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引き出しの手紙

作者: 苗奈えな

 父の弘忠が病気で死んだとき、中学生の斎藤弘矢は泣かなかった。葬儀や学校で親戚や友達からの気遣いの言葉にも、心はどこか遠くにあった。寂しくなかったといえば嘘になるが、正直それほど大きな喪失感もなかったのだ。

 父は、無口で厳しく、怖い存在だった。声を荒げることもなく、ただ静かに叱る。感情の読めない表情で「やるべきことをやれ」と言う。その表情が、弘矢には何よりも怖かった。

 母は「あの人は優しい人だった」と言っていたけれど、弘矢にはそうは思えなかった。


 一年の時が過ぎ、弘矢は高校生になった。新しい制服に袖を通し、重たくなった鞄を肩にかけて帰る途中、弘矢は父母と笑いながら歩く同級生たちを見た。少しだが、さすがに寂しい気持ちが湧いた。

 帰宅後、無意識のように足は父の書斎へ向かっていた。

 母がそのままにしておいたその部屋は、時間が止まったように静かだった。埃をかぶった古びた本棚と分厚い書籍の数々、そして父が使っていた机。

 何となく引き出しを開けると、ノートやメモ帳、数本のペンが整頓されて入っていた。その奥、手が届きにくい隙間に、ひとつの封筒が隠されるように入っていた。

 封筒の表には、こう書かれていた。

『未来の弘矢へ』

 中には、一枚の便箋が丁寧に折り畳まれて入っていた。

『この手紙が見つかる頃、弘矢はどうしているだろうか。少しでも幸せでいてくれたら、父は嬉しい』

 文末には「父 弘忠より」とあり、その横に2024年4月7日と日付が記されていた。

 もし弘矢が父のことを好きだったのなら、父からの手紙に泣いたのだろう。しかし、弘矢が心を動かされることはなかった。ただ、同級生の姿にあてられたのだろうか。弘矢は一枚の紙を取り出すと、返事を書いた。

 母親も自分も元気にやっていること。高校生になったこと。入学式で父がいないことにふと寂しくなったこと。文末には、思ってもいない『ありがとう』を添えて引き出しに入れた。

 翌日、何の期待もせずに開けた引き出しの中に、新しい便箋があった。

『驚いた。返事があるとは思わなかった。最初は諒子のいたずらかと思ったのだが、文字を見た瞬間弘矢だと分かったよ。思っていたよりも早く見つかってしまって、恥ずかしいな。でも、ありがとう。二人が元気でいてくれて、本当にうれしいよ』

 手が震えた。現実とは思えなかった。でもたしかに、父の字だった。父の言葉だった。

 それから手紙のやりとりが始まった。引き出しの中でだけ繋がった、不思議な対話だった。

 父は、日常のささやかなことを手紙に綴った。母の作った夕飯の味、子どものころの思い出、一緒に観た映画の話。そして――あの厳しい叱り方の裏にあった気持ちのことも。

『お前を叱ったとき、毎回心が苦しかった。どう接すればよかったのか、今でも正解は分からない。感情をどう出せばいいのか、昔から苦手なんだ。無表情のように怒る俺を、きっと怖がっているのだろうな。でも、弘矢をちゃんと育てたかったんだ。許して欲しい』

 弘矢は、その言葉に胸が詰まった。ずっと知りたかったこと、分かりたかったことが、今になってやっと伝わってきた。

 数日が過ぎたころ、弘矢はあることに気づいた。日々やり取りする際に書かれている手紙の日付、それは“去年の今日”と一致していたのだ。

 今日が4月13日。明日は4月14日。その日付は――父の命日。

 それを悟ったとき、背筋に冷たいものが走った。残された時間は、あと1日しかなかった。

 その日の父の手紙には、こう綴られていた。

『実を言うと、最近体がきついんだ。医者には言われていないけど、自分の体だ。もう長くはないことはなんとなく分かる。死ぬのは怖い。でも、お前とこうして話していると、不思議と心が安らぐ。ありがとう、弘矢』

 弘矢は、ネットで父の病気を調べ、治療に評判のある病院を探し出した。そして、住所と医師の名前を書き添えた手紙を綴る。

『父さん、お願いだ。下の住所にある病院に行って。この先生なら、父さんを助けられるかもしれない。未来は変えられる。きっと、まだ遅くない』

 祈るような気持ちで便箋を引き出しに入れた。

 そして4月14日。引き出しに、手紙は無かった。

 父さんは、もういないのだ。

 

 その日、仕事から帰ってきた母に父が亡くなった日のことについて聞いてみた。母は驚いたような顔をしていたが、すぐに寂しげに微笑むと言葉を紡ぎ始めた。

「お父さん、亡くなる前の晩、笑っていたのよ。普段全然そんなこと言わないのに、『ありがとう』とだけ言って、すごく穏やかな顔で眠ったの。そして、そのまま起きてこなかった」

 かつては怖かった父。けれど今は、優しさと不器用さが滲んだ、ひとりの人間の姿がそこにあった。

 弘矢はその場にしゃがみこむように座り込み、泣いた。葬式でも流れなかった涙が、次から次へと頬を伝った。

 もう、父からの返事は来ない。

 でも確かに、7日間だけ――父と自分は、時を越えて繋がっていたのだ。

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