エスケープ・フロム・巨大魚
「……だから、私はミハイルにこう言ってやったのだ。『お前は父上や重臣たちの機嫌取りをしているだけだ。お前には統治者としてのカリスマも無ければ、裁量も無い』とな。それを聞いた時の弟の顔と言ったら……」
長ぇなぁ、こいつの話は……
まずは女にモテるとか喧嘩が強いとか、そういうくだらない自慢話から始まった。
続いて、聞いただけでもフィクションと分かるような、ホラにまみれた様々な武勇伝を聞かされた挙句、今度は出来の良い弟へのコンプレックスに裏打ちされたバッシングがもう10分も続いている。
俺は適当に相槌を打ちながら、勇者タイムを確認してみた。
『35:07』
おおっと、少し心許なくなってきたな。
そろそろここから助かる方法を考えても良い頃だ。
というか、心のどこかでプルミエルとメイヘレンが俺を助けに来てくれるものだと漠然と考えていたんだが、それも別に確固たる根拠があることではなく、俺の完全な思い込みでしかないのだ。
そもそも、この巨大魚の腹の中から、どうやって俺達を助け出せるというのか?
(うーむ……楽観的すぎたか……)
状況は一向に好転しない。
こういう時は自分で何かアクションを起こさないことにはどうにもならない。
俺はとりあえず腰を上げて、光るプールへと入っていった。
「ま、まて……どこへ行く……?」
「出口が無いか探してみる」
「そ、そっちにあるのか?」
「だから、それを調べに行くんだよ」
「そ、そうか。そうだな。そうしろ」
「見つかったら教えてやるよ。そこにいろよ」
「ま、まてまて!わ、私も行く……お前は出口を見つけても帰ってこないかもしれん」
「はぁ?帰ってくるって、ちゃんと」
「し、信用できん。私の為に、お前が戻ってくるはずが無い」
「……」
多少イラッとはしたが、こいつの卑屈さや他人に対する不信感は、様々な劣等感や重圧から自分を守るための防衛本能なのだろう。
そう考えると、少しだけ俺の中に同情の念が生まれてきた。
「分かった。じゃあ、行こう」
「うむ、行くぞ。……うぁ、ネチョネチョしてる……」
「そろそろ慣れろよ……」
俺とリシエルは、ザブザブと淡く光る粘液の中を進んで行った。
靴の中に入り込んでくる粘液はえらく気持ちが悪かったが、それよりも気味が悪いのは脈動する肉壁、そして、静寂だった。
さっきまではリシエルがペラペラと女子みたいに喋りまくっていたおかげで気付かなかったが、本当にここは無音に近い環境だ。
波の音も聞こえないということは、相当深いところまで潜り込んでしまっているのではないだろうか。
俺の脳裏に、重大な懸念が浮かび上がる。
ここを飛び出したはいいとして、深海だったらどうする?
俺と違って不死身ではないリシエルは水圧でペチャンコになっちまうだろうし、俺も海上まで息が続くかどうか。
状況は間違いなく俺たちに不利と思われた。
(くそぅ、ヤバいかも……)
俺の心に、大きな影がさした時だった。
「う、うぉ……!」
「ひぁ!」
突然、大きな揺れが起きた。
「な、な、なんだ!?」
「お、俺にも分からないよ!」
揺れはさらに激しくなり、俺達は粘液のプールの中で浮いたり沈んだり、ひっくり返ったりした。
「ごぼぁ!」
「うぶ!」
「へぶぁ!」
「どわぁ!……っぶぁ!」
何だ何だ何が起きてるんだ!?
そうするまいと思ってはいたが、無理だ。事態の急転に俺は激しく動揺した。
と、今度は大きく腹の中全体が傾いて、俺達は物理法則に従って、上から下へと流される。
「うおおおおおっ!?」
「ひぁぁああああっ!?」
運よく、目の前にバカでかい骨のような突起物が見えたので、俺は必死に手を伸ばしてそれを掴んだ。
リシエルは俺の脚を掴んだので、二人ともそれ以上流されずにそこにへばりついていた。
「離すなよ!」
「ネチョネチョしてるから掴みづらい!」
「それはこっちも同じ……」
言いかけたところで、俺は目の前の光景に声を失った。
ゆっくりと、シャッターのように、大きな口が開いていったのだ。
どうやら俺が掴んでいたのは、ヤツの一番奥の歯だったようだ。
怒涛の勢いで海水が流れ込んでくる。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
「ひぃぃぃぃぃぃィィィィぃッ!」
予想される展開は最悪だ。
このままじゃあ、オバダラの腹の中は海水で一杯になって俺達は溺死してしまう!
「うぶぁ!」
「がぼぁ!」
頭から大量の海水をかぶり、その奔流に、二人の体が翻弄される。
だめだ!
その場にしがみついていることが困難なほどの水圧が、俺に襲いかかる。
腕の力も無くなってきた。
だめだ!
俺はもう一度思った。
酸素が欠乏している。
俺の体が悲鳴を上げていた。
健一、呼吸をしろ、と。
そうだ、呼吸をしなくてはいけない。
だが、この水流の中だ。どうやって?
(くそ……)
肺が痙攣しそうになってきたときだった。
ぐん!と持ち上げられるような感覚とともに、水の勢いが衰えてきた。
(な、何だ……?)
身体の傾きも、やや水平に近くなる。
水は後方へ引いていき、幸いなことに、顔を上げると呼吸ができた。
俺は貪るように空気を肺に取り込む。
ああ、うまい!
「おい、大丈夫か?」
「ごぶぁ!げふぅ!げほげほ!」
足にしがみついていた奴もとりあえずは大丈夫そうだ。
しかし、一体何が起きているんだ?
俺はもう一度、顔を上げた。
すると、信じられないものが目に飛び込んできた。
光だ。
闇が水平に断ち切られたように、眩い光が口内に射しこんできたのだ。
光があるということは、そこは深海ではありえない。
なんと、そこは海面だった。
「おおっ……!」
さらに素晴らしかったのは、その光の中に、見覚えのある大きな影が見えたことだ。
「あれは……!」
「な、な、何だ!?一体、何が……!」
「メイベル・ルイーズだ!」
「な、何っ!?」
「しかし、どうして……ああっ!」
俺は、そこでようやくオバダラの身に何が起きたのか気付いた。
俺達のつかまっている場所と反対側の奥歯に、黒光りする剣呑な塊が引っ掛かっていたのだ。
錨だ。
そして、それはピンと張った太いロープに繋がれている。
なんと、メイベル・ルイーズ号が錨でオバダラを曳航しているのだ。
(トローリングか……?)
何にしても、
「スケールがデケェなぁ……」
俺が呆気にとられていると、メイベル・ルイーズから、こちらに向かって真っすぐ飛んでくるものが見えた。
見違えるはずもない。
宙に描かれる、炎の轍。
アレだ。
プルミエルの術戦車『ブオナパルト』だ。
「やった……!」
俺は歓喜の声を上げた。
「やったぞ!助かるぞ、俺達!」
「ほ、本当に……?」
ゴオオオオオオッという聞き慣れた爆音が、こちらに近づいてきて、停止する。
「ケンイチ、いるー?」
ああ、その声が聞きたかった!
「ココだっ!ココにいるぞォ!」
「あー、いたわね。ちゃんと口元にいてくれて助かったわ」
ブオナパルトが、ブルンと音を立てて降下してきて、俺達の眼前に現れた。
黒光りするイカした空飛ぶバイクに跨っているのは、それよりもさらにイカした美少女魔道師だ。
彼女が振り向いて、叫んだ。
「無事ね?」
「ああ。皇太子もな」
「さぁさぁ、オバダラが引っ張られて口を開けてる間がチャンスなの。これを……」
プルミエルが、鎖を投げてよこした。
あの、先に手錠のついたヤツだ。
俺はそれを手にとって、溜息をつく。
だが、それが俺を地獄から救い出してくれる蜘蛛の糸だと思うと邪険にも扱えない。
「あー、コレね……」
「使い方はもう分かってるでしょ?」
「イヤと言うほどな」
「じゃー、早いとこ準備して。ロープも切れかかってるし、低速で飛ぶのは疲れるんだから」
「あいよ。リシエル、こいつを……」
振り返って言った時、オバダラが最後の抵抗を見せた。
錨を千切ろうとして、ぐりんと身をよじったのだろう。
世界が激しく揺れた。
「おわ!」
「ぐっひぃ!」
悪いことはいつも突然やってくる。
俺は手錠を掴んでいたおかげで何とか流されずに済んだが、リシエルは後ろに大きく吹き飛ばされていた。
距離にして俺と10mほどだ。
「リシエル!」
「……」
おまけに、どこかに頭をぶつけたのか、倒れたままぐったりと動かない。
一難去って、また一難だ。
くそ!手間のかかる奴め!
俺が野郎のほうへ足を踏み出した時、外からプルミエルの声が聞こえた。
「ケンイチ!ロープ切れそうよー!早くしなさい!」
錨のほうを見ると確かに、もう縄がほつれてきて、バツン!と危なげな音を立てて、一筋ずつ弾け飛んでいる。
もうこのロープは余命いくばくもない感じだ!
おわぁ!やばし!
リシエルを見る。
ヤツのところまでは大きく距離が離れてしまっている。
とても歩いて助けに行っては間に合わないだろう。
くそっ、万事休すか?
自分だけが助かるプランなら十分実行可能だ。
今すぐ手錠をかけてここから引っ張り出してもらえばいいだけのことだ。
弱い自分が、頭の中で囁いた。
あいつは運が悪かったんだ。
俺は精いっぱい助けようとしたんだ。
しょうがないさ……
(……んなワケないよな)
俺は急いで手錠を自分の足首に繋ぐ。
そうしてから、リシエルの方へ向かって、思い切り勢いをつけて滑りこんだ。
粘液が潤滑油がわりになって、よく滑ること。
精一杯、気絶しているリシエルのほうへ手を伸ばす。
あと少し!
ぬおお、届け!
「く、く、くぬ……」
腕がつりそうなほど手を伸ばす。
そして。
「届いた!」
リシエルの手首をしっかりと掴んで、俺は叫んだ。
「いいぞ!プルミエル!大丈夫だ、ブッ飛ばしてくれ!!」
その瞬間、グン!と足首が引っ張られる。
「うぬおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉッ!!」
ズルズルズルっとオバダラの舌の上を滑って、俺とリシエルは、勢いよくスポン!と外へ飛び出した。
それとほぼ同時にオバダラとメイベル・ルイーズをつないでいたロープが切れ、リシエルの踵のすぐ後ろでバグン!と、大きな音を立てて口が閉じた。
おおっ!
やったぞ!本当に間一髪だった!あとほんの一瞬でも遅かったら助からなかっただろう。
だが、大成功だ!
ここでようやく俺は、オバダラの全体を見ることができた。
真っ黒なドームに、点のように小さな目玉が両端についている。
身体の半分を占めているほど大きな口。
その醜い顔は、俺の世界で言うアンコウそっくりだった。
勿論、サイズは桁外れだが。
おぅ、こんな奴の胃袋の中におさまっていたのかと思うと気持ち悪くなる。
ともあれ、猛スピードで宙を舞う久々の疾走感に身を委ねながら、俺は歓喜の雄叫びをあげていた。