ライフセービング勇者
窓の外では桜が咲いている。
桜といえば、春。
心躍る、春。
そう、春だ!
雪解け。
芽吹き。
日だまり。
全てが幸せに感じる、不思議な季節だ。
新学年。
新しいクラスメイト。
そう、俺は高校二年生になったんだ!イェイ!
さて、何を頑張る?
勉強?
そんなものはくそくらえだ。
もっと、こう、甘酸っぱい、アレ。青春。
二年生は素敵だ。
先輩も後輩もいるし、修学旅行もある。
学校生活にもイイ感じに慣れてきてるし、部活でも一番活躍できる時期だし、進学や就職といった大きな人生の岐路に頭を悩ませるにはまだまだ早い。
本当に素敵な学年だ。二年生。
「高校三年生」なんていう歌があるけど、なんで二年生は無いんだ?
高校生活におけるピークといってもいいんじゃなかろうか。
もう一度言おう。
二年生は素敵だ!
「何だ、神。この野郎。また英和辞典を忘れたのか」
村上先生(あだ名『ロボコップ』)は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
重たいからイチイチ持ってくるのが面倒くさいんですよー、という言葉は言わないでおく。
もう子供じゃないんだしね。
こういった分別のある忍耐ができるかどうかが、一年生と二年生の明確な差だ。
「じゃあー……隣の席の佐野に見せてもらえ。まったく……この野郎」
「へーい」
「あん?この野郎」
「ハイ、ワカリマシタ」
おおっと、危ない危ない。
こんな進級早々、『反抗的な生徒』のレッテルを貼られるのだけはご勘弁だ。
「佐野さん、申し訳ないが……」
「うん、いいよ。あ、机、少し近づけるね」
ああ、優しいなぁ、佐野さん。
それとは対照的に、クラス中の男子の視線が殺気を孕んで俺に突き刺さる。
ふふん、睨め睨め!負け犬どもめ!
これは『出席番号が近い』という生まれながらの素養を兼ね備えた者だけが浴することのできる、神からの至上の恩恵なのだッ!
「どうしたの?」
「はっ、いや、何でもないよ」
「うふ、変なの、神君」
ああッ!もう!
好きィ!本当に好きィ!
俺の隣の席に座っているこの超絶美少女、名前は佐野 智美。
容姿端麗、頭脳明晰、運動神経も抜群、おまけにそれらを全く鼻にかけない、その人柄の素晴らしさたるや、もう古の守護聖人も裸足で逃げ出すよね。
週に五人の男子生徒に告白されたり、資産家の令嬢だったり、生徒会役員に自ら立候補したり、テニス部だったりと、高嶺の花を地で行く、まるで美少女ゲームのラスボス(最初から好意的に接してくれるが、自分の全てのパラメーターを異常なまでに高くしなければ攻略できないキャラクターのこと)的な存在だが、それでもなお、「ひょっとして俺のこと好きなんじゃ……?」という甘やかな夢を見せてくれるほどに、誰彼なしに優しく接してくれる、非常に罪作りなお嬢さんなのだ。
そして、俺も例に漏れず、彼女の大ファンだった。
だから、二年になってクラス分けの載ってる貼り紙を見たとき、友人たちと抱き合って歓喜の雄叫びを上げたもんだ。
佐野さんの隣にいられるというだけで、胸の奥が熱くなってくる。
ああ、幸せ……
(あ、神君……)
「え?」
佐野さんが、先生に聞こえないように、小さな声で囁きかけてきた。
うおぅ、近い!近いってばヨ!
(な、な、何……?)
(そのシャープペン……)
佐野さんは『シャーペン』などというふざけた、ガキじみた略語は使わない。
俺もこれから、終生使わないこととする。
(しゃ、しゃ、シャープペン、が、どうかした……?)
(ほら……)
佐野さんは、自分の持っているシャープペンを見せてくれた。
(あ……)
(おそろいだね……くすっ)
ぐはぁ!その笑顔!
俺の純情ハートは、上下左右に、したたかに揺さぶられた。
いくらなんでも、幸せすぎる!
いや、待てよ……ひょ、ひょっとして……これは……
まさか、佐野さん、お、俺のことが好きなんじゃあ……?
そうだ…………
そうに違いない…………
………………………………………
身体が重い……
はっと、目を覚ますと、俺はねっとりとした粘液のプールを漂っていた。
「……」
俺は辺りを見回す。
周囲は暗かったが、粘液がそれ自体ぼんやりと、淡い緑色の光を放っていて、完全な暗闇ではない。
「……夢か」
俺はぷかぷかと光の海を漂いながら、溜息をついた。
思い出というものはいつも優しい。
人間という生き物は美化なしでは過去を語れないのだ。
しかし、甘い過去の夢は終わりを告げ、過酷な現実が目の前にある。
魚の腐ったような悪臭が鼻をつく。
身体はヌメヌメ、ネチョネチョした薄汚い粘液まみれだ。
見上げる視線の先では、赤黒い天井が不気味に脈動している。
ああ、くそっ。
そうだったな、ここは『二年三組の教室』じゃない。
『オバダラの腹の中』だった。
もぉ、臭ぇわ、汚ぇわで、まったく、最悪な寝起きだ。
おっと、勇者タイムを確認してみよう。
『20:12』
まぁ、そこそこ余裕がある。
身体を起こすと、粘液は腰まで浸かる程度の深さしかないことが分かった。
よかった、溺れることは無さそうだな。
完全な真っ暗闇でないことも救いだ。
(しかし、この液体は何で光ってるんだ……?)
大いに気持ち悪いが、それを手ですくってみた。
おぇ、すっげぇプルプルしてらぁ。
よく見ると、粉々に千切れた、寒天のようなものが混ざっている。
「……クラゲ?」
おお、そういえば、深海のクラゲが凄く綺麗に光っている映像をテレビで見たことがある。
おそらく深海魚であるこのオバダラは、そういったクラゲもエサにしているに違いない。
消化されきってない大量のクラゲ達が、こうして奴の腹の中に幻想的な光景を作りだしているんだろう。
「あ、そうだ。そういえば、一緒に呑みこまれた奴がいたはずだ」
二人して丸呑みにされたところまでは覚えている。
噛み砕かれてはいないはずだ。
まったく、あの世話の焼ける金髪野郎め。
まぁ、イケメン風ではあるが、決闘の時に見せたあの腰抜けっぷりは、同じ男として恥ずかしい。
「おーい!リシエル!皇太子やーい!」
声が、空間に大きく反響する。
返事は無い。
俺はザブザブと粘液の海を進んで、何度か奴の名前を呼んだ。
「おーい、モヤシ!ヘチマ!スケコマシー!」
これだけ悪態をつけばカンカンになって飛び出してくるかと思ったが、反応は無い。
しかし広いな、こいつの腹の中は!
体育館くらいあるぞ!
俺は頭の中で『ピノキオ』の映画を思い出していた。
あれは確かクジラだったかな。
おじいさんと一緒に呑みこまれて、テンヤワンヤで……
おおっと、しかし肝心のところが思い出せない。
どうやってクジラの体内から脱出したんだっけ、あの二人。
(確か、イカダか何かを作って……)
と、少しだけ思い出しかけたところで、俺は、光の海を漂っている黒い影を発見した。
「おお!」
粘液の海をかきわけながら、俺はそいつに接近する。
間違いない、リシエルだ。
ぐったりと気を失っているようだった。
「おい、起きろ!」
俺はペシペシと頬を叩く。
しかし、反応が無い。
ええッ!?
まさか……
俺は奴の鼻元に耳を近づけてみた。
「……」
まずい!
息をしていない!
(やばい!どうしよう……)
とりあえず、すぐ近くに小高くなっている場所があったので、慌てて奴の襟首を掴んで、そこへ引き摺り上げた。
こういう時は……?
チクショウ、人工呼吸以外の手段を思いつかない!
断腸の思いとはこのことだ。
だが、このまま死なせちまっても寝覚めが悪いし……だが……
(……いや、誰にも見られていなければセーフと言えるんじゃないか?)
しょうがねぇなぁ!くそッ!
俺は自尊心を心の奥底に押しやって、決意を固めた。
人一人の命がかかってる場面で、逡巡している暇は無い。
誠に遺憾ながら、こいつに俺のファーストキスをくれてやることにする。
ああ……残念至極……
まずは胸を強く押す。
ついで、鼻をつまんで、息を吹き込んでやる。
それを繰り返す。
勿論、実践は初めてだが、そう間違ってはいないはずだ。
だが、何度やっても、息を吹き返す様子は無い。
くそっ!
おい!
冗談はやめろ!
「息をしろ!リシエル!息をするんだ!」
「……」
「頼む!息をしてくれ!」
「……ごぼっ!」
おっ!
「ぐぼっ……げふげふげふ!」
ああ、よかった!
息を吹き返した!
もう少し、続けてみる。
「げふ!げほ!うごふ!」
「よしよし」
何とか持ち直したようだ。
俺は水を吐き出して激しくせき込む奴の背中をさすってやった。
「ぐふっ……おぇ……」
「大丈夫か?しっかりしろ」
「ぐぅ……」
「おい、こっちを見ろ。見えるか?」
リシエルはえづきながらも、何度か弱々しく頷いた。
「よし。よしよし、大丈夫そうだな」
「……ここは……どこだ……」
「巨大魚の腹の中さ……よっこいせ、と」
大きく胸を上下させて空気を肺に取りこんでいるリシエルの隣に、俺も仰向けに横たわった。
勿論、この先の展開に対する不安や恐怖はあったが、人一人の命を救ったという達成感と満足感が、負の感情を大きく上回って、俺の顔に微笑を作る。
『58:44』
勇者タイムもチャージされた。
とりあえずは、安心だな。
まぁ、あくまで『とりあえず』だが。
「うぐっ!何だここは……!臭ぁッ……!」
「おう、そうだな」
「うぇ、ネチョネチョしてる……何だこれは……」
「胃液じゃねぇ?」
「く、暗いッ……!」
「慣れればそうでもないって」
「ひぃっ!じ、地面が動いたぞッ……!」
「うるせぇなぁ、もぅ!」
「ああ、なんで、こんなことに……」
しまいには頭を抱えてしまった。
実に騒々しくて、女々しい奴だ。
しかし、まぁ、俺もこんなところで一人きりだったら、こんな風にジメジメと途方に暮れていたかもしれない。
こんな野郎でも、助けられてよかったと思う。
俺は肩を震わせているリシエルの背中をバン、と叩いた。
「元気出せよ!なっ」
「ひっ!な、な、何をする、貴様!」
「何て言うか……お互い生きてて良かったよな」
「ど、どういうことだ……!」
「言葉通りだよ」
「な、何をそんなに落ち着いている……?」
「あー……なんでだろう……?」
自分でもわからない。
しかし、これは俺の予感だが……
漠然と、何とかなりそうな気がしていたのだ。
一時間おきに生命の危機を感じているので、そういう危機意識が希薄になってきているのかもしれない。
それはそれで問題だが。