魔女たちの夜会
夜になった。
月光が照らす海は、日光によってぎらついていた昼間とは違って、驚くほどの静けさと美しさがあった。
ああ……オーシャンビューよ……
幻のセレブ体験よ……さらば……
「お前さん、どこから連れてこられただ?」
俺が涙を我慢して甲板のモップがけをしていると、同僚の掃除夫であるマンドー老人が親しげに話し掛けてきた。
「……異世界」
虫の居所の悪い俺はぶっきらぼうに答える。
「へ、へへ……そうか」
マンドー氏は気分を害した様子も無く、苦笑いを浮かべた。
「分かるで……ここに比べりゃ、どこだって異世界だもんな」
老人は完全に勘違いしているようだったが、いちいち訂正するのも面倒くさいので、俺は黙って頷いた。
「黙って働いてりゃあ三食ちゃあんと喰わしてくれるし、金払いも良い。金持ちどもに愛想笑いを浮かべてるだけでチップももらえるで」
なんと!
この老人はここがパラダイスだとでも思っているんだろうか?
まったく、残念ながら俺のとは違うぜ。
本来なら、俺は『ロクサーヌの間』でオーシャンビューを目の前にしてニヤニヤしてるはずだったんだ。
「ブランシュールの御令嬢はえれぇ美人だしな。へ、へへ……ああ見えて、わっしらにもお優しい方だで」
「優しい?」
「んだ。風邪をひきゃあ医者を呼んでくださるし、船員の一人一人をしっかり覚えていなすって、廊下で会えば声をかけてくださる。わっしらをゴミくらいにしか思っとらん貴族連中とは大違いだでよ」
そいつは意外な話だ。
港町で騎士ども相手にスリルゲームを楽しんでいたあの魔性の女ぶりをこの老人に話したら、いったいどんな顔をするだろうか?
「おい、ケンイチ!」
給仕長のジャンさんが、背後から俺に声をかけてきた。
話を聞いたら、年は俺の1個上だそうだ。
「へいよ」
「そこはもういい。パーティ会場に人手が足りないんだ」
「パーティ……」
「一般客室倉の二階のダンスホールだ。行くぞ」
「ダンスホール……」
なかなか聞き慣れない言葉に、俺は妙な期待感を持ってしまう。
所詮はしがない小間使いである俺にとっては、おそらくは何の楽しみも無い展開になるんだろうが、そういう上流階級の社交場を覗けるだけでも滅多に無い経験というものだ。
待て、チャチャチャなら俺が踊る!
……いかん、変なテンションになってきた。
妙なヤツだと笑うがいい。
だが、徹夜明けのテンションってこんなもんだろ?
「ほれ、駆け足で行くぞ」
「はーい……うぉ」
しかし、駆け出そうとした足がもつれて、俺は前のめりに倒れてしまった。
こ、コレは一体?
足の筋肉に、全然力が入らなかった。
「おい、何やってるんだ。さぁ、行くぞ」
「あ、スイマセン」
俺は慌てて起き上ったが、やはり、筋肉に力が入らない。
身体全体にガタがきているようだった。
(コレは間違いなく……)
限界が近い証拠だ。
俺の体が悲鳴を上げている。
精神的、肉体的疲労、寝不足……今はなんとかアドレナリンだけで動いてるような状態なんだろう。
(やべぇーなぁ。このままじゃあ、廃人になっちまう……)
さりとて寝不足の我が脳髄に良き知恵も無し。
このまま過労死しちまったほうが楽かもしれないとさえ考えるほど、俺は憔悴しきっていた。
だが、考えてみれば、この世界に来てから、まだ二日も経っていない。
色々なことがありすぎて、相当に消耗しているようだ。
(生き延びるために働きっぱなしだもんなぁ……)
俺は自分がとても可哀そうに思えた。
ダンスホールには大勢の金持ち連中が集まっていた。
豪奢なシャンデリアの下で、立食を愉しむ者、楽団の生演奏に合わせて身体を揺らす者、雑談に夢中になっている者。
そのどれもがピッチリとした夜会服に身を包んでいて、たいそうゴージャスだ。
俺も蝶ネクタイの給仕服に着替えさせられて、どこから見てもウェイターそのもの。
バイトだってしたことは無いんだが。
(わーお、憧れのセレブライフ……)
目の前の威容をぼんやりと見つめつつ立っていると、目の前にいた初老の紳士が、指をクイクイと動かして俺を呼んだ。
「君、『オシュタフ』のおかわりを。妻には『シー・キャラン』をね」
そう言うと、その客は俺の持ってた銀の盆の上に二つの空いたグラスとチップと思われる紙幣を一枚載せた。
その紙きれの価値は、異世界出身の俺にはよく分からない。
とりあえずはそいつを胸のポケットに押し込んで、紳士に頭を下げた。
「へぃ、おかわり一丁……」
俺はフラフラと、バーカウンターでカクテルを作っているジャンさんのもとへ向かう。
「おいおい、大丈夫かい、ケンイチ?顔が真っ青だ」
「ジャンさん、『おひたし』と『しおから』のおかわり……」
「はぁ?何だい、それ」
「おつまみッスよ……こっちの世界にもあるとは思いませんでしたよ、ははは……」
そうこう言っていると、突然、後ろでざわめきが起こった。
「うん?」
振り向くと、人だかりの中心に、豊かなボディーラインをこれでもかと強調した浅葱色のドレスに身を包んだメイヘレンがいた。
昼間はアップにしていた髪を下ろして、右の肩に流している。眼鏡も掛けていない。
(ワーォ!スッゲェ!)
ぱっくりと大胆に開いたドレスの肩口と、そこから覗く真っ白な肌、そして、谷間。
そうか、これがタニマ・スピリチア……
なんていうギャグが浮かんできたが、しょうもないな。
女というのは化けるもんだというが、もとから美人だった女性が着飾ると、化けるどころか、この世の奇蹟といっても良いほどの妖艶さを放つというわけだ。
俺がアホみたいにあんぐり口を開けて彼女の肢体に見入っていると、その視線を感じたのか、メイヘレンはカツカツとヒールを鳴らしながら、こちらに歩み寄ってきた。
「楽しんでいるか?ケンイチ」
「あー……ご覧のとおりですよ、ブランシュールさん。異世界から来た僕に素敵なお仕事を紹介していただいて、感謝してマス。チップまで頂いてしまいましたよ、ホラ。これを貯めて俺はゆくゆくは喫茶店でも開くんですよ……」
「おやおや、君には皮肉を言う才覚もあるのか?」
真っ赤なルージュを引いた唇が、意地悪そうにクスリと笑う。
「たった三日ほどの辛抱だろう?」
「……その間に俺は駄目になるかも知れない」
「やれやれ、弱気だな」
「正直言って、ここまで死期を間近に感じたことは無いナリ……」
「麗しのメイヘレン……」
「うん?」
背後からの突然の呼びかけに、メイヘレンが振り返った。
声の主は、妙にヒラヒラした服で着飾ったキザったらしい金髪のロン毛野郎だ。
「ああ、何という美しさだろう……貴女をダンスにお誘いしても?」
「まぁ……リシエル皇太子様のお誘いを断る女性が、この世におりますかしら?」
「では……」
メイヘレンはうっとりしたような顔で、差し出された手を取った。
ロン毛野郎はフン、と鼻を鳴らし、俺に挑戦的な流し目を送ってくる。
くそ、当てつけかよ、この野郎め!
俺の放つ、ストレス混じりの凄まじい殺気にはまるで気付かない様子で、二人はダンスホールの中心へ消えていった。
「……驚いたなぁ」
俺の後ろで、カウンターに頬杖をつきながらジャンさんが言った。
「へ?何スか?」
「君、ブランシュール様とどういう関係なの?」
「さぁ……それが、自分にもさっぱり……」
「なんだい、それ」
すると、またまた背後で、歓声が起こった。
何だよ、今度は。
振り向くと、人だかりの中心には、今度は真っ赤なドレスに身を包んだ美少女が……プルミエルがいた。
ワァァァァオ!!
先程の量感抜群なメイヘレンのボディに比べれば貧相なことこの上ないが、もう、イイ!
イイよ!凄くイイ!
金の巻き毛は後ろで一つに束ね、花飾りで綺麗にまとめあげている。
メイヘレンとは違って胸元は白いファーで隠しているが、それでもやはり美少女ならではの健康的な色気がある。
メイヘレンはビューティ、プルミエルはプリティーといった感じ。
ううむ、こいつはどちらも甲乙つけがたいぞ!
プルミエルはあっという間に取り巻きどもに囲まれてしまった。
「なんとなんと、まさか『水』のブランシュールの所有する船で『火』のミスマナガンの御令嬢にお目見えしようとは……」
「そうですわね。メイヘレン様とは妙な御縁がありますの」
「しかし、お美しい……」
「ありがとうございます。恐縮ですわ」
適当に挨拶を交わしながら、プルミエルの目が電光の如く左右にさっと動いて、俺の姿をとらえる。
俺はというと、さっきからずっとアホみたいにあんぐりしていた。
だって、普段の俺をあしらう雰囲気とはまるで別物だったからだ。
プルミエルはちょっと失礼、と周囲に断りを入れてから、俺のもとにつかつかと歩み寄ってきた。
おっと、何だ?
靴を舐めろというなら舐めるぜ?
「ちゃんと生きてたわね」
「おー……さっきから睡魔とハードコア・ファイトをしてる最中だがな」
「あらあら、だいぶ参ってるみたいねー」
「このままだと疲労と睡魔と死神を相手にハンディ・キャップ戦に突入さ。あいつらときたら、俺をコーナーに釘付けにした状態で右から左からチョップの嵐を……」
「はいはい、もう限界が近いってわけね」
彼女の、桜色のルージュが引かれた唇が微笑んだ。
その様子に、俺のハートは激しく揺さぶられた。
やめろぉ!萌え死んじまう!
「ね、ちょい、耳貸して」
「ん?」
俺は言われるがままに、耳を寄せた。
彼女の吐息が耳にかかるだけで、俺は昇天しそうだ。
弱りきった心臓にこいつはキツイ。
「……パーティの片づけが終わったらね……」
「……おぅ……」
「……誰にも見つからないようにね……」
「……おぅ……」
「……私の部屋に来て……」
「……!」
……オーケィ、冷静になろうぜ、ケンイチ。
これは、きっと、アレだ。
これからの日程を確認するとか、注意事項の伝達とか……
そういう実にビジネスライクな展開になるに決まっているんだ。
お前の期待しているような×××なことや△△△なことは決して……
そう、決して起こり得ない!
(そうだ……そんなバカなことが……あるはずがない……)
歩み去っていくプルミエルの、左右に揺れる美しい金の巻き毛を見ながら、俺は自制心を保つよう、自分自身に言い聞かせていた。
「あー、ケンイチ……」
「へ?何です、ジャンさん」
「俺さ……両方の鼻の穴から鼻血流している人間を初めて見たよ」