俺にこの手を汚せというのか
「くぬっ……!」
俺は不思議な感覚の中にいた。
最初は皮膚が剥がれ落ちるかと思うほどの猛スピードでR-18が天に向かって上昇したかと思えば、急に世界の風景が一変したのだ。
空が。
雲が。
山が、大地が、海が。
それらの境界や稜線が曖昧になり、目に入ってくるすべての色が、まるでペンキをぶちまけたように混然一体となって押し寄せ、そして流れていく。
世界のすべてが極彩色のマーブル模様だ。
うっぷ、あんまり見ていると酔いそう。
「な、なんだこれ……」
極度の恐怖と臨死体験による脳の拒絶反応でこんな刹那的でアバンギャルドな風景が見えるのだろうか?
それとも、筆舌に尽くしがたい速度で飛ぶとこうなるということなのか?
いや、速い……のか……?
とてつもなく遅いようにも感じられるが?
俺がおかしいのだろうか?
時間が飛び過ぎていくような、じっと停滞しているかのような。
とにかく、かつて味わったことのない不思議な感覚に襲われていた。
体は確かに宙で横一文字になっていて、それは隣で鎖に繋がれているイグナツィオも同じだった。
二人そろって串に刺されたシシャモみたいに並んでいるというとてもシュールな光景だが、その状態でいられることは、物理の法則から考えてそれなりの速さで空を飛んでいるはず。
だというのに。
「まったく風を感じませんね」
のんびりとそんなことを言うイグナツィオの声が明瞭に聞こえた。
そう。
通常ならば高速で飛行することによって生じるはずの強烈な風圧。
焼け焦げるような匂いに全身が包まれる、凶悪な空気抵抗。
さらには鼓膜が破れるほどの殺人的な風切り音。
当然、発生するはずのそれらがまったくない。
自分の心臓の音までもが聞こえるほどの、不気味な静寂の世界に、俺たちはいた。
「なんだ、コレ……」
この違和感に、恐怖すら覚える。
「なんていうか……不思議だ……」
「そうですね」
何の意味も成さない言葉になってしまったが、イグナツィオは相変わらずの無表情で同意する。
その鋼鉄のメンタルは素直にすごいと思うが、もうちょっと俺の驚きに共感してくれよ。
「亜空間飛行がどうとか言ってたけど……これがそうなのか?」
亜空間っていう表現にいまいちピンと来ていなかった俺だが、どうやら物理法則を超越した異次元的な世界であることは想像できる。
ここがまさにそうだというのか?
だが、体に負担がかからないのであれば、それは大歓迎なので、ひとまずはラッキーということにしよう。
「世の中にはアレだ。科学で説明できないことがたくさんあるな……」
「はい」
「……」
しばらく会話が途切れる。
うーむ、もっとこう、なんか……テンションの上がるような会話しようぜ!
しかたなく、俺は口を開く。
「……えーと、アレだな。二人で作戦会議でもするか?」
「いいですよ」
「よし。まずは人質を最優先だな。プルミエルたちが彼らを助ける。その時間を稼ぐために俺が囮になる。その時、お前が背後から近づきラーズの野郎をあわよくばジェノサイドする」
「それでいいんじゃないですか」
「うん……」
さして盛り上がりを見せないまま、会話終了。
時間にして十秒もなかったと思う。
これが作戦会議だと?
文字にすると二行しかなかったぞ?
大丈夫?
俺たち本当に大丈夫なのか?
だが、今話した以上の作戦がないのは紛れもない事実。
こんなアバウトな感じで魔王を名乗る奴と世界の覇権をめぐって戦おうってんだから、本当に俺たちはおめでたいよな。
はは、のんきだねっと。
「……イグナツィオ。お前はどう思う?うまくいくと思うか?」
あまりにも自分の楽天的なものの考え方に自信が持てず、つい、そんな事を聞いてしまう。
聞いたことに他意は無い。
単純に、客観的に考えてどんな無茶なことをしようとしているのかが知りたかっただけだ。
そう、俺は風車に立ち向かうドンキホーテのごとく、愚かなことをしているのだろうか?
イグナツィオは常に俯瞰的な目でものを見る現実主義者なので、人間性はともかくその言葉には真実味がある。
そして、予想通りのクールな回答をよこしてきた。
「まぁ、かなり確率は低いでしょうね」
「お、おう……そ、そうか……」
『ケンイチさんのチート無双で余裕勝ちですよ。なかなかできることじゃないよお兄様』なんて言ってくれるとは思っちゃいなかったが、やはりこの男はドライ&クール。
まあ、とにかく、最高に分の悪い賭けであることは間違いないようだ。
「……まあ、考えたところでどうしようもないな。うむ!とにかくやるしかないぜ」
これこそ俺の十八番THE・カラ元気。
カラだろうとCHARAだろうと落ち込むよりマシだ。
俺は自分を奮い立たせるために無理やり気合を入れて見せる。
「頑張ろうぜっ!なっ!」
「ケンイチさん、痛々しいですね」
冷淡!
「う、うるせえな。痛々しいとは何事だよ!気持ちで負けないようにしてるだけだろ」
「気持ち……ね。それはいいや」
「な……!?馬鹿にしてんのか!この野郎!」
「してます」
「だよね!ははは……って、本当にこの野郎!」
「一応言っておきますが、ケンイチさん。僕は以前にぺデヴィアの娼館でラーズという男を見たことがあります」
うん?それは初耳だった。
「あいつは本当にすごいですよ」
おいおい、イグナツィオから見てもそうなのか……
だが、俺もあいつが『すごい』のはわかっている。
腕っぷしが強いのはもちろんだが、底知れぬ狂気と凶暴性を併せ持つ、真のサイコパスだ。
「そんなに強いか」
「強い……だけならいいんですが」
「え?」
「あいつのすごいところはそこじゃないです」
イグナツィオの声は真剣だった。
いつものようにどこかのんびりとしたものとは違う……これこそがイグナツィオの本質なのか?
冷静沈着な、殺し屋のそれなのだろうか?
俺はちょっと背筋が寒くなる。
だがそんなやつが、すごいと語るラーズとは……
息を呑んでイグナツィオの言葉を待った。
「ラーズってやつはですね、たしかに強さも早さも大した能力を備えてますが、それはあくまでも身体的なものであって、人間の範囲を超えてるってわけじゃない。あの男が本当にすごいのは、中身のほうですよ」
「中身……」
「僕たちのような裏社会の人間であっても、人を殺すことには理由が必要なんです。金のためとか、生きていくためとか。趣味とか快楽っていうのも言うなれば理由の一つです」
「あぶねぇな……」
「その理由がギリギリ僕らを人間でいさせるんですよ」
イグナツィオの言葉には強い真実味がある。
闇に身を浸してきたものにしかわからない世界があるのだろう。
「……ラーズは違う?」
「あいつは何の理由もなしに人を殺せます」
俺もそれは察してはいた。
あいつはどんな悪逆非道なことでもニヤけながら余裕綽々でやってのける。
今だって、無関係な人質まで取って俺と命懸けのゲームをしたがるくそったれ野郎なのだ。
「感情が無いわけではないんです。むしろ、喜怒哀楽は人並み以上に豊かなんでしょう。でも、そこを超えたところに殺意がある。楽しかろうが悲しかろうが、そうしたいと思えばタイミング次第でいつでも人を殺せるんです。たしかに魔王に相応しい存在でしょうね」
「……」
他人の口から改めて聞かされると、その異常な精神性に戦慄を覚える。
そんな生き物がいるのか、と。
到底、常人の感性で推し量れるものではない。
「とんでもないサイコ野郎だな……」
「ま、今はまだ気の向くままに人を殺してますが、近い将来には世界中の人間を殺すでしょうね。何の理由もなく」
「せ、世界中の人間を……?」
「殺意に根拠が無いってことは、底が無いってことです。底が無いから、いくらでも殺しますよ」
「……」
くそ、やっぱり本当にやばい野郎だ。
世界の害悪、悪の枢軸と言ってもいいだろう。
俺は改めて、自分の背負った使命が重大なものであることを実感した。
「これは絶対勝たなきゃいけないぜ……」
俺は宙に真横になった状態で拳を握りしめ、決意を新たにする。
だが、いまだにイグナツィオの目は冷ややかだ。
その視線に対して、俺は何かをダメ出しされているような後ろめたさを感じてしまう。
な、何が不満だというのか……?
俺のシシャモみたいにアホな恰好か?お前だってそうだぞ!
「な、なんだ?なんか言いたいことがあるなら言ってくれ」
「やれやれですよ」
「やれやれって……」
「ケンイチさん、今のままじゃダメです」
「な、なんだと?」
「『勝つ』とか『頑張る』なんて言ってるうちはね。無理ですよ。もういい加減に覚悟を決めませんか」
覚悟?
俺の覚悟ってか?
傷つく覚悟も戦う覚悟もできてるつもりだ。
恐怖や不安はある。
だが、それは抑えこむこともできるし、何よりも正義のためにという大義もある。
俺は胸を張った。
「覚悟なら大丈夫だ!どんなに痛めつけられても参ったしないぜ!」
「違います」
「ち、違うのか……」
「そんな甘っちょろい覚悟じゃありません」
「あ、甘っちょろいだと……?」
これ以上、俺に何を求めるというのか?
お前は最近流行りの毒舌コメンテーターか?
白面の青年はしっかりこっちを見て、口を開く。
実に淀みなく。
「あなたに必要なのはね、人を殺す覚悟ですよ」
俺に対してはっきりと言い聞かせるように、イグナツィオは言った。
「僕が失敗した場合はあなたがラーズを殺すんです」
それを聞いて、俺は固まった。
考えてもいないことだった。
いや、考えなくちゃいけないことだったんだが。
でも、待ってくれよ。
俺が……?
自分の手であいつを殺す?
人殺しをするって?
「自分だけ綺麗な人間のままでいようだなんて思わないでくださいよ。どんなに卑怯な手を使ってでもラーズを殺す。それだけを考えてください」
今までの人生において。
俺はろくに喧嘩したことない。
生きてる哺乳動物を殺したこともない。
血を見たらゾッとする。
スプラッター映画なんてポスターを見るのでさえ嫌だ。
そんな俺が?
「殺す……?」
それは……
それは自分が殺されるよりも大変な覚悟が必要なことだ……
かつてない不安。言い知れない恐怖。
そういう異質な感情が、まるで今、目に映っている景色と同じように頭の中でグチャグチャになっていく。
俺にできるのか?
いや、きっと、イグナツィオがすべてうまくやってくれるさ。
だが、やるしかない状況になったら?
その時、俺はどうすればいい?
あとどれくらいでラーズのもとにたどり着くのかはわからない。
だが、この覚悟はそれまでに決まりそうもない。