3 真夜中の異変
最初に異変に気付いたのは、私だった。
まだ暦の上では初夏だけれど、南に位置するランドン領では、すでに夏と言って差し支えない気候になっている。
おかげでだんだんと寝苦しくなりはじめて、その日も深夜にふと目が覚めてしまったのだ。
水の一杯でも貰おうと、使用人用の相部屋からそっと抜け出した。足音を殺して、厨房へと向かう。誰かに見られたところで、別に咎められるようなことはないのだけれど、深夜というのはそれだけで足取りを慎重にさせてくるものだ。日々肉体労働にいそしむ使用人たちにとって、ゆっくりと休める時間というのは大切だ。物音を立てて誰かを起こしては、迷惑をかけてしまう。
屋敷の使用人達の中でも、私は一番年が若いから、多少の失敗は大目に見えてもらえるのだけれど、だからこそ余計に気を遣ってしまうのだ。もとからそういう性分なのだろう。
すっかり小さくなったろうそくの灯りをたよりに、厨房へとたどりつく。水瓶からコップに水を汲んで、いっきに飲み干した。いつもはキッチンメイドたちが忙しく働く厨房も、こんな時間だから当然誰もいない。
用事が済んでしまえば、暗くて誰もいない場所だなんて長く居たいところでもなかった。使ったコップを軽く洗ってしまい、もうすぐ燃え尽きそうなろうそくを持って部屋へ戻ろうと歩き出す。
ちょうどその時だ。
階上で、カタン、と物音が聞こえたのは。
誰かが起きているのだろうか。少し気になって、まっすぐ部屋に戻るのは止めた。二階に上がってすぐ、小さなあかりが視界に入ってきた。廊下にほんのかすかに、細い光の筋が伸びていたのだ。どこかの部屋の灯りが漏れているのだろう。近づいてみて、それが図書室だと気がついた。
こんな時間に、誰だろう。本は貴重品だし、この屋敷の使用人のほとんどは、文字なんて自分の名前と、数字、あとは簡単な文章くらいしか読めない。文字の読める使用人が、本を読んでみたくて忍び込んでいるのだろうか。いや、さすがにそれはないか。哲学書や神学、歴史書に興味を持つような使用人なんて思いつかない。
では、旦那さまか、奥様か……どなたかがいらっしゃるのだろうか。
どうにも気になって、私はそっと隙間から図書室の中をのぞき込んだ。
あれは……。マリアベルお嬢様?
図書室の奥、床にたくさんの本を積み上げて、座り込んでいるのはマリアベルお嬢様だった。傍らには三股の燭台がおかれて、三本のろうそくが惜しげもなく灯されている。扉に背を向けるかたちで座り込んでいるため、まだ私には気付いていない。
声をかけようとしたところで、ふと、私は疑問に思った。
マリアベルお嬢様は、まだ文字が読めないはずだ。
つい最近、マリアベルお嬢様にも家庭教師がつくようになって、スペルを勉強しはじめたばかりなのだ。教本以外の、大人が読むような難しい文章なんて理解できるはずがない。
「ああ、もう、どうなってるのよっ」
ぶつぶつと何かつぶやいているその言葉は、私が知っているものじゃなかった。音の響きがまったく違う。外国の言葉のようだ。
「ダメだわ、全部―――で、……――……時間か……! 古……とか――! ……、――」
突然、マリアベルお嬢様が持っていた本を放り投げて、だんだんと床を蹴りつけた。大きな音に、思わず身を竦ませる。
この時、私にはどうしても、お嬢様に声をかけることができなかった。背中を向けているお嬢様の雰囲気が、いつもとまったく違ったからだ。声の響きだって違う。なんだか、そう……苛立った、とがった声だったのだ。
「図書室なら――……がかりが……ど……。ここ――のレガリアの――……じゃないの? いいえ、間違いないはずよ……、――確かに鏡で見た――は……マリアベルって……だったし……」
ぶつぶつと続くつぶやきは、間違いなく外国語だ。
孤児院で、まだ文字も習っていなかったマリアベルお嬢様が、外国語を喋っている? おかしいわ。お嬢様はずっとデメティエル様の大神殿付属孤児院から出たことはなかったはずなのに。
……やっぱり、声をかけるのは止めよう。そう思って、お嬢様がこちらを見る前に、と。そっとその場を離れ、部屋に戻って薄いかけ布を頭から被って丸くなった。
どうしてか――無性に、嫌な予感がして、仕方なかったのだ。
ただただ、怖かった。
知らない言葉をぶつぶつと喋って、普段なら絶対しないような行儀の悪い動作をするマリアベルお嬢様が……。私のまったく知らない誰かのように感じられて仕方なかったのだ。
きっとあれは、何かの見間違いに違いない。
必死に自分にそう言い聞かせ、かたく目をつぶる。
すっかり遠のいた眠気は、なかなか戻ってきてはくれなかった。
***
「コニー、どうしたの、あなた。顔色が悪いわ」
キャスリーンお嬢様に声をかけられて、私ははっと我に返った。お嬢様のお支度の途中だったのに、いつのまにか、手が止まってしまっていた。
「申し訳ありません、もうすぐ終わりますから」
「別に急いではいないわよ。ねぇ、本当に体調が悪いのではなくて?」
「はい、大丈夫です、なんともありません。ちょっと寝不足で……」
「まぁ、あなたもなのね……」
あなたも、とはどういうことだろう。
疑問が顔に出ていたのか、キャスリーン様は心配そうなまなざしを、鏡越しの私に向けた。今お嬢様が心配しているのは、多分私だけではないのだろう。
「マリアベルも、最近ちゃんと眠れていないみたいなの。授業中もすぐうとうとしてしまって、先生に叱られていたわ」
「……マリアベルお嬢様が、ですか」
「そうなのよ。顔色も悪いし、……まるでウチに来たばっかりの頃みたい」
そう言って、キャスリーンお嬢様はそっと溜息をついた。
どきどきと、心臓がうるさく騒ぐ。
マリアベルお嬢様が寝不足なのは、深夜に図書室に入り浸っているからではないだろうか。だけどそれを口にするのが怖くて、私は何も言えなかった。
だけどいつまでも、キャスリーンお嬢様が妹の異変を放置するわけもなく、マリアベルお嬢様にどうしたのか、何か心配なことでもあるのか、と問い質したのはこの日の午後のこと。 私が思っていたよりもずっと、キャスリーンお嬢様はマリアベルお嬢様を大切に思うようになっていらしたようだ。
最近の姉妹のお気に入りである、ほどよく木陰が設けられたガゼボにティーセットを用意して、マリアベルお嬢様のお好きな焼き菓子を並べて。それでも暗い顔をしていたマリアベルお嬢様は、キャスリーンお嬢様に問われて、瞳に涙の膜をうかべた。
「……マリアベル、わたくしに話せないことかしら?」
「いいえっ! ……いいえ、お姉さま。わ、わたし……あの、また……おぼえて、ないことがあって」
「え?」
「は、はじめはなんでお昼に眠くなるのかわからなかったんですけど、でも、あの……。今朝、わたし……起きたら、お部屋じゃなかったんです」
また、私の心臓がどんどんと早鐘を打つ。じわっと脇の下や背中に、汗が滲んだ。
「まわりに本がたくさんおいてあって、わたし、ひざの上にひろげてて……。でも、そんなことしたおぼえがないんです」
「……寝ぼけていたわけじゃ、ないわよね。どこにいたの?」
「と、図書室です……」
「あそこにある本は、まだあなたには読めないものばかりのはずよ。いったいどうして……」
わかりません、と、マリアベルお嬢様は今にも泣きそうだ。
給仕をするために控えていた私は、どうしよう、どうしよう、と迷ってから……結局、そろりと片手を上げた。
「あの……キャスリーンお嬢様……。実は……」
後になって、私はこのときお嬢様たちに自分が見た光景を話したことを、後悔することになる。
もし……もしも、あの時口にしなければ。
そうしたら、私たちは、まだもうしばらくは、環境が変わった寂しさから寝ぼけて思いがけない行動をしてしまったのだ、とか。そんな風に誤魔化して、平穏な日々を営むことができていたのかもしれない。
けれど私は、話してしまった。
自分の胸に、昨夜感じた不安を閉まっておくことができなかったのだ。
「……マリアベル、あなた、外国語をしゃべれる?」
「い、いいえ……」
「そうよね。ええ、そうよね……」
自国語の読み書きもおぼつかないのに、外国語を習得しているはずもない。
夜中に知らないうちに、知らない行動をしていた自分。それを他者が目撃している。その事実に、マリアベルお嬢様はすっかりと怯えてしまった。
「わ、わたし、悪魔にとりつかれしまったんでしょうか……。も、もしかして、冬のあいだのこと、おぼえてないのも……?」
「泣かないで、マリアベル。大丈夫よ。今夜はわたくしと一緒に寝ましょう。あなたの中に悪いものがいるなら、きっとどうにかして追い出してやるわ」
キャスリーンお嬢様は、泣き出したマリアベルお嬢様を強く抱きしめて、そうおっしゃった。強い決意の滲んだ言葉に、私はまたすこし、不安に思う。
昨夜の、あのとげとげしい雰囲気のマリアベルお嬢様と、キャスリーンお嬢様を会わせていいのだろうか。心配で、心配で。
だから私はその晩、マリアベルお嬢様のお部屋に泊まりこむ準備をなさったキャスリーンお嬢様にひっついて、長いすで眠らせて貰うことにしたのだった。