4 少女の中に棲むもの
不安そうな顔をなさっていたマリアベルお嬢様だったけれど、キャスリーンお嬢様とベッドに横になったあとは、どこかそわそわと嬉しそうなそぶりを見せていた。お姉様と一緒に眠れるのが嬉しいのだろう。
キャスリーンお嬢様は、マリアベルお嬢様の不安を宥めようと、古くから伝わる童話を寝物語に語って聞かせた。そうしているうちに、マリアベルお嬢様が眠りにつき、キャスリーンお嬢様も私も、緊張しつつ横になった。
何も起きなければ、それでいい。
そう思って……ううん。そう願っていたのだけれど。
緊張していたから、気が張りつめていたのだろう。うとうとと眠りにつきかけたところで、かすかな物音に目が覚めた。
「……あら?」
キャスリーンお嬢様は、起きていたのか、それとも、たった今起きたのか。どちらかは解らないけど、今のはキャスリーンお嬢様の声だ。
何かが起こったのだと察して、長いすから飛び起きる。
天蓋付きのベッドの上で、キャスリーンお嬢様が身を起こしている。マリアベルお嬢様はベッドからおりていた。
「どこへ行くの、こんな時間に」
「……誰よ、あんた」
少し緊張したキャスリーンお嬢様の問いに、答えたマリアベルお嬢様の声は、ひどく冷たかった。
春の日差しのように柔らかな雰囲気を纏っていたマリアベルお嬢様。それなのに、今は昏く冷えた空気を振りまいている。
まなざしも鋭く、訝しむようにキャスリーンお嬢様と、それから私を睨んだ。
「ここはマリアベルの部屋なのに、なんで知らない子が一緒に寝てるの」
「……あなたこそ、誰なの。マリアベルじゃないわね?」
姿は、紛れもなくマリアベルお嬢様だった。声だって、顔立ちだって、何も変わっちゃいない。
それなのに、私にすら、はっきりとわかる。
今、マリアベルお嬢様の身体を動かしているのは、まったく別人だと。
だって、声の響きが違う。
話し方が違う。
発音もアクセントもまったく違うし、言葉選びもまるで違う。
何より――あの表情。あの雰囲気。
温かな日だまりの中の若葉のように、きらきら輝く緑の瞳は、薄暗い剣呑な色を宿している。キャスリーンお嬢様や私を、値踏みするかのようにじぃっと見つめて、それからにやりと歪められた口元だって、そう。
マリアベルお嬢様は、あんな風に厭な笑い方なんてしない!
「あたしはマリアベルよ。あなたは……あら、もしかして、キャスリーン? お姉様かしら?」
「……あなたが、マリアベルですって?」
「そうよ。ほら、どこからどう見てもマリアベルでしょう?」
「いいえ。わたくしには、まったく別人にしかみえないわ。妹を返して」
「あら。あらあら~?」
きっぱりと言い切ったキャスリーンお嬢様に、マリアベルお嬢様に取り憑いた悪魔は、さも驚いた、といわんばかりに目を丸くした。
「おかしいわね、まるでシスコンみたいだわ。そういえばどうしてあなた、あたしと一緒に寝ていたの? あたしのこと嫌っていたはずじゃなかった? ほら、父親の愛情独占されて悔しくていじめたりとか」
「何を言っているの。お父様が愚かだからって、妹をいじめるわけがないでしょう!」
「……へぇ?」
悪魔は何か考えているかのように、口元に手を当てて、外国語でぶつぶつと何かつぶやき始めた。時折、マリアベルという名前が出てくる。何かを不思議に思っている、そんな雰囲気だ。
「……ねぇ、お姉様? ちょっと聞きたいのだけど、そう言うってってことは、昼間、あなたはマリアベルと会っているのよね? そうね……この冬のこと、何か言っていなかったかしら? そう、たとえば、何も覚えていない……とか」
「どうして……っ」
「ああ、やっぱりそうなのね。そういうこと……。転生じゃなかったのね」
「転生?」
「うーん、まあいいわ。転生でも憑依でも変わらないわよね。だってこれからは、あたしがマリアベルなんだから」
転生? 憑依?
何を言っているのかわからない。わからないけど、この悪魔がマリアベルお嬢様の身体を乗っ取るつもりなのだということだけは、なんとなくわかる。
「何者だかしらないけど、マリアベルの身体から出て行きなさい! 妹を返して!」
「あはははは! 冗談じゃないわ! この世界に渡るのに、どれだけ苦労したと思ってるの! この身体はあたしのもの、あたしが本物のマリアベルよ!」
甲高い笑い声は、心の奥から嫌悪感を引きずり出すような、厭な響きを内包している。あどけなく無垢な幼子の身体から発せられたものとはとても思えない。
悪魔は笑う。
嗤う。
「邪魔をしないでね、愛しいお姉様。どうせあなたの言うことなんて、誰も信じやしないでしょうけど」
「……なに、」
「――ぅあああぁぁんっ! お父様! お父様ぁぁっ」
「っ!?」
キャスリーンお嬢様も、私も、何もできなかった。
突然幼児のように泣き出した悪魔を、引き留めることもできず、呆然と成り行きを見ているしか。まずい、と思った時にはもう遅い。
悪魔はマリアベルお嬢様の部屋を飛び出して、泣きながら旦那様の部屋へ駆け込んだのだ!
「お父様ぁ! お姉様が、お姉様がっ! 出て行けって……部屋を返せって……!」
廊下の向こうから、マリアベルお嬢様の声がそう叫ぶ。わざとらしく泣きじゃくる声。それに続く、男性の……旦那様の怒号。
もしも仮に、本当にキャスリーンお嬢様に出て行けと言われたとしたって、本物のマリアベルお嬢様なら絶対にこんな行動はしない。私には断言できるけれど、旦那様にはあの悪魔とマリアベルお嬢様を見分けることができなかった。
「キャスリーン! どういうつもりだ!? 妹に出て行けなどとっ!」
足音も荒く、部屋に乗り込んできた旦那様。
マリアベルお嬢様の部屋にいたキャスリーンお嬢様と、私の姿を見てますます怒りに顔を紅潮させて声を張り上げた。キャスリーンお嬢様をベッドから引き摺り下ろし、そんな娘だとは思わなかった、失望したと怒鳴り続ける。
私が止めてくださいと止めようとしても、まったく聞いてくれない。
「違います、お父様!! 聞いてください、マリアベルに悪魔が取り憑いているのですっ! だからっ」
「このっ! 馬鹿者がっ」
「きゃあっ」
「お嬢様!!」
バシンッ!
大きな音が響き、キャスリーンお嬢様は床に叩きつけられるように倒れ込んだ。
キャスリーンお嬢様だって、まだ九つの少女なのだ。それなのに、旦那様は力加減もなくお嬢様の頰を叩いたのだ。突然の暴力に、キャスリーンお嬢様は呆然としている。そんなお嬢様に、旦那様は……。
「言うに事欠いて、妹を悪魔憑きだなどと申すか! お前こそ卑しい悪魔のような心根ではないか。いいか、二度とマリアベルのものを取り上げようなどとするんじゃない! わかったら、さっさとこの部屋から出て行け!!」
――この方には、何も見えていないのだ。
自分の背後に隠れ、クスクスと嗤うあの悪魔の姿すら見えていない。あんなにもマリアベルお嬢様を溺愛しているくせに、あんなものがマリアベルお嬢様だと思っている。
「お父様……怖い……」
「あぁ、マリアベル。泣かないでおくれ。大丈夫だ、お前をいじめるようことは、誰であろうとこの私が許さないとも」
わざとらしく甘えてくる幼子の、話し方が……アクセントが違うことにすら気付かない。媚びたようにすり寄る仕草に、違和感すら抱かない。
旦那様の腕の中から、悪魔がこちらをみた。私を――違う、キャスリーンお嬢様を。
それは愉しそうな、いたぶりがいのある獲物を見るような、そんな眸で。
***
あの晩から、事態はどんどん悪化していった。
キャスリーンお嬢様がマリアベルお嬢様を部屋から追い出そうとした、妹を悪魔と罵ったという噂が屋敷中に広まって、キャスリーンお嬢様は孤立するようになった。
それでも昼間は、マリアベルお嬢様はキャスリーンお嬢様を慕って側に居ようとしたけれど、屋敷の者達によって引き離されるようになった。今では、時折私がおふたりの間にたって、短いメモ程度の手紙を橋渡しするくらいしかできない。
文字のろくに読めないマリアベルお嬢様でも読めるくらいの、易しい単語だけを使った手紙。
それだって、マリアベルお嬢様は読んだ後には、燃やさなくてはならないのだ。そのまま持っていたら、あの悪魔に見られてしまうかもしれないから。
あの晩のできごとを、マリアベルお嬢様は覚えていなかった。
いいえ、あの時だけじゃない。
あの悪魔は、夜になるたびマリアベルお嬢様の身体を乗っ取って、旦那様の寝室に通っては甘えて菓子やドレスをねだっているのだ。
この屋敷の中で、誰を味方につければいいのかをよく理解しているのだろう。
昼間は寄りついてこない娘が、誰もが寝静まる夜中になると別人のように甘えてくる。そのことに、旦那様はまるで疑問にも思わないらしい。
使用人の間ですら、日中と夜中のマリアベルお嬢様は、まるで雰囲気が違うと噂になっているくらいなのに。
だけれど、そのことを旦那様に指摘できる者はいない。旦那様の不興を買えば、どうなるか皆よく知っているからだ。
そう……キャスリーンお嬢様はあの悪魔の、度重なるでたらめな告げ口によって、すっかり屋敷での立場を失っていた。部屋も元は物置だった小さな部屋に移され、家族でともに食事を取ることも許されない。謹慎という名目で、ほとんど軟禁されているようなものだ。
部屋を出入りすることが許されたのは、最低限の世話をするためのメイド……私と、家庭教師たち。
まるでこれ以上妹に構う暇を与えてやるものかとでもいうかのように、キャスリーンお嬢様の授業時間は長くなった。それこそ朝から晩まで、行事作法だけじゃない、歴史、地理、経済、語学――通常なら、貴族令嬢が身につける必要があるとは思えないような内容まで詰め込まれている。
キャスリーンお嬢様とマリアベルお嬢様を引き離すため、だけではない。旦那様はキャスリーンお嬢様をできるだけ高位の貴族に嫁がせようと考えていらっしゃるのだ。それも、少しでもはやく。
その為の相手を探していることも知っている。旦那様がキャスリーンお嬢様の縁談を早く調えて、マリアベルお嬢様にはちょうどよい婿をあてがって男爵家を継がせ、ずっと自分の手元に置こうとしているのだ、と。
このことは、屋敷を出入りする客や、応接間での会話から、使用人の間で噂になっている。
「……どうしよう、コニー。マリアベルが……。あの悪魔に身体を乗っ取られている時間が、だんだん長くなってるわ」
「……はい、最近では、陽がくれるともう入れ替わっているようです」
スープと硬いパンだけという質素な夕食を運んだ私に、キャスリーンお嬢様は沈鬱な顔で嘆いた。この家の長女だというのに、旦那様の命令で、食事ですら使用人と同じ扱いだ。育ち盛りのキャスリーンお嬢様には辛いことだろう。でも今は、粗末になった食事より、詰め込まれる過酷な教育より、キャスリーンお嬢様の胸を痛めつけるのは、マリアベルお嬢様に取り憑いた悪魔だ。
季節が春から夏へとうつりかわるにつれ、悪魔が現れる時間が少しずつ長くなっている。 以前は深夜、一度マリアベルお嬢様が寝入ったあとでないと出てこれなかったのに、ここ最近は陽がくれる頃にはあの悪魔に入れ替わっているのだ。
同じ身体だというのに、これほど違うものかと驚くほど、別人になる。気付いているのは、私たちだけじゃない。誰もが違和感を感じているのに、誰も指摘できない。
キャスリーンお嬢様のように表だって指摘してしまえば、使用人ならあっさりこの屋敷を追い出されるだろう。
「……お父様が、皇都に行く準備をするようにおっしゃったわ。わたくしの嫁ぎ先の候補と、顔合わせをさせるつもりでしょう」
ぎゅ、と膝の上で両手を握りしめて、キャスリーンお嬢様は言った。
「これはチャンスだわ。皇都のデメティエル神殿に助けを求めるのよ。あの子が居た孤児院の神官様なら、きっと話を聞いてくださるはずだわ」
「お嬢様……」
「昼間なら、まだマリアベルは、あの子はあの子のままで居られる。その間にふたりでなんとか、神殿に駆け込めば……。ふたりで訴えれば、きっと……」
「……ええ、お嬢様。きっとうまくいきます」
皇都のデメティエル様の大神殿なら、きっと高位の神官様がいらっしゃるはずだ。きっと話を聞いてくださるはず。
それを希望として、キャスリーンお嬢様は日々を耐えた。父親の冷たい視線や言葉にも、心を壊した母親に、庇ってもらえることがなくとも。使用人達に、腫れ物を触るように扱われ、距離を置かれてしまっても。
マリアベルお嬢様をあの悪魔から解放するのだと、ただそれだけを願って。
そんな必死な願いを嘲笑うかのように――。
あの悪魔は、少しずつ確実に、マリアベルお嬢様を蝕んでいった。