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アファーマティブアクションに対して私が強固に反対する理由

私がアファーマティブアクションに否定的な理由は決してアファーマティブアクションが嫌いだからだけではなくアファーマティブアクションを支持する人の多くにみられる特有の特徴を嫌っているからという理由が大きい。そのことを解説したいと思っている。

 アファーマティブアクションに対する態度には三つある。一つ目は、アファーマティブアクションは許されるがマジョリティの優遇は許されないとする態度、二つ目は人はその人の人種や民族や性別や宗教や思想や文化によらず個人として平等に扱われなければならないという個人主義的な平等主義の原則を重視する立場からアファーマティブアクションは許されないとする態度、三つ目は学校や企業には誰に入学を許可し誰を雇うのかについて決める権利があるという契約の自由の原則を重視する立場からアファーマティブアクションもマジョリティの優遇も許す態度だ。このうち、私は二つ目の意見に賛同だが、ここでは二つ目の意見と三つ目の意見は取り扱わない。この二つの立場はともに原理原則を重視するという意味で共通しており、またこの二つの立場はともに適用に当たって主観が入り込む余地がないという意味でも共通している。故に私はこの二つの立場を問題視するつもりはないのだ。

 では一つ目のアファーマティブアクションは許されるがマジョリティの優遇は許されないとする態度について考えてみよう。この態度をとる意見は三種類に分かれる。一つめは、アファーマティブアクションは手段としても不正ではなく人を平等に取り扱っているので認められるという立場、二つめは、アファーマティブアクションは手段としては不正だが理想的な社会を目指すという目的のためにおこなわれるという目的があるので正当化される、という立場だ。三つめは、アファーマティブアクションは理想を目指すという目的から行われる措置であって、アファーマティブアクションを実施するときにマジョリティに対する侮蔑の感情がないから認められるとする立場だ。ただし一つめの立場をとる人はアファーマティブアクションとマジョリティの優遇の手段としての(決して目的としての、ではない)違いを説明しなければならない。また二つめの立場をとる人は彼らが目指す理想がほかの理想に比べて優位であることを主張する必要がある。三つめの立場をとる人間として、ロナルド・ドゥウォーキンがいる。

 このうち一つめは個人の能力も場合によってはある程度重視しながらある程度各人種間、各民族間、各性別間の平等が保たれるようにようにアファーマティブアクションを実施すると主張するだろう。この考え方に基づいてアファーマティブアクションを行うということがどういうことかというと、例えば六割が白人で二割がヒスパニックで一割が黒人で一割がその他の人種の国において、ある企業が採用する従業員のうち六割を白人から、二割をヒスパニックから、一割を黒人から、一割をその他の人種から採用するということを意味する。また別の例では学校が入学を許可する学生を半分を男性にして半分を女性にするというのが、各人種間、各民族間、各性別間の平等が保たれるようにようにアファーマティブアクションを実施するということだ。まあ正確には企業や学校はそれに加えて個人の資質も見て総合的に判断するかもしれないが、イメージとしては大体こんな感じになるということを説明できたと思う。この立場ではアファーマティブアクションは各人種間、各民族間、各性別間の平等を守っているので差別ではないと主張することができる。この主張であれば適用に当たって主観が入り込む余地はあるが原理原則を重視はしているので私はこの立場に対しては融和的な姿勢を見せることができる。だが大半のアメリカ合衆国のアファーマティブアクション推進派はこのような論理を採用してはいない。

 二つめの立場は問題であると私は考える。この立場はアファーマティブアクションを手段としては不正であると認めている。つまりこの立場は、人には学校や企業から人種や民族や性別によらずに取り扱われる権利を認めている。そしてこの立場は理想を実現するためにこの権利が侵害されることを認めてしまっている。これは自由主義的ではない。なぜなら自由主義は、人の権利は、社会の目的という大義名分のもとに侵害されてはならないものと考えるからだ。また、二つめの立場は多様性の推進という目的を最重要視しているが、これはほかの目的、例えば差別をなくすために人種や民族ごとに棲み分けを行うという目的に比べてより素晴らしい目的といえるのだろうか?少なくとも議論は必要だろう。この立場はおそらく功利主義者や場合によっては共同体主義者が採用するであろう理論だが、これを採用する自由主義者はいないだろう。私は自由主義者なのでこの立場にはあまり融和的な姿勢を見せることができないが、少なくとも評価はできる。彼らは彼らなりに理想の国家が何たるのかを主張してその実現に向けて邁進しているのだから、私はその姿勢を評価したいと思っている。

 三つめの立場は問題外である。理由は二つある。一つ目はこの立場は何の解決にもなっていないことだ。例えばある学校や企業が、差別をなくすために人種や民族ごとに棲み分けを行うという目的を掲げてマジョリティを優遇したとする。彼らは純粋に学校内や企業内の差別をなくすために優遇措置を行いたかっただけで学校側や企業側にはマイノリティに対する侮蔑の心はなかったと主張したとする。この主張がどれほど真実に基づいているのかは不明だが、少なくとも人の内面を推し量ることはできない以上反論はできないだろう。結局この立場は学校側や企業側が知恵を利かせれば学校や企業には誰に入学を許可し誰を雇うのかについて決める権利があるということになる。だが最大の問題点はそこではない。二つ目の、そして最大の問題点はこの立場は人の精神の自由を認めていないことだ。自由な社会は人の精神の自由を尊重することから始まっている。にもかかわらずこの立場は人の精神の自由を認めていない。またこの立場は人の精神の自由を認めていない時点で人の尊厳を無視している。そこが問題なのだ。私は人の自己所有権を重視しているのでこの立場のことは評価も尊重もできない。しかし大半のアメリカ合衆国のアファーマティブアクション推進派はこの立場をとっている。これは非常に残念なことだ。私が真に批判したいのはアファーマティブアクションそのものではなく、この立場をとる人に見られる様々な思想や道徳観及び価値観に対する非寛容さなのだ。この立場をとる人は彼らの主張している多様性を推進しているが、果たして彼らに多様性を謳う資格があるのかを私は問いたい。私はこの立場をとる人たちが目指すリベラルの姿は、様々な思想や道徳観及び価値観に対する非寛容さの点では古代ローマ帝国で流行ったキリスト教の姿とほぼ同じだと考えている。故にこの立場をとる人たちが目指すリベラルの最終的な姿は、現代のキリスト教の姿に重なるし、この立場をとる人たちが目指すリベラルはそのうち免罪符を売っていた時期のキリスト教と同じような姿になると、私は考えている。

私は非寛容さは嫌いで多様性を愛している。自称リベラルもまた非寛容さは嫌いで多様性を愛している。だが自称リベラルの嫌いな非寛容さは異なる人種や異なる民族や異なる性別に対する非寛容さであり、自称リベラルの愛する多様性とは人種や民族や性別の多様性だ。私の嫌いな非寛容さは異なる思想や異なる価値観や異なる宗教や異なる道徳観や異なる文化に対する非寛容さであり、私の愛する多様性は思想や価値観や道徳観の多様性だ。故に私と自称リベラルの意見はお互いに対立することとなる。

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