出た、森の賢者
森は奥地へ進むほど薄暗くなっていき、漂う空気にもどんよりとした湿っぽさが含まれている。
樹海……そんな言葉が俺の脳裏をよぎった。
地面には太い木の根が複雑に入り組んでいて、俺は何度も足を取られて転びそうになる。
「もー、だらしないわね」
プルミエルがよろめく俺を一瞥して、冷たい言葉をくれた。
うーむ、この娘、ツンなんていうレベルじゃないぞ。
見下げ果てたヤツ、と言わんばかりの冷たい目線が心に突き刺さって痛い。
「もう少しマシに歩けないの?」
たしかに彼女はヒラヒラの、いかにも歩きづらそうなドレスを着こんでいるのに、スイスイと滑るように地面を歩いていた。
しかし、俺は地元民じゃないんだから仕方ないだろう?
おまけに色々なことがいっぺんに起こりすぎて、疲労感も半端ない。
もう一歩も歩きたくないヨ!
「なぁ……少し……休憩しないか?」
俺は肩で息をしながら、勇気を出して言ってみた。
ええい、軽蔑するならしろ。
「そうね……」
プルミエルは肩をすくめた。
「そうする?」
おおっ、意外と話せばわかる娘だ!
好きになりそう!
「あなたに無限に時間があるならそうしてあげるけど」
「……」
俺は時計を見る。
『21:18』
さっきから三十分も歩いていた。
「なぁ……そのエスティなんとかって人の家にあと20分くらいで着けるかな?」
「しっかり歩けばギリギリでね」
ギリギリ20分じゃマズいだろう!
残り一分で何ができる?
ウルトラマンでさえ皆に心配され始める時間だし、カップ麺だって食えやしないぞ。
「で、休んでく?」
プルミエルはいたって冷静で、無表情だった。
そこには焦りも不安も見受けられない。
泰然自若。
俺が生きても死んでもどっちでもいいような感じだ。
くそ、なおさら死んでたまるか!
「……いや、行こう」
俺は覚悟を決めた。
前進あるのみだ。
生きるためには歩き続けなければならない。
「なぁに、君が疲れてると思ったのさ……」
とりあえず、英国紳士風の格好をつけた言い訳をしてみる。
どんな時でも見栄を張るのは男の悲しいサガだ。
ロマンシング・サ・ガ。
いぇーい、もうワケわからんゼ。
異様な状況下での過度のストレスにより、頭がぼんやりして何も考えられなくなってきた。
「じゃあ、行きましょ」
「おう。慌てず、焦らず、しかし急いで行こう」
再び行進が開始された。
今度は少し、早足で。
そして、そこからつまづいたり転んだり罵られたりしながら歩くこと、10分。
「あ、着いた」
プルミエルの言葉に、俺は顔を上げる。
森がそこで切れていて、光が見えた。
おお、良かった!命がけの過酷なウォーキングもここで終わりだ。
思ったよりも早く着いて、何よりだった。
それは古びた家だった。
いや、古びた、というのはちょっと過大評価だ。
正確には廃屋に近い。
壁の漆喰は半分以上が剥がれ落ちていて、屋根には蔓植物がびっしりと絡みついている。
暗い森の中でここだけ周囲に樹が無いので、上方には丸天井のように見える空があって、そこから注ぐ日の光がまるでスポットライトのようにその廃屋を照らしている。
いかにも、魔法使いが住んでいそうな家だ。
雰囲気は抜群。
俺は時計を確認する。
『08:09』
「よかった、間に合った!」
「そうね」
プルミエルは俺の感動に同調せずに、すぐにその家のドアをノックした。
迅速な行動、恐れ入る。
ちなみにその古びた木製のドアにもびっしりと蔦が絡まっていた。
「エスティ!いる?」
プルミエルの声に応えるように、軋む音を立てながらドアがひとりでに開いた。
おお、すっげぇ魔法使いの家っぽい。
「入っていいわ」
「あいよ、おじゃましまーす……」
促されるままに、俺はプルミエルの先に立ってドアをくぐった。
室内は非常に暗い。
目が慣れるまでにずいぶん時間がかかったが、やがて、うっすらと部屋の輪郭が見えてきた。
そこは本の楽園だった。
四方の壁は全部本棚になっていて、そこにはぎっしりと本が詰まっている。
わお、まるで図書館だ。
「ほら、立ち止まってないで、もう一つ奥の部屋よ」
プルミエルに背後からつつかれて、俺は部屋を横切り、その奥の扉を開いた。
「おおわっ!」
間抜けな声を上げたのは俺だ。
前の間と違ってその部屋には四隅に燭台が立っていたので、室内は明るかった。
この部屋も四方が本棚に囲まれていたが、その中央に机がある。
そして、そこには頭からローブを被った老人が座っていた。
声が出てしまったのは、いきなりそいつと鉢合わせてしまったからだ。
しかし、これは……
(魔法使いだ……本物だ!)
異世界初心者の俺にでもすぐに分かった。
干したプルーンみたいに皺だらけの顔。
腰に届くほど長い白髪。
そして、それと同じくらい白く、長い髭。
悲しげに細められたその目は、それだけで強い魔力を放っているように見えた。
その姿は漫画やゲームに出てくる魔法使いそのものだ。
「プルミエルか」
しわがれた声。
それは生半可ではない威厳を感じさせる。
「誰かを連れてくるとは珍しいのう……」
「エスティ、聞きたいことがあるの」
プルミエルは積み重なっている本の上に腰を下ろした。
おいおい、そんなに無遠慮でいいのかよ。
できれば相手の方のご機嫌を損ねない様にしていただきたいんだが。
しかし、当の老魔法使いからはお咎めの声が上がらなかったので、俺は少し安心した。
一方のプルミエルはそんな俺の内憂を気にも留めていない様子だった。
「この男ね」
「ふむ」
「『勇者』なのよ」
「ほう!」
エスティ老師の目が、俺へ向けられる。
俺はとりあえず愛想笑いを浮かべてそれに応えた。
「おう、生きている勇者を見るのは三年ぶりじゃな」
「でも、妙なことが」
「妙?」
「彼、今頃はタイムアップで死んでてもおかしくないの」
確かに。
まぁ、今も着々と死につつあるわけだが。
「ところが……」
「時間がリセットされたのじゃな」
「そう!初めて見たわ。エスティ、何か知ってるのね?」
「うむ」
老人は俺を手招きした。
俺は一歩前へ出る。
「君。名前は何と?」
「は、はいっ、ケンイチです」
「ケンイチ、私の肩を揉みなさい」
「……は?」
俺の頭の上に、『?』マークが出た。
エスティ老師が何を言ってるのか、全く理解できなかった。
肩を揉めって言ったのか?
聞き間違ったのかな。
「今、なんと?」
「私の肩を揉みなさい。生き延びたいんじゃろう?」
うーむ、ワケわからん。
どういうことだろう?
ボケているようにも見えないし、何よりも老師の目は真剣そのものだった。
こいつは断れる雰囲気じゃない。
「それでは……失礼します」
俺はとりあえずエスティ老師の背後に回って、肩を揉み始めた。
おお、固い。結構凝ってるね、老師。
「ふぃ~……」
老師がため息を吐いた。
「あ、そこ、もう少し上……そうそう、そこね」
エスティ老師の言われるがままに俺は指を動かした。
この奉仕活動にはきっと何か深い意味があるに違いない、と自分に言い聞かせながら。
「もう少し力入れて。あ~、そう!いい、いいぞ……」
「……」
……五分くらい揉み続けて、俺はだんだん焦ってきた。
ヤバい、もう時間が無い。
気が気ではなくなってきた。
頼む、そろそろ教えてくれ老師ィ!
「……そろそろ説明してくれない?」
おおっ!良くぞ言ってくれたプルミエル!好きだ!
「慌てるでない……」
「や、老師、その……自分にはもうあまり時間が無いんですけど……」
「時間?何の時間じゃ?」
「だからこの……」
時計を見る。
『55:22』
お?
おおっ!
「また戻ってるゥ!」
俺は思わず天を仰いだ。
プルミエルも、俺の時計を覗き込んできた。
「あ、戻ってる」
「ふふふ……そうじゃろう」
「どういうこと?」
「『勇者タイム』じゃよ」
老師はほぐれた肩を回しながら、ゆっくりと語りだした。