7 その日、砕け散ったもの。
胸騒ぎに眼が覚めた。
タウンハウスの使用人用の小さな部屋は、メイド四人で使っている部屋だ。二段ベッドが二つあるだけの、寝るための場所。でも今は私だけしか居ないから、広く感じる。
むくりと起き上がって、部屋の外の様子を伺った。
今夜は皇王陛下の誕生祭最終日。城下の祭りもこの晩が最も賑やかで、大広場では男女が輪になって踊るのだ。若い男女の出会いの場でもあるから、休みを貰った使用人達はこぞって出かけている。
旦那様も奥様も舞踏会のために不在だし、きっと屋敷に残っているのは私とお嬢様達と、年老いた執事だけのはず。だから屋敷のなかはとても静かなはずなのに、天井が軋んだ。
メイド部屋は半地下にあり、真上には玄関ホールだ。建物全体が古いせいか、この部屋は玄関ホールを誰かが歩くと足音が響いてきてしまう。そのせいで、私は眼をさましたんだろう。
体感として、それほど長く眠ってはいないはずだ。祭りに出かけていた誰かが戻ってきたのだろうか? 足音がなんだか重かったような気がして、どうにもひっかかる。この屋敷の使用人なら、地下のメイド部屋に音が響く事を知っているから、夜間はもう少し気を遣って歩くはずだ。
旦那様や奥様なら、先に馬車の音がするからもっと騒がしくなる。
何故だろうか。どうしても、私はもう一度眠る気にはなれず、そっとベッドから抜け出した。
履き古した靴に足を突っ込み、所々すり切れたストールを肩にかけて部屋を出る。確かに玄関から足音がしたはずなのに、屋敷の中は誰もいないかのように静かだった。
玄関ホールには誰もいない。だけど、ほんのかすかに上から物音。
もしかして、またあの悪魔が外出していたのかしら。それで、戻ってきた? でもあれは子どもの足音じゃなかった。
なんでこんなに、胸騒ぎがするんだろう。
胸の奥が、鉛をのみこんだかのように重くて仕方がない。
少し、少しだけ。
キャスリーンお嬢様がちゃんと寝ていらっしゃるか確認して、私も寝よう。お嬢様にお変わりがないか、それだけ確認するんだ。そうしたらきっと安心できる。
そう思って、急いで階段を昇っていく。足音をできるだけたてないようにしていたのは、やっぱり心のどこかで、不穏を感じとっていたからなのかもしれない。
急いでいた。だけど、屋根裏部屋へ続く階段に辿り着いたとき、私は躊躇した。階上から、悪魔の声が聞こえたからだ。
「だからね、キャスリーン。あたしにとって、この身体にマリアベルが居座っているのは邪魔でしかないのよ。あんたはあたしを追い出したいんでしょうけど、あたしは逆ね。マリアベルを追い出したい。でもあの子ったら、さすが主人公よね。女神の加護のおかげかしら? 魂が頑丈でなかなか壊せないのよ。同じ身体に入ってるあたしに壊せないって相当だと思わない?」
主人公? どういう意味なの。
それに、女神の加護? もしかして、女神デメティエル様のこと?
悪魔は「神様のえこひいきとかずるいわよね~」なんて言っているけど、さほど悔しそうには聞こえない。
「それで、まあいろいろ調べてみたんだけど、面倒くさくなっちゃって。だって魂が元気だからあの子、ここまで抗えるわけじゃない? なら思いっきり絶望させてあげれば、流石にメンタル削れると思うのよね。弱り切ったところで、あたしの魔術で分離する! そうしたら……そうね? あたしは慈悲深いから、無理矢理分離されて壊れた魂でも良ければ、あなたのお墓に一緒に入れてあげるわ」
「……っ!」
悪魔が何を言っているのか、私にはよく理解できなかった。でも、これだけははっきりしてる。
悪魔は、キャスリーンお嬢様を殺すつもりなんだ!
がくがくとふるえる足を叱咤して、階段を駆け上がる。
「さようなら、キャスリーンお姉様。本当はもっと長く遊んであげたかったけど、あたしがマリアベルになるほうが、大事だものね?」
はやく、はやく、気がはやる。
だけど、ダメだった。
階段を上りきり、開け放されたままのドアから屋根裏部屋に飛び込む私の目に飛び込んだのは――……。
「きゃああぁっ!!」
「お嬢様っ!!」
屋根裏部屋の窓から、突き落とされるキャスリーンお嬢様のすがた。
お嬢様を突き落としたのは――トマスだ。
お嬢様!
キャスリーンお嬢様が!
真っ白な頭のまま、お嬢様が落とされた窓辺に駆け寄る。
「あ、ぁああ……」
キャスリーンお嬢様の小さな身体が、浅く刈り込まれた垣根に埋まっている。枝が折れ、あたりに飛び散っていた。
――こんな高さから、落ちて、無事なはずが、ない。
「あはっ。あははははっ! 気付いた? マリアベル。どうかしら? お姉様はあんたのせいで死んだわよ? あんたがいた孤児院も、今頃まるごと燃えてるわ。……この屋敷すぐ燃え尽きるのよ」
悪魔の甲高い笑い声が鼓膜を揺さぶる。
「コニーにも死んでもらおうか? どうする? ……、そう、それでいいのよ、マリアベル」
トマスがぐいっと私の腕を掴んだ。
そこでようやく、私は悪魔の姿に眼を向けた。いつもどおり愛らしい、寝間着姿のマリアベルお嬢様。
だけど――その姿はあまりに異様だった。
愉しげな邪悪な笑みを満面に浮かべているのに、大きな両の眸からは次から次に涙が溢れている。泣いているのは、きっと。
「大人しく出て行くなら、大好きなお姉様の傍にいさせてあげるわ」
にっこりと笑って、悪魔は両の手を胸に当てた。その手に持っていたのは、ピンク色の石がはめ込まれた指輪だ。ぶつぶつと何か呪文を唱え、悪魔は石に口づける。
その瞬間、カッと凄まじい光が溢れた。
赤だ。
禍々しく、不気味な光。
やがて光が収まって、月明かりだけが部屋に差し込む。
もう――春の新芽のような緑の眸に、あの温かな輝きはなかった。
「うふっ。あはははははっ! 素敵! 完璧だわっ! これであたしが本物のマリアベルよっ」
まるで名残のように零れた涙を指先でぬぐいさり、悪魔は高らかに笑った。
愉しそうに、嬉しそうに、くるりと回って、指輪を――……。
「さぁ、コニー。ご主人様に、それを届けてさしあげなさい。鍵になってくれたあの子に、妹を返してあげる」
にこにこと笑顔で、悪魔は私にピンクの石がついた指輪をわたした。そうっと頰を冷たい指先が撫でる。
その時心を埋め尽くしたのは、恐怖よりも、怒りだった。
「この……っ! 悪魔っ!!」
「あらあら、ダメよ? もうあたしにそんな口を聞いちゃ。さぁ、あたしの眼をごらん」
「離して! 何をするつもりっ!? きゃっ」
悪魔を振り払いたかったのに、ぐっと肩を押され身体を押さえ込まれる。
トマスだ。まだ成人もしていないけど、私よりずっと背も高く力も強い。だけど、普段ならこんな乱暴なことをするようなひとじゃなかったのに。
「……っ、なに……」
押さえ込まれたまま、見上げたトマスの眼はがらんどうのようだった。ぼんやりと焦点の合わない眼差しに、ぞくりと背筋が冷たくなる。
まるで蝋人形のように表情が抜け落ちて、一言も言葉を発しない。
……トマスまでが、別人のようだ。
「トマスに……何をしたの……」
「さぁ、こっちをごらん」
ぐいっと顎を引っ張られた。マリアベルお嬢様の愛らしいお顔が、私の顔を至近距離でのぞき込んでくる。
――同じ顔なのに。同じ身体なのに。
マリアベルお嬢様がするわけもない、悍ましい表情。
「あたしの眼をよく見るの。いいこと?」
触れた指先から、何かが身体の中にしみこんでくるかのようだった。
ぐわんぐわんと脳が揺れる。
「その指輪をキャスリーンに届けたら、油をかけて燃やしなさい。屋敷はトマスが火をつけるから、あなたは――……」
悪魔の声が、頭の中で何度も何度も繰り返される。
どうしてか、私の身体は指先一つ動かない。
私にいくつかの指示を出して、悪魔はぱっと両手を離した。
そうしてもう興味をなくしたかのように、弾んだ足取りでキャスリーンお嬢様の部屋から出て行く。
「さぁ~って、屋敷が燃え尽きるまで、夜市でも楽しんでこようかしら」
その小さな背中を、私は追いかけることもできずぼうっと見送っていた。
自分で自分が理解できない。
憎い。
あの悪魔が憎い。
何よりも、あの悪魔に何もできない自分に腹が立つ。
――それなのに。
どうして、私の身体は悪魔の言うとおりに動こうとしているの?
そんなつもりはなかったのに、私はいつの間にか立ち上がっていた。
それだけじゃない。
ふらふら、ふらふら。おぼつかない足取りで、暗いタウンハウスの中を移動していく。その間、頭がひどくぼんやりとしていて、何が起きているのかうまく飲み込めない。
自分の意思で、自分の身体が動かせない。誰かに操られているかのように、勝手に動く。
その事実にようやく気付いたのは、外に出てからだ。
いやだ、怖い。
どうして私はあの悪魔の言うことを聞いているの。
どうして私の身体は、私の思うとおりに動かないの。
怖い。怖い。
――何が?
くすくすと、笑う声が頭の中に響く。
――何が怖いの、簡単なことなのに。
そう囁くのは、誰の声だろう。
……あれ?
ついさっきまで、何かに怒っていたはずなのに、誰かを憎いと思っていたはずなのに、今は何も感じない。
私は何をしようとしていたのだったろう。
何をしようとしているのだろう。
ガサリ、ガサッ。
低木の茂みをかき分け、辿り着いた先には、力なく横たわる女の子。
小さな、まだ幼い、私よりも年下の。
そうだ、この子に、指輪を、わたして、それ、から、
それから――?
頭から血を流して、倒れている女の子。その胸に指輪をのせて――。
「あ、」
月明かりに、ピンク色の石がきらりと輝く。ほのかにあたたかな、柔らかな風が頰を撫でた。
ごとりと何かが落ちる音に、水をぶちまけたような音が続く。ごろごろと転がっているのは、桶だ。そうして桶からこぼれた油が、私の足下を汚していた。それを運んできたのは――私、だ。
すぅ、と霧が晴れるように、意識がはっきりとする。
「……私、今、何を……」
何をしていたのだろう。この桶はどこにあったもの? どこから持ってきたの。何のために、私は、悪魔が、私に。
「お嬢様を、燃やせ、って」
全身から血の気が引いていく。全身が震えて、立っていることすら辛い。だけどそんな私を現実に引き戻したのは、か細く消え入りそうな声だった。
「……コ、ニー……、……」
「お嬢様っ!」
低木の茂みに埋まるように倒れていたキャスリーンお嬢様の両目が、わずかに開いていた。
生きている! 生きていてくださった、まだ!
「お嬢様、キャスリーンお嬢様っ! 待っていてください、すぐ……きゃっ」
背後から吹き付けてきた熱風に、身が竦む。振り返れば、タウンハウスからは火が上がっていた。窓という窓から黒煙が上がり、あっというまに炎に呑まれていく。
そうだ。
あの悪魔は言っていた。
このタウンハウスも燃やしてしまうって。
指輪とキャスリーンお嬢様も、一緒に燃やせと、そう命令したのだ。
私はそれを、実行しようとした。どうしてそんなことをしようとしたのかわからない。いや、違う。わかってる。あの悪魔が何かしたんだ。だって今も、頭の隅で誰かの声が叫んでる。燃やせ、燃やせと喚いている。
「こ、に、……にげ …… て 、マリア、を……」
「お嬢様……。お嬢様、大丈夫です。大丈夫ですから」
きっと私を正気に戻してくれたのは、マリアベルお嬢様だ。だって今も、マリアベルお嬢様の指輪はきらきらと光っている。柔らかな光を放って、私たちを励ましている。
なくさないように、指輪を親指にはめた。大人のサイズのそれは、私の親指でも少し緩いけれど、気をつけていれば抜けることはないだろう。
今にも息絶えそうなキャスリーンお嬢様を背負って、タウンハウスの裏手から路地へと逃げ出した。
間一髪だ。
もっともたもたしてたら、私の寝間着にかかった油に火がついていたかもしれない。
「お医者様、どこか……神殿、デメティエル神殿はだめ、大丈夫です、皇都には神殿がいっぱい……あるんです、から」
どこでもいい。
どこかに駆け込めば、きっと助けてくれる。
神殿が怪我人を突き返す事なんてしないはずだ。
キャスリーンお嬢様ひとりくらい、背負って逃げるのくらい、なんてことはない。はず、なのに。
「はっ、はぁ、はぁ……」
息が苦しい。
心臓が痛い。
頭の中で、声が喚く。
――悪魔の呪いだ。
きっとそうだ。
トマスも呪いをかけられたんだ。
見慣れない夜の街で、悪魔やその手先に見つからないようにと路地裏を歩く。人の姿は見当たらない。今夜は祭りのはずだから、きっとたくさんの人が街にいるはずなのに。どうして、喧噪がこんなにも遠い。
助けて。
誰か、助けて。
お嬢様たちを。
私たちを。
「――テユール、さま」
口をついて出た名前は、吟遊詩人の唄を思い出したせいだろうか。
困っている子どもを助けてくれる、優しい神様。
そんな神様が本当にいるのなら、どうか。どうか。
そう願っていたからだろうか。
頭が働かない。
身体がうまく動かない。
心臓が今にも止まりそう。
誰かにぶつかったことにも気付かずに、私はキャスリーンお嬢様を抱えたまま石畳に倒れ込んだ。
「……! しっかり……だい……!」
焦っているような、人の声。
誰か。
誰でも良い。
だれか。
「たす け て」
私のお嬢様。
私の――ともだちを。
縋りついたそのさきに、目にしたのは、晴れた日の海のような、鮮やかな群青だった。




