猫と人間の話
はじめまして。
僕は白猫のアメといいます。
ご主人様は幸加という穏やかな性格の女の子です。
幸加はいつも何が楽しいのか、にこにこ笑っています。
僕はその笑顔を見るのがとても好きです。
でも最近、僕の大好きな幸加が辛そうなのです。
僕がこの家に来たのは一年前。以前飼われていた人から公園に捨てられて、寂しくってにゃーにゃーないているところを幸加が気づいて助けてくれた。
雨も降ってて、寒いし寂しかったけど、幸加に会えたから僕は本当に運がよかったんだなって思う。
ちなみに僕のアメって名前は、雨が降ってた時に拾ったからつけたんだって幸加が言ってた。
単純な人だなって思う。でも僕はその名前が大好きだ。幸加のことだって大好きだ。
幸加の住んでいるところはアパートで、動物を飼うのは禁止だから暴れないでね、と言われている。
大好きな幸加を困らせないように、僕は大概部屋でのんびりしている。幸加は一人暮らしだから他に人はいないので、僕は一匹でゆっくり眠ることができた。
幸加は普段仕事に行っている。何の仕事かは知らないけど、楽しいんだよって嬉しそうによく僕に話してくれる。
ただ、この間から幸加の様子が変だ。
辛そうにため息をついて座っているところをよく見るようになった。
幸加の具合が悪そうな時、僕は幸加の体に頭をこすりつける。幸加は毎回、嬉しそうに笑って僕の頭を撫でてくれた。
「ありがとう。アメは優しいね」
僕が小さく「大丈夫?」の気持ちを込めて鳴くと、言葉が通じたみたいに幸加は心配しないでと言う。
どうして僕は猫なんだろう。
そんな事を考える。考えても無駄だけど。
僕がもし人間なら、辛そうな幸加の手助けができるのに。
「ただいま~、アメ」
幸加が仕事から帰ってきた。僕はハッとして幸加の元に駆けていく。
前に比べると仕事から帰ってくる時間も遅くなってきたように感じる。時計というものが読めないから、猫の僕が正確に時間を確認することはできないけど…。
靴を脱いでいる幸加に、人間の言葉にはならないけどおかえりと声をかけた。
幸加はいつものように笑っている。でもきつそうにしているのがわかる。
幸加が僕をひょいっと抱え上げた。そしてにこにこしながら楽しそうに言う。
「ね、アメ知ってる?今日は流れ星が見られる日なんだってよ。ちょうど時間もいいし、今から見に行こうか」
流れ星に願い事をいうとそれが叶うんだよ、と幸加が教えてくれた。
外に出ると真っ黒な空に星がキラキラ輝いている。今は幸加もきつくないみたいで、幸加の腕の中にくるまれた僕は、にこにこしている幸加を眺めていた。
「楽しみだねぇ、アメ」
にこっとして幸加が僕に笑いかける。僕はにゃーと返事をした。
「あれ?」
僕たちの後ろから、不意に誰かの声がした。僕は聞き覚えのない声だ。
幸加がくるりと後ろを振り返った。僕も姿を隠すように幸加の腕にひし、と掴まりつつ声の主に顔を向ける。
そこに立っていたのは幸加と同じくらいの若い男だった。
幸加と同じで柔らかい雰囲気の人間だと思った。
「早乙女さんだよね。…あ、俺のこと、わかる?」
にこりと笑って男が幸加に問いかけた。幸加も同じように笑ってこくりと頷く。
「隣の部屋の安形君でしょう。これでもちゃんと覚えてるんですよ~」
えっへん!とでも言いたげな幸加の言葉に、嬉しそうな顔をして安形という人が笑った。そしてふい、と僕に目を向ける。
「その白猫は?」
隠れてたつもりなのにすぐにバレてしまった!
びくりと体を震わせた僕をものともせず、幸加は僕の頭を撫でながら口を開く。
「うちで飼ってて、アメっていうの。可愛いでしょう。あっ、秘密にしててくださいね」
それって言っていいのか、と思いつつ僕は安形さんに「秘密にしてね」と意味を込めてにゃぁ、と短く鳴いた。
安形さんはさほど驚いた様子もなく「はい」とおかしそうに笑っていた。
…変な人だなぁ。でも、僕のことを黙っててくれるんだったら、いい人なのかもしれない。
「早乙女さんも流れ星見に来たの?」
「そう。安形君もなんだ」
なんだか親しげに二人で話している。僕はやることもなくて、しっぽをゆっくり動かした。
「時間的にはもうすぐなんだけど…」
安形さんが腕時計を見つめる。幸加はゆらゆら揺れる僕のしっぽを触りながら、視線はじっと空を見上げていた。僕も幸加と一緒に空を見る。
2人と1匹で今か今かと空を眺めていると、何かがキラリ、と光って空を駆けていった。
「流れ星だぁ」
幸加が嬉しそうな声を上げる。あんなに早いとは思わなくて、僕はついまた流れるかなってじっと星を眺めてしまう。
「ほら、アメ。流れ星だよ~。わっ、沢山流れてきた!」
一緒に見てるよ、という思いを込めて僕は猫の言葉で幸加に返事をする。
そこで僕は幸加の言っていたことを思い出した。
―――流れ星に願い事をいうとそれが叶う
僕は幸加の顔を見る。楽しそうな幸加がいた。でも僕の脳裏には辛そうにしている幸加が思い浮かぶ。
僕は、空を次々と駆けていく星に目を移した。
流れ星さん、どうかお願いです。
僕は幸加の役に立ちたいんです。
どうか、僕を人間の姿にしてください。
流れ星に願い事をしてから、次の日の朝。
外で鳥の声がした。僕はいつものように自分の敷物からのそりと体を起こす。
そして異変に気がついた。
……あれ。
自分の前足を見る。
それはいつものふわふわした毛で覆われた前足ではなかった。
―――これは…人間の、手?
恐る恐るじっと僕のだと思われる手を見た。毛のないつるつるの物体。
僕は自分のそれを握ってみたり開いてみたり、何度も動かした。
試しに鳴いてみる。
「あー…」
聞こえてきたのはいつもの猫の声ではなく。
もしかしてこれって人間の声?
もしかしてもしかして、僕は、本当に人間になれたんだろうか?
目の前で動くのは幸加と同じ人の手で、いつも見える白いしっぽはない。
顔を触る。スベスベしていた。これが人の皮膚?
「……あの……」
僕が黙って自分の体を触ってみたりしていると、布団でまだ寝ているはずの幸加の声がした。
ぎょっとして声のした方を見る。
そこに立っていたのはやっぱり幸加で。
何が何だかわからなくて幸加の元に飛びつきたいけど、今の僕は突然家の中にいた見知らぬ男…。
どうしていいかわからなくてその場で固まってしまう。
幸加は僕をしばらくじっと見て、首を少しかしげるといつものようにニコリと笑った。
「もしかして…アメ?」
「え?」
幸加は驚く僕を見て、楽しそうな笑顔を絶やさないでいる。
幸加より僕の方がびっくりしちゃってるんだけど。
普通はきっと見知らぬ男が部屋にいるのだから、叫んだり、殴ってきたりしてもおかしくないんじゃないのか?そういう事件ってやつをテレビで見たことがあるのに。
疑問がいくつも僕の頭をくるくる回った。目を見張ったままの僕にとことこ近付きながら、幸加が「ねぇ」と声を出す。
「そうでしょう?あなた、アメでしょう?」
うきうきしたように幸加は瞳をキラキラ輝かせて言った。
僕は困惑してたどたどしくなりながらも言葉を紡ぐ。
「どうして、僕…が、アメって?」
幸加は僕の質問に変わらぬ優しい笑顔のまま答える。
「だって、どこにもアメの姿が見当たらないし…。そこアメのお布団だしね。あれ?アメ、自分の髪の毛まだ見てないのかな?」
幸加はどこからか鏡を手にして戻ってくると、僕を映した。
――――鏡に映っていたのは真っ白い髪の若い男だった。
「これ、僕?」
だと思うよ、と幸加がのんびりとした口調で答えた。僕は自分の見慣れない顔をぺたぺた触る。
「アメと一緒で真っ白だし、すごい猫みたいなツリ目なんだもん。猫の時のアメと同じでかわいいねぇ」
幸加はすっと僕の頬に手を置いた。
猫みたいなツリ目とアメと同じ毛並みを真っ白い髪。そんな僕の外見で判断したとは。やっぱり幸加は単純だと思う。
「会話とか出来るの楽しみだねぇ、嬉しいなぁ…。夢みたい!こんなこともあるんだね、アメ」
それにしてもイケメンだなぁ、となぜか幸加が誇らしげに言った。
…やはり彼女は単純だ。でもその単純なところが僕の大好きな幸加だなぁ、と思う。
人間になった僕と幸加の日々は平和に過ぎていく。過ぎていたけど、幸加の体調は何も変わらなかった。
仕事から帰ってきた幸加はまた辛そうに座り込んでいる。
「幸加、大丈夫?僕、何したらいい?」
僕はオロオロして幸加の背中をぽんぽん叩いた。
「ありがとう、アメ。背中さすってもらえる?」
幸加の言葉に僕は頷き、背中をさする。だんだん幸加が落ち着いてきた。
ふぅ、と幸加は息を吐いた。
「やっぱり人がいるのといないとじゃ違うんだね」
そう言ってにこりと笑う。僕はそんな幸加の背中をたださすってあげることしかできなかった。
人間になってできることは背中をさすってあげるだけなのか?
無理して笑って欲しくなんてないのに…。
僕が人間になってから、多分数週間がたった。
最近はコツを掴んで、幸加の役に立てているような気がする。
たまに動くのも辛いみたいだから、その時は僕がいろいろな家事をしていた。
僕は毎日幸加の動きを見てきたから、大体のことを見よう見真似でやることができる。今も水はやっぱり苦手だけど…。
でもこの間、初めて卵焼きを作ってみたけれど全然上手く出来なくて、卵が真っ黒になった。
幸加はその僕の卵焼きを見てケラケラ笑った。それを食べて、幸加は言った。
「美味しいよ、アメ。…まぁ、ちょっと焼きすぎだったよね」
その時の幸加の笑顔は本当に楽しそうで、僕はホッとした。
早朝から幸加の様子がおかしかった。
「幸加、大丈夫?きついんじゃないの?」
今日はいつもより幸加の体調が悪そうだ。心配になって声をかける。
病院ってところに行ったほうがいいんじゃないのかな…。
「大丈夫、大丈夫…」
幸加が小さな声で言う。とてもじゃないけど大丈夫には見えなかった。
「幸加、今日は仕事休んで病院に行こうよ…。僕も一緒に行くから…。ね?」
僕が言うと幸加はふるふると首を横に振る。そして、ドアをゆっくり開けた。
「本当に大丈夫だから…。仕事に穴開けちゃう訳にはいかないし。ありがとう、ア…メ…」
ふらりと幸加の体が揺れたと思ったら、ドアノブから手を離し、そのまま玄関に倒れ込んだ。
驚いて幸加の肩を掴んで大きく揺らす。息はしているが、意識がないようだった。
どうしよう?!
焦って部屋中を見回す。
早くしないと幸加が…!!
ふ、と玄関の方を見る。猫の僕にできる事なんて…。
いや、違う。今の僕は人間だ。幸加を助けられる手と足がある。
幸加を抱えて病院に行ける!
髪は真っ白だけど、そんなのどうだっていい。今の僕なら幸加を救えるんだ!
そうか、このために僕は人間の姿になったんじゃないのだろうか。
そんな考えが僕の頭に思い浮かぶ。
そうだ、きっとそうだ!
もしタイミングがよければ外に出て誰かの車に乗せてもらうことも出来るかもしれない。
「幸加、安心して。僕が絶対助けるから…!」
口に出して決心すると、僕は幸加を抱きかかえるために一歩足を踏み出した。
その時だった。
ポンッ!
何かが弾けるような音がして、僕の視界が一気に低くなる。
……え。
下を向くと、すぐに床が見えた。嫌な予感がする。
自分の手を見ると、視線の先にはふわふわした毛で覆われた、見るのは久しい猫の手が見えた。
「にゃ――――?!」
もう人間の言葉も話せない。僕はただの猫に戻ってしまったのだ。
ぺたんとその場に座り込む。
一体どうすればいいのだろう。
ここのアパートはペットを飼うのは禁止だ。無闇に外に出ることもできない。というか、猫の僕が誰に助けを求めればいいんだ。流れ星は、このために僕を人間にしたんじゃなかったのか?
あわあわとしていると頭に誰かの顔が思い浮かんだ。
この間会った、隣の人…。
安形さん。
あの人なら僕のことも知っている。もしかしたら助けてくれるかもしれない。
幸加がちょうど開いたところで倒れてしまったから、ドアが半開きになっている。よかった。僕はするりと外に出た。
幸加の住んでいる部屋は端だから隣の部屋はたった一つしかない。
僕はドアをカリカリとかく。にゃーにゃーと声も出した。
今は朝だ。丁度仕事に行くために安形さんが外に出てくるかもしれない。
早く、早く。
幸加が手遅れにならないうちに。それから、僕の存在に他の人が気がつかないうちに。
まさかもう部屋にいないんじゃ…?
ガチャリ
僕が不安に駆られていると、不意にドアが開いた。そしてあぁ、と楽しそうな声も聞こえる。
「猫の声が近くからするなぁ、と思ったんだよね。うちの前だったかぁ。アメ…だっけ。どうしたの?」
この声と柔らかい雰囲気。
安形さんだ。僕は頭を撫でようとした安形さんの手を避けて、服の袖に噛み付くと軽く引っ張った。
わ、と驚いたような安形さんの声が聞こえる。
にゃぁ、と短く鳴くと僕は幸加のいる部屋に走っていった。安形さんがついてくる。
ドアが開きっぱなしのことに気づいて安形さんが部屋の中を覗いた。
「さ、早乙女さん?!」
倒れていた幸加を見つけてから、安形さんの行動はとても早かった。
どこかに電話したり、僕に代わって安形さんが全てやってくれた。
あれから数日。
僕は変わらずずっと猫の姿のままだった。
どうして僕は短い間でも人間になれたんだろう。たまにうーんと唸って考えてみるけど、神様の気まぐれなんて猫の僕には理解できなかった。
もしかすると僕が日頃から人間になれたら、なんて言っていたから猫のままでもそれなりに役に立てるということを教えてくれたのかもしれない。
でもあの時間は僕にとって何物にも代えがたい、夢みたいな時間だったなと思う。
そんな神様の気まぐれに付き合わされた幸加は、僕が猫に戻ってから「もっと一緒に喋りたかった」と残念がってくれた。
「ごめんね、アメ。心配かけちゃったね。でもアメのおかげで助かったよ。ありがとう」
幸加が僕の頭を優しくなでる。ゴロゴロと喉がなった。
幸加は数日入院して、最近やっと帰ってきてくれた。その頃の僕の世話は安形さんが代わってくれて、僕らはそれなりに仲良くなった。やっぱりいい人だな、と思う。
命に別状はなく、もう大丈夫と幸加は言った。
ずっと体は疲れていたのに、無理をしすぎていたのだ。
最近は前みたいに仕事で帰るのが凄く遅くなったりはしない。「もう無理はしない!」と幸加はいつだったか宣言していた。
また元気になった幸加とごろごろしていると、チャイムが鳴った。幸加がドアを開ける。
そこに立っていたのは安形さん。
あれから幸加とも仲良くなって、最近はよくお互いで遊んでいるようだ。
僕はそんな二人を見て、喉をくるる、と鳴らした。
今の幸加は全然辛そうじゃなくて、とても楽しそうです。
大好きな幸加の笑顔がいつもキラキラ輝いています。
幸加は僕を拾ってくれた時、言っていました。
「私の名前は幸せが加わるって書くんだよ。君は家族に加わったんだから、私の幸せの一つだね」
僕のことを幸加は幸せだと言ってくれました。
僕は幸加が幸せなのが一番嬉しいです。
名前の通り、幸加が幸せに沢山恵まれた人生を送れますように。
今度また流れ星を見ることがあれば、僕はそう願おうと思います。