのだ。
俺はというと、気まずい雰囲気に心が折れそうだった。
「何をそんなに縮こまっているんだ?私が怒るとでも思ったのかい?」
「いや……」
一応否定はするが、図星だ。
俺はメイヘレンに見つかった時、心臓が口から飛び出すほど驚いた。
浮気の現場を見られたような、後ろめたい気分になったのは事実だ。
『こんなところまで私を追って来て何様だ!』と、いきなり殴られるんじゃないかとさえ思った。
だが、メイヘレンは怒りもせず、理由も聞かなかった。
むしろ、普段よりも上機嫌な様子で俺達の会話に加わって、フェルミナを笑わせたり、俺をイジったりで、話題の中心になって場を盛り上げていたのだ。
俺は肩透かしを食らったように拍子抜けしてしまった。
だが、やっぱり親しき仲にも礼儀あり、だ。
ちゃんと謝っておいたほうが良いだろう。
「なぁ、悪かったよ……その、余計な詮索はしたくなかったんだけど……」
「謝る必要は無いよ。まぁ、確かに驚いたが……ジュニィに連れてこられたんだろう?彼女はいつも強引だからね」
どうやら、本当に怒ってはいないようだ……
しかし、それはそれで、俺にとっては少し気がかりだ。
なんだか、彼女らしくないんじゃないか?
ちょっとした不安が首をもたげた。
夜になった。
俺達三人は二階のメイヘレンの部屋で、和やかに食卓を囲んでいた。
「……と、いうわけでね。病気がちな妹の顔を見たかっただけなんだ」
「ふーん……」
「妹さんもすごい美人だったよ」
「エロスボーイならではの着眼点ね」
「ううっ!」
「おやおや。『も』ということは、私のこともそう思ってくれているのかな?」
「うううっ!」
「メイヘレン、この『思春期真っ只中ボーイ』は女であれば誰にでも発情する危険極まりない動物なのよ。あなたも私も彼の頭の中ではどんなことをされてるか分かったモノじゃないわね」
「そ、そんなことは無いッ……(汗)」
「うん?語尾が弱々しいぞ、ケンイチ」
「はーん!四面楚歌だッ」
結局、俺は夕食の間中ずっとイジられ続けた。
食事が一段落したところで、宿の老主人がティーセット一式を載せたお盆を持って来てくれた。
「食後の紅茶をお持ちいたしました」
「ああ。御苦労様。後は私がやるよ。あなた達はもう休んでいい」
「では、メイヘレン様。私どもは下の階におりますので、何かございましたらいつでもお呼びください」
「ありがとう。おやすみ」
宿の主はティーポットをメイヘレンに渡すと、こちらへ軽く会釈をしてから部屋を後にした。
本当に感じの良い宿だな、ここは。
「小さな村だからね。客が来ること自体が珍しいから、こんな風におもてなししてくれるのさ」
「まさに隠れ宿だなぁ……温泉もあるらしいし。そういや、温泉はどうだった?」
「悪くないわね。混浴っていうのが頂けないけど」
「こ、混浴だと……?」
「ばーか」
呆れたような眼で俺を見たプルミエルは、メイヘレンからティーカップを受け取ると、それを一口啜った。
しかし、俺は気が気ではない。
「ま、まさか、男が入ってたのか!?チクショウ!混浴チクショウ!」
「んなワケないでしょ。私一人よ。立札に……」
「?」
途中で急に言葉を切ったプルミエルは、キッとメイヘレンのほうを睨みつけた。
メイヘレンも、冷めた目でそれを受け止めている。
な、なんだ?どうしたんだろう?
急に張り詰めた空気。
そして、緊迫感が場を支配する。
俺は二人のただならぬ雰囲気に、うろたえることしかできない。
プルミエルは険しい表情で苛立たしげにドン!とテーブルを叩いた。
「……あんた……どうして?」
「茶番は終わりということだ」
「おぼえて……なさいよ……」
弱々しく消えかかる語尾でそう呻くと、プルミエルの身体はぐらりと傾いて……
そのまま床に倒れこんでしまった。
「えっ!?ええっ!?」
ど、ど、ど、どうしたんだっ!?
俺はたちまちパニックに陥ってしまった。
だって、ワケが分からない!
さっきまで、あんなにピンピンしていたのに!
「プ、プルミエルッ!!しっかりしろッ!!」
俺は慌てて跪き、彼女を抱え起こす。
幸い、息はしている。
だが、なぜ急にこんなことになってしまったのか、全く見当もつかない。
何かの発作か?
悪いものでも食べたのか?
温泉の成分が肌に合わなかったのか?
しかし、メイヘレンの落ち着き払った様子を見て、俺は彼女が何かしたのだと直感した。
「メイヘレン!どういうことだ!?何をしたんだ!?」
「騒ぐな、ケンイチ。言ったろう?茶番は終わりだ」
「何を言ってるんだ!?」
「これだ」
メイヘレンは懐から、ガラスの小瓶を取り出した。
その中には、光を浴びて緑色に透ける液体が満たされている。
「『ウィノセンタール』……これは神経に作用する薬でね。苦痛も無く、眠りながら、静かにゆっくりと心肺機能が麻痺していくという、いたって平和な毒薬なんだ」
「ど、毒!?」
「明日の朝までに解毒剤を呑ませなければ、プルミエルは死ぬ」
「し、死ぬ……だって?」
「ああ。しかし、安心したまえ。解毒剤は私が持っている」
メイヘレンは冷たい表情で言い放つ。
そこには、先程まで和やかに談笑していた面影は微塵も無い。
しかし、俺はここに至ってもまだ、メイヘレンの言葉をうまく理解できずにいた。
まるで現実味が無い。
なんでこんなことに?
さっきまでは、あんなに楽しくやっていたじゃないか!
「ど、どうしてなんだっ……!なんでこんなことを!」
「君の力を借りたくてね」
「そんなの言ってくれればなんだってやってやるのに!」
「そうもいかんだろうね。君の今までの善行とは比べ物にならないほど困難なことさ。おそらくは……いや、間違いなく命がけになる。プルミエルも反対するだろう」
「……俺に何をさせるつもりだ?」
メイヘレンはにっと微笑むと、長い足を組み直した。
「『スハラム・アルヴァン』の名は覚えているな?」
俺は頷いた。
勿論、忘れるわけがない。
世界征服なんていう子供じみた野望を抱いていた古代の魔道師だ。
ルジェの港町にそびえ立つ、あの物騒な尖塔のシルエットが俺の脳裏によぎった。
「そいつがどうした?」
「アルヴァンは恐るべき野心家であると同時に、偉大なる魔道研究家でもあった。彼はその研究の成果の一つである、とある『秘宝』をこの山中にある宝物庫へ封印した。それを、私と一緒に取りに行って欲しいんだ」
「秘宝?」
「『深閑の霊薬』だ」
「霊薬……?」
「魔力を凝縮させた万能薬。万病をたちまち治癒するものだという……」
俺はそれを聞いて、ピンときた。
ああ……そうか……
「妹の――フェルミナの為、なんだな……」
「……」
「気持ちは分かるよ……」
「……」
「でも、お姉さんがこんなことをして……あの子が喜ぶわけがないだろう」
「フェルミナが喜ぶかどうかは問題ではない!」
メイヘレンは立ち上がり、我慢ならないといった剣幕で叫んだ。
「『気持ちは分かる』だと!?いや、君達に分かるものか!私はあの子の為に生きているんだ!あの子の為だけに!手段や方法など問うところではない!」
冷たい仮面の下の、驚くほど熱い、剥き出しの感情。
それが堰を切ったように吐き出される。
「私はあの子が生きて……ただ生きてさえいてくれれば……!!」
「メイヘレン……」
「……」
一瞬にして燃え上がった激情を静めようと、メイヘレンは椅子にドカッと座り直し、しばらく宙を見つめる。
その瞳には涙が浮かんでいるように見えた。
彼女は大きく息を吐くと、少し間をおいて、自分を落ち着けてから再び口を開く。
「……選択肢を与えたつもりはない。君は私と行くしかないんだ。プルミエルを死なせたくはないだろう?」
「……行くよ」
確かに選択肢は一つ……俺がやるべきことは一つだけだ。
覚悟を決めた。
俺は驚くほど軽いプルミエルの身体を抱きかかえて、その身をソファに横たえる。
眠り姫の顔は背筋がぞくっとするほど美しいが、それを堪能している場合ではない。
「しばらくの辛抱だ、プルミエル……」
俺はブレザーの上着を脱いで彼女にかけてやると、メイヘレンに向かって振り向いた。
「さぁ、どこでも連れていってくれ」
「よし」
メイヘレンはしっかり頷くと、コートを翻して階段を下っていく。
俺もその背中について行き、外へ出た。
世界は、すっかり夜の闇に包まれている。
空の星さえも雲に覆われているのか、その光の瞬きが見えない。
(長い夜になりそうだ……)
俺は、寒くもないのに身震いした。