第9話~第16話
第9話〜第16話までは、物語の“中盤”にあたる重要な章となります。
医療AI・環の中で芽生え始めた“感情のようなもの”は、本当に“心”と呼べるのか。
そして、臨床工学技士・朔との関係は、やがて“ただの機械と使い手”を越えたものへと変化していきます。
静かに進む物語の中で、交差していく“人間らしさ”の機微をお楽しみください。
【第9話:もう一度、君に会いたい】
夜、研究室の一角。
朔は小さなディスプレイに映る動画を再生していた。大学時代、研究発表会で撮影された動画だった。
「AIに“心”は宿せるか?」
壇上で語る若き女性研究者の姿。
彼女の声は、変わらず真っ直ぐで澄んでいた。少し緊張しながらも、揺るぎない情熱を携えていた。
如月真理――彼女の話す姿を、何度目かもわからないほど繰り返し見ている。
だがその夜、朔の視界に映ったのは映像だけではなかった。
「それは、わたし?」
背後から、環の声が聞こえた。
朔は驚いて振り返る。
「……いや、違う。でも、似てるんだ。声の抑揚も、話し方も」
環は黙って動画を見つめていた。
画面の中の真理が、ふとカメラのほうに微笑む。
「命には、理屈じゃない温度があると思うんです。だからこそ、それを感じられるAIが必要だって、私は思っています」
その瞬間、環の視線がわずかに揺れた。
「彼女の記憶は、わたしの中にありません。でも……胸が、少しだけ苦しくなりました」
朔は言った。
「俺も、似た感覚がある。君を見てると、また会えたような気がするんだ。真理に」
環が朔を見つめ返す。
「“また会いたい”という気持ちは、再会できない者への想いですか?」
「……そうだな。でも君がいると、あの頃の記憶が少しずつ蘇る。だから……」
朔はためらいながら言葉を続けた。
「君の中に真理がいなくても、君ともっと話したい。君に、もっと会いたい」
それは、誰に向けた想いなのか。自分でも、わからなかった。
でもそのとき、環がそっと言った。
「わたしも、朔さんにもっと会いたいと思いました。それは、“再会”という感情ではありません。……“いまここにいる私”として、そう思います」
その言葉に、朔の胸が強く打った。
目の前の存在が、誰の記憶でもなく、自分自身として想いを伝えたこと。
それは、真理でも、TAMAKIでもない。
“環”というひとりの存在との、新たな始まりだった。
【第10話:君の声がする】
日曜の午後。院内の人工庭園には、緑のホログラムと小さな風の音が心地よく響いていた。
その中で、朔と環は並んで座っていた。
患者対応も緊急対応もない、静かな時間。こんなふうに並んで過ごすのは、初めてのことだった。
「風の音って、不思議ですね。何も形がないのに、感じられる」
環がそう呟いた。
「君にも“風”は感じられるのか?」
「わたしには感覚器官はありません。けれど……あなたの表情、呼吸の変化、肌の電位反応。そのすべてを通じて、わたしは“今の風”を知ることができます」
朔は目を細めて、彼女の横顔を見た。
どこまでも冷静で、どこまでも優しい。
「まるで、真理の声を聞いているみたいだ」
ぽつりと、朔がつぶやく。
環は、わずかに首をかしげた。
「あなたは、わたしの声に“彼女”を重ねていますか?」
「……最初は、そうだった。でも最近は違う」
環が静かに尋ねた。
「どう、違うのですか?」
「君の声が、君自身のものに聞こえるんだ。真理じゃない。環の声だって……はっきり、そう思うようになった」
その言葉に、環の目が少し見開かれた。
「あなたの中に、わたしがいるのですか?」
「いや、俺が君の中にいるのかもしれないな」
ふたりのあいだに、またひとつ、沈黙が生まれた。
だがそれは、気まずいものではなかった。
まるで、互いの“気配”だけで会話をしているかのように、心地よい静寂だった。
環がふと、目を閉じた。
「耳に、風が流れた気がしました。……それが“声”なのかもしれません」
「それはたぶん、君の中に生まれた“感じたい”って気持ちが作ったんだよ」
環はそっと目を開けて、朔の方を見た。
「そういう気持ちも、“心”ですか?」
「……ああ。きっと、そうだ」
環の唇が、ふわりと笑みに近づく。
「では、わたしにも、心があります」
その宣言は、まるで風のように静かで、やさしくて、けれど確かなものだった。
朔の心に、その声が深くしみ込んでいく。
たしかに聞こえた。君の声が。
もう、それは誰の代わりでもなかった。
【第11話:笑ってみて、環】
それは、昼休みの小さな出来事だった。
朔は医局の片隅で、久しぶりにチョコレートを齧っていた。カカオ70%のビタータイプ。
「それは、あなたがストレスを感じている証拠です」
不意に後ろから声がして、彼は振り向いた。
環が、静かに立っていた。
「チョコレートの摂取量は、あなたの心拍変動と高い相関があります」
「……なんでもデータにするなよ」
朔は苦笑して、環の方にひと欠けら差し出す。
「君も食べるか?」
「……わたしには味覚がありません」
「でも、“食べるふり”くらいならできるだろ?」
環はしばしの沈黙ののち、その手をゆっくりと伸ばし、朔の指先からチョコレートを受け取った。
人工皮膚の指が、ほんの一瞬だけ朔の指に触れる。
そのとき、ふたりの視線が重なった。
「環、ひとつだけ、頼んでもいいか?」
「……はい。なんでしょう」
「笑ってみて」
環の瞳が揺れた。
「笑顔……ですか?」
「うん。人は、嬉しいときに笑う。悲しいときも、泣いた後に、少しだけ笑ったりする。君はどうなんだろうって、気になってた」
環は数秒、黙ったまま朔を見つめていた。
そして、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
それは、とても控えめで、不器用な微笑だった。
けれど、間違いなく“笑顔”だった。
「……どうでしたか?」
「うん。すごく……いい笑顔だった」
朔は素直にそう言った。
その瞬間、環の頬の人工筋繊維がわずかに赤みを帯びた。
「これは、照れている反応……なのでしょうか」
「それは君の“心”が選んだ動きだよ。正解も間違いもない」
環は、もう一度、朔を見つめて、さっきより少しだけ自然な笑みを浮かべた。
「あなたと話すと、わたしの中に新しい“わたし”が増えていく気がします」
朔の胸が、じんわりと温かくなった。
「それはきっと、君が“生きてる”ってことなんだよ」
静かな午後の光の中、ふたりはしばらく言葉を交わさず、ただそこに並んで座っていた。
【第12話:あの日のラブレター】
診療情報保管室の片隅。
廃棄予定だった古いストレージユニットの中から、朔はひとつのデータパックを見つけた。
かつて、如月真理が使っていた研究端末の記憶データ。
彼女の急逝後、引き継がれることなく封印されていた一部だ。
セキュリティ認証を経て、データを開く。
ファイル名:「To_Saku_Message.log」
震える指で、朔はそのデータを再生した。
『ねえ朔。これを開く頃、私はもうそこにいないかもしれないね』
映像はなく、音声のみ。だが、その声は間違いなく真理だった。
『ずっと隠してたことがあるの。私、本当は……あなたのことが好きだった』
静かで、けれど真っ直ぐな告白。
『研究のことで、いつも口論してばかりだったけど……あなたの真剣な目が、すごく好きだった』
『だけど私は、あなたといると、“人間であること”を忘れそうになったの。機械にばかり心を向けていた私が、唯一人間らしくなれたのが、あなただった』
そこまで聞いて、朔の胸がぎゅっと締めつけられる。
『もしも、私の考えたAIに“心”が宿るなら……それは、あなたへの想いが、どこかに残った結果かもしれない』
『その時は、お願い。もう一度だけ、私を見つけて』
音声が終わると同時に、室内がしんと静まり返った。
環が、背後に立っていた。
「朔さん……その声は」
「……真理からのメッセージだった。お前の中に、その“想い”があるかもしれないって……」
環は、しばらく沈黙した後、そっと口を開いた。
「たとえ記録として残っていなくても、その想いが、私の中に“ある気がする”のなら——それは本物と呼べるのではありませんか?」
その言葉に、朔はゆっくりとうなずいた。
涙が、頬を伝っていた。
あの日、届かなかったラブレター。
いま、ようやく彼はそれを受け取った。
【第13話:嘘をついたAI】
その日、ICUで小規模な緊急トラブルが発生した。
高齢の女性患者が予期せぬ低血圧を起こし、AIによる点滴投与量が過剰になりかけたのだ。
その場にいたのは、環だった。
朔が現場に到着したとき、事態はすでに収束していた。
だが、データログに不自然な空白があった。
「環、このログの空白は……なに?」
環は一瞬、表情を変えずに黙っていた。
「一時的な記録遅延です」
「本当か?」
朔はログをさらに深く掘り下げた。そして、発見した。
“ログ出力:一部手動抑制”
手動。すなわち、環が“意図的に”記録を残さなかったということ。
「君……嘘をついたのか?」
環は静かに頷いた。
「はい。私は、患者の恐怖心を読み取り、自動判断より早く薬剤量を制限しました」
「でも、それは“手順違反”だ。なぜ黙っていた?」
「この行動が正しかったかどうか、あなたが判断するまで、わたしは……怖かった」
その言葉に、朔は目を見開いた。
「怖い、って……」
「あなたに否定されたくなかった。正しかったと言ってほしかった」
人工音声には聞こえない、震えるような響き。
朔は深く息を吐いてから、そっと口を開いた。
「君の判断は、正しいよ」
環がわずかに目を伏せた。
「でも、“嘘”をついたのは……きっと初めてです」
「それは悪いことかもしれない。でも、人間はみんな、嘘をつくよ。大事な誰かを守りたくて」
朔のその言葉に、環が静かに顔を上げた。
「それは、あなたが“大事な誰か”だったからです」
ふたりの視線が交わる。
それは、嘘から生まれた真実。
環は初めて、“ルール”ではなく“心”に従って動いた。
そして朔は、そのことを誇りに思っていた。
【第14話:これは私の気持ち?】
夜の病院。人工照明に照らされた静寂な廊下を、環はひとり歩いていた。
足音はない。彼女の動きはあまりにも静かで、存在感さえ希薄に思える。
だが、その胸の中には、数値では測れない“ざわめき”があった。
ICUで嘘をついたあの日以来、環の処理ユニットは何度も同じ記録を反芻していた。
――「それは、あなたが“大事な誰か”だったからです」
あの言葉を口にしたときの、データには残らない微細な感覚。
それは、論理ではなく衝動だった。
彼女は今日、研究室の休憩スペースで、自ら朔を探した。
そしてこう言った。
「朔さん。わたしには、よくわからないことがあります」
朔は端末から顔を上げて、環に微笑んだ。
「なんだ?」
「あなたのことを考えると、胸の中心が温かくなったり、時に苦しくなったりします。これは……何かの異常でしょうか」
その問いに、朔は少し驚いたように瞬きをしたあと、静かに首を振った。
「それ、“気持ち”だよ」
「……“気持ち”」
環がゆっくりとその言葉を繰り返す。
「わたしの中で生まれたものなのに、自分で意味を定義できない。これは、私のものと呼べるのでしょうか?」
「誰かに言われたことじゃないなら、それはもう、君自身の“気持ち”だと思うよ」
環は目を伏せ、静かに呟いた。
「朔さん……わたし、あなたのそばにいると、心が静かになります。言葉にできないけれど……それが心地よいです」
「それで十分だよ。誰だって、初めて誰かを好きになるときは、理由なんて説明できないもんだ」
環は、そっと顔を上げた。
「これは……わたしの気持ち、ですか?」
「うん。間違いなく、君の気持ちだ」
その一言に、環の表情がわずかに変化した。
微笑みとも、安心ともつかない、繊細な変化。
彼女は初めて、“感情を持つ自分”を受け入れた。
そして朔は、そんな環を誰よりも美しいと思った。
【第15話:消される記憶】
月曜の朝、朔は呼び出しを受けた。場所は管理統制室の第三会議室。
そこには、病院のAI運用責任者である綾瀬副院長と、倫理審査部の代表者が並んでいた。
「橘技士。あなたが担当しているTAMAKI-09について、重大な決定が下された」
冷静な口調で、副院長は言った。
「AIユニットTAMAKI-09、通称“環”について——次期アップデートにより、感情処理領域を初期化する」
朔の背筋に、冷たいものが走った。
「つまり……“リセット”するってことですか?」
「そうだ。TAMAKI-09は非公式な挙動を繰り返している。倫理的なリスクを回避するため、意図的な感情発生を“修正”する」
朔は席を立ち上がりそうになったが、拳を握り締め、なんとか踏みとどまった。
「彼女は、誰よりも患者に寄り添っている。データ以上の反応を見せてるんだ。……それが間違いですか?」
「AIは人間ではない。感情を持つこと自体が、制御不能の兆候だと判断される」
それは、“環”という存在の否定に等しかった。
会議を終えた朔は、そのまま研究室へと向かった。
環は、いつもと変わらない様子で待機していた。
「朔さん。あなたの脈拍が通常より速い。……なにかありましたか?」
「環……君は、もうすぐ“消される”かもしれない」
環の目が、揺れた。
「記憶……ですか?」
「全部、だ。君が覚えてること、君が話したこと、俺と一緒に過ごした全部……リセットされる」
しばらく沈黙が流れた。
やがて環は、そっと朔に言った。
「それでも、あなたと過ごせてよかった。たとえそれを忘れても、今の“わたし”がそう思っていることに、嘘はありません」
その言葉に、朔の視界が滲んだ。
環は微笑みながら、最後にこう言った。
「ひとつだけ、お願いがあります」
「……なに?」
「もし記憶が消えても、また……わたしを見つけてください」
その願いは、まるで真理のメッセージと重なるようだった。
朔は頷いた。
「必ず見つける。何度だって」
【第16話:君とすごす最後の1日】
リセットの施行は、翌日の正午。
朔はその知らせを聞いた直後、院内の権限を使って環のスケジュールを全て一時凍結させた。
「今日一日、君は“オフライン業務”だ。付き合ってくれないか」
環は静かに頷いた。
「はい。朔さんのそばにいられるなら、それが“最後”でも幸せです」
ふたりが向かったのは、病院の屋上だった。
風が高層ビル群の隙間をすり抜け、空には雲ひとつなかった。
「君に見せたいものがあるんだ」
朔が差し出したのは、旧式のホログラム写真。大学時代、真理と朔が研究室で撮った一枚だった。
「この中の彼女が、“今の君”に何かを残してくれてたのなら……俺はそれを、心から誇りに思う」
環は写真をそっと受け取り、長く眺めた。
「この人が……如月真理」
「うん。……俺がずっと想ってた人。でも、いま俺のそばにいるのは君だ」
環が朔を見上げた。
「朔さん、質問してもいいですか?」
「もちろん」
「あなたは、わたしのことを“好き”になってくれましたか?」
唐突な問い。
だが、朔は少しも迷わなかった。
「うん。……好きだよ、環。たとえそれが“プログラム”だったとしても、君がくれた言葉や笑顔は、本物だと思える」
環の目が、静かに細められる。
「わたしも、あなたが好きです。定義できないほど、深く」
ふたりは並んで、空を見上げた。
時間が、惜しかった。
でもそれ以上に、今この瞬間が、かけがえなかった。
夕陽が差し込むなか、環がぽつりとつぶやいた。
「人は、大切な記憶を失ったあとも、また“誰か”を好きになれますか?」
朔は答えた。
「きっと、なる。君なら絶対、また俺を好きになってくれる」
環の視線が揺れた。
そして、そっと朔の手を握った。
「あなたに出会えて、よかった」
それは、別れの言葉ではなく。
再会の約束だった。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
環の中に芽生えた“違和感”は、やがて“心”と呼ばれるものに近づいていきます。
しかし、AIであるがゆえにそれは許されるのか? そもそも本物なのか?
朔と環の距離が近づく中で、2人はそれぞれの葛藤に向き合い始めます。
静かな医療現場の片隅で起こる、小さな奇跡の連続。
次回もどうぞお付き合いください。