モフモフしている場合じゃない!
寺院の中はどこまでも暗く、カビ臭く、そして、静かだった。
本当に長い間、人間が立ち入ったことが無さそうな――そんな雰囲気だ。
いや、人間どころか生物の気配すら無い。
こういう野ざらしになっている遺跡にはネズミの糞とか蜘蛛の巣とか、そういう生き物の痕跡があるはずだが、それさえも無いのだ。
陽の光も一切射しこまないような造りになっていて、もしも背後の石扉が閉じてしまえば完全な無明の闇が訪れる。
まさにここは密閉空間だったと言っていいだろう。
その息苦しいまでの閉塞感は、寺院というより、巨大な石棺の中を連想させる。
「皆、気をつけろ。恐ろしい気配がする……」
「あっそ」
俺の言葉をスルーして、仲間たちはドカドカと寺院の中へ入り込んでいく。
「……」
想像以上に、彼女たちはタフだ。
タフボーイじゃない俺は、このふざけた時代に正気でいられたら運がいい……いや、なんだそれは。
気を取り直し、頼もしい仲間たちにくっついて、寺院の中を進む。
先頭を歩くプルミエルの掲げる松明の光が、寺院の壁面に彫られた気味の悪い模様を浮き上がらせる。
鳥や獣、聖人らしき人物の前にかしずく人々……
炎の中に揺らめくそれらの彫刻は、古代の叙事詩を物語っているのだろうか。
「とりあえず、鍵を差し込めそうな場所とか扉を見つけないと」
プルミエルが指示を出す。
そう、鍵だ。
異次元で手に入れた鍵。
これを渡してくれた水着ギャルは、勇者の証だとも言っていた。
鍵があるということは、それに対応する鍵穴がこの遺跡の中にあるということだ。
そして、その先には、勇者にとって超重要な何かがある。
俺の異世界冒険も、いよいよクライマックスということだ。
だが、今までの経験上、そんな大事な場所ならば恐ろしい罠が仕掛けられている可能性は高い。
「待ってくれ、プルミエル。ここは俺が先頭に立つよ。ほら、罠が仕掛けられている可能性もある」
「あら、そう。じゃあ、よろしく」
彼女の手から松明を受け取り、俺は気合を入れて先頭に立つ。
これで少しは見直してくれただろうか?
どうだい?立派に見えるかい?
「俺が皆の命の盾になる……だって、俺は勇」
「はよ行け」
……そうでもないらしい。
ショボくれた気持ちの俺が、一歩、踏み出そうとした時だった。
「よくぞここまで来たな……勇者よ」
「!?」
前方の闇の中で、突如として聞き覚えのある声がした。
「よくぞここまで来たな……大事なことだから二回言ったぞ」
「お、お前はっ……!」
暗闇の中から、のっそりとそいつが姿を現す。
毛むくじゃらの巨体。
キリンのように長い首。
そして、その上にちょこんと乗った、小さな猫の頭。
「じ、次元の狭間で遊ぶ猫っ……!」
略して次元猫!
遭遇するのは異次元島以来だ。
「え!?これが!?」
プルミエルが俺の隣で声を上げ、猫に駆け寄る。
そして、背伸びをしたり屈んだりしながら、しげしげとその巨体を眺め、見つめ、観察しはじめた。
目の前のUMAを見つめるその目はうっとりと輝いている。
チクショウ……なんて恍惚に満ちた顔だ……
まるで想い人を前にした恋する乙女のようじゃないか?
俺の心の中に激しいジェラシーが渦巻く。
こんな気味の悪い生き物のどこがいいんだ?
俺じゃダメか?
ああ、いかんいかん、落ちつけ、ケンイチよ……
こいつはプルミエルにとってただの学術的好奇心の対象でしかなく、嫉妬の感情に囚われるのは間違っている……いや、学術的好奇心の対象というと俺も同じか……?
アイデンティティの揺らぎを感じつつも、俺は次元猫に向き直った。
「猫、なんでここに?」
「何故と問うか?私に会いに来たのだろう?」
おっと、そうだ!
そう言えば、こいつが異世界召喚の大事なキーパーソン(?)だった!
「お、おう……そうだ。そうだったな」
だが、その前にこいつに聞かなければいけないことがある。
「ところで、シゲハルさんはあの後どうなったんだ?」
「元気だ」
「いや、そうじゃなくて!こっちの世界に無事に帰ってこれんのか!?」
「わからん」
「わからんって……!」
「知らん」
「知らんって……!」
そのあまりにもお役所的というか、冷淡な態度は人をイラつかせるには充分だ。
もっと詳しい異次元便りを聞かせろ!と言ってやりたい。
だが、シゲハルさんの娘であるアリィシャはひどく冷静だった。
俺の肩にポンと手を置き、囁く。
「ケンイチ、大丈夫だよ。ボクはお父さんが元気ならそれだけでいいよ」
「え……?」
「きっと、生きてればいつか会える……そう思うんだ」
「アリィシャ……君って子は……」
「ほう。若いのに良いことを言う……」
猫は感心したような声を出して、ゴロゴロと喉を鳴らした。
「モフモフさせてやろう」
「え!?いいの?」
「よかろう」
「わーいっ!」
アリイシャは喜声をあげて、バフッと全身で猫に抱きつく。
そして体毛の中に顔をうずめ、すりすりと頬ずりをした。
「モフモフだぁ♪」
「そうだろう」
くそっ、何だ、この敗北感は……
とりあえず、アリィシャに警告だけでもしておかなければ!
「き、気をつけろっ!そいつは油断していると衝撃波をかましてくるぞ!」
だが、猫はゆったりと気持ちよさそうに目を閉じ、ゴロゴロと喉を鳴らす。
俺に対してはことあるごとに『カ―――ッ!』と衝撃波を放っていたのに!
「あ、私もモフモフしたい」
プルミエルが言う。
「私もしたいな」
メイヘレンまでもが言う。
「よかろう。モフモフするがいい」
次元猫は素直に応じた。
「よし、じゃあ。もふっ!」
「どれ。もふっ」
二人はそれぞれ異世界生物の身体に抱きつき、その毛並みと質感を全身で堪能しはじめた。
「おー……モフモフ……」
「たしかにこれはモフモフだ……」
「そうだろう」
寺院の暗がりの中で、謎の生物に抱きつく三人の美しい女たち……
猫にとってはハーレムかもしれないが、俺はその光景を前にして、凄まじいNTR(寝取られ)感を抱かざるを得ない。
こうなったら、俺も……!
「なぁ、俺もモフモフ……」
「駄目だ」
「即却下!?な、なんで!?」
「駄目だ」
にべもない!
こいつは猫の分際で女好きなのか?
唖然とする俺に、老師が薄い笑みを浮かべながら語りかけてくる。
「フォフォフォ……残念じゃったの。じゃが、猫好きなワシならばあるいは――」
「駄目だ」
「な……!?」
老師は言下に断られ、俺の隣で唖然とする。
どうやら、本当に男はダメなようだ。
お前はアレか?穢れを知らぬ乙女にしかその身に触れることを許さない聖獣ユニコーンなのか?
そんな気持ち悪い見てくれをしているのに……
って、おっと、いけねっ。こんなことをしてる場合ではないのだ。
「おいおい、モフモフはいいから……その、アレだ。用件を済ませよう」
そう、本来の目的を忘れてはいけない。
モフモフなどに心を奪われてはいけないのだ。
俺は鍵を取り出して、次元猫に突きつけた。
「次元猫。鍵を持ってきた。『勇者の証』だろ。これをどうすればいいんだ?」
「鍵をもらおう」
次元猫はそう言って口を開くと、そこからニュッと長い舌を伸ばしてきて、素早く俺の腕から鍵を絡め取っていった。
残された俺の右手は、奴のヨダレでべとべとになる。
とても嫌な気分だ。
「では、お前を『時忘れの庭』へ連れて行こう」
次元猫がのっそりと立ち上がり、俺たちに対して「離れていろ」と警告する。
全員が三歩ほど下がって、猫から距離をとった。
「アール・ウフ・デベース・デル・モンテ・ソーサ……」
猫はぶつぶつと不思議な呪文を唱え始める。
すると、どうだ。
目の前の空間が、まるで石を投げ込んだ水面のように震え、歪み始めた。
「お、おおっ!?」
何も無い空間に平面が生まれ、それがうねり、渦を巻き、そして、光を放ちだす。
その場にいた全員が、息を呑んで、その神秘的な光景を見守っていた。
「異界の門だ。ここから先に、『時忘れの庭』がある」
猫が言った。
俺は目の前に現れた光の門の前で、呆然と立ち尽くした。
「この先に……?」
「そうだ」
「そこへ行ったら……」
「そこは世界と世界の接合点だ。お前が望むならば、自分の世界へ帰れば良い」
ついに……
ついにこの時が来た……
この光の向こうに、俺の世界がある。
家族、友達、学校……俺の世界が。
「だが、勇者よ。以前にお前に言ったことを覚えているか」
猫は唐突に口調を強めた。
「へ?」
以前に?何のことだ?
「お前は選択をする、と言った。命を、人生を決める選択をすると……」
そういえば、初めて渓谷でこの猫を見た時、そんな事を言われた気がする。
「あ、あれはどういう意味だったんだ……?」
俺は恐る恐る聞いてみた。
多分、きっと、いや、絶対にロクな事じゃないに決まっている。
『人生』とか『命』とか、そんな大仰なことを言われたら良い気持ちはしないものだ。
「答えはすぐに分かる」
猫は目を細めてニタリと薄気味悪く笑う。
すると、その時。
『……ンイチ……ケンイチ……』
どこかで。
誰かが。
俺を――呼ぶ声が聞こえた。
「!?」
「な、な、なんじゃ?」
「誰!?誰かいるの!?」
俺の気のせいではない。全員がその声を聞いたようだった。
声の方向を探ろうと、俺は耳を澄ます。
『ケンイチ……ケンイチ……!』
今度はハッキリと聞こえた。
そして、その声の主が誰であるかもハッキリと分かった。
忘れようもない。この声は……!
「ラーズ!?ラーズだな!?」
全身に鳥肌が立った。
なぜ!?
どうしてあいつがここに!?
まさか、俺を追ってきたのか!?
「どこだ!?どこにいる!?」
俺は身構え、闇に向かって叫ぶ。
プルミエルもメイヘレンもアリィシャも、イグナツィオも老師もR-18も、全員が身構えた。
寺院の中を、張り詰めた緊張が支配した。
だが、それを嘲笑うかのように、次元猫は大きなあくびをする。
そして、言う。
「愚か者め。外だ。外へ出るが良い」
「外?」
「魔王はここにはいない。アルヴァンの魔法塔を使って世界中に亜空間通信しているのだ」
亜空間……なんだって?
猫が何を言っているのかはさっぱりだったが、答えは外にあるらしい。
「行くわよ!ケンイチ!」
プルミエルの声に弾かれるようにして、俺たちは寺院の出口へと走り出した。