2 ランドン家の姉妹
マリアベルお嬢様が屋敷にやってきて、数日。
私や周囲の心配に反して、キャスリーンお嬢様とマリアベルお嬢様はいつのまにか仲良くなっていた。
というのも、マリアベルお嬢様が随分と怯えていたのが原因だっただろうと思う。その様子は、私から見ても異常だった。
あれは、マリアベルお嬢様と初めて会った、翌日のことだった。
気まずい朝食が終わったあと、キャスリーンお嬢様はいつも通り淑女教育のため家庭教師の授業を受けていた。その休憩時間に、気晴らしにお庭を散歩するお嬢様の後を、私はこっそりついていった。きっと一人になりたいのだろうということは解っていたけど、どうしても心配だったのだ。
血を分けた姉妹でありながら、旦那様が昨夜からずっと、マリアベルお嬢様ばかり贔屓なさっていたから。
今まで孤児院で不自由な思いをしてきた可哀想な娘なのだから、とことあるごとにおっしゃってらしたけど、だからってあまりに態度が違い過ぎる。今までこの屋敷の中で、むっつりと気難しい顔で過ごしていた人が、マリアベルお嬢様の前ではにこにことだらしない笑顔を振りまいているのだから。
父親にあからさまに愛情の差を見せつけられて、落ち込まない子どもなんて居ないだろう。
キャスリーンお嬢様はまるで人目を避けるように、庭の奥へ奥へと歩いて行く。向かう先に、覚えがあった。お嬢様が厳しい授業に辛くなって、泣きたくなると向かう場所だ。思った通り、庭の奥、目立たない場所にある蔓薔薇のアーチの前で、お嬢様は足を止めた。
アーチの向こうには、光と豊穣の女神、デメティエル様の像があるのだ。
蔓薔薇の絡まるアーチと、生け垣にぐるっと囲まれた、円形の広場。アーチから真正面の奥に、デメティエル様の像がある、祈りの場。いつもならほとんど誰も近寄らないひっそりとした静かな場所なのだけど、このときは先客がいた。
マリアベルお嬢様だ。
「……何をしてるの」
キャスリーンお嬢様が、マリアベルお嬢様を見つけてぎくりとしたのが見て取れた。本当は、会いたくなんてなかっただろう。でもキャスリーンお嬢様は無視して、見なかったことにできなかった。だって、マリアベルお嬢様が泣きながらデメティエル様の像へ祈りを捧げていたのだから。
「あっ、あの……その……」
「どうして泣いているの」
まさかこの屋敷で、あれほど旦那様の寵愛を受けているマリアベルお嬢様をいじめる者がいるとも思えない。いるとしたら……。奥様や、奥様付きの侍女くらい、だろうか。そうだとしても、旦那様に知られたらきっと大変なことになる。奥様の立場がもっと悪くなるかもしれない。
あの旦那様のことだ。マリアベルお嬢様の魔力が奥様やキャスリーンお嬢様よりも強いことを理由に、お二人を追い出そうとされるかも。
キャスリーンお嬢様も、そんな想像をされたのかもしれない。デメティエル様の像の前で、芝生に跪いて泣いていたマリアベルお嬢様の横に駆け寄ると、同じように跪いてハンカチを差し出した。それに慌てたのは、マリアベルお嬢様だ。
「お、おじょうさま、こんなこうかなものっ」
「……お姉様、よ。あなただって同じようなものをこれからたくさん持たされるのだから、こんなことで遠慮なんてしないで」
「で、でも……はぷっ」
キャスリーンお嬢様がお持ちのハンカチは、手触りの良い絹製で、縁にもレースがふんだんに施されている。マリアベルお嬢様はそのハンカチに触れることもおこがましいとばかりに遠慮されたので、キャスリーンお嬢様はいらっとしたようにハンカチでごしごしとマリアベルお嬢様の顔を拭った。
「……あっ、ありがとう、ございます」
「どうということもないわ。それで、どうして泣いていたの」
「それは、その……。……わからな、くて」
「……?」
「わ、わたし、どうして……、わからないんです、どうしてわたし、こんなすごいお城にいるのか……」
「どうしてって、それはあなたがお父様の娘だからでしょう」
「わっ、わたし、お父さんなんていませんっ! お母さんも、私をうんだあとすぐ死んだから、お父さんのことなんてきいたことないっ!」
思わずといったように大声を出して、またマリアベルお嬢様の目から涙があふれた。押しつけられたハンカチを両手で握りしめて、ぶるぶると肩をふるわせている姿は、どう考えても演技なんかじゃない。あの小さなお嬢様は、本当に心から怯えて、混乱しているのだ。
「わっ、わたし、デメティエルさまのしんでんの、子で、まだ冬で、さむくて、なのに起きたらあったかくなってて、馬車のなかで……っ! し、しらないおじさんが、お父さんだよって、しっ、しらないひとなのにぃ……っ」
「……マリアベル、落ち着いてちょうだい。その人は本当にあなたのお父様なのよ」
「そんなわけないです、だって、お金持ちそうだったものっ」
平民の、さらに孤児である自分の父親が、まさか金持ちの貴族であるはずがない。マリアベルお嬢様はそう思って、怖くなったのだろう。それにしても、旦那様はマリアベルお嬢様にちゃんと説明をしなかったのかしら。マリアベルお嬢様の言うことを聞いていると、まるで誘拐されて知らない場所に連れてこられたみたいに聞こえてしまう。
「お父様から聞いていないの? あなたのお母様は……この屋敷で働いていたの。それで、お父様と恋人になったのですって。お祖父様が反対して、屋敷から追い出してしまったから、ひとりであなたを産んだのね……。きっととても苦労されたのでしょう……」
「お母さんのことは、わたしも……よく、しらない、です。でも、せ、先生も神官さまも、みんなやさしくて……、み、みんなかぞくで、だから、わたし、くろうなんて……」
「そう……。ちゃんと運営されている孤児院だったのね。それは良かったわ」
「はいっ! そう、そうなんですっ。わた、しも、十になったら、見習いになれるはずで、いっぱいおべんきょうして、りっぱな神官になるって……おもって……」
だんだんと尻すぼみになっていく言葉は、マリアベルお嬢様の心境をとてもよくあらわしていた。自分の将来が、思っていたものと全然違うものになるのかもしれない。そんな不安が伝わってくる。
「あの、おじょうさま、わたし……いつ、おうちに帰れますか?」
「……お姉様とお呼びなさい。言ったでしょう。あなたはこの家の娘で、私の妹なの」
「……そんな、でも、……お、おねぇ、さま」
とんでもない、と言い張ろうとしたマリアベルお嬢様だったけど、キャスリーンお嬢様に睨まれて、おずおずと呼び名を改めた。それにこっそり、ほっとする。マリアアベルお嬢様に「お嬢様」なんて呼ばせているのが旦那様に聞かれたら、キャスリーンお嬢様はきっと酷く叱られるだろうから。
「残念だけど、マリアベル。あなたは孤児院には戻れないわ」
「そんな……」
「泣かないでちょうだい。孤児院は、面倒をみる家族がいない子のための場所でしょう? あなたの父親が見つかったのだから、父親があなたの面倒をみるのが道理だわ。それに……あなたが神官になりたいというなら、成人してからでも遅くはないでしょう?」
貴族の令嬢でも、神官に仕えることはできる。……もっとも、大半は何か問題を起こして、神殿で生涯神に仕えることを義務づけられる、終身刑のようなものであるのだけど。
もちろん、そうではなくて、純粋に信仰心から神に仕えることを選ぶ令嬢もいることはいるが、めったにないことだ。
まず間違いなく、旦那様は許可されないだろう。
「わたし……ほんとうに、この家の子なんですか?」
「……ええ、そうよ」
「あのひとは、ほんとうにわたしのお父さんですか?」
「そうよ。どうしてそんなに怯えているの?」
「……わたし、おぼえてないんです。年があけたばかりだったはずなのに、もう春になってる。あのひとにも、あったことないのに、ひとつきぶりだって、やっとむかえにこれたって」
え、と。
私は思わず身を乗り出してしまった。
「馬車のなかで、今日はずいぶんおとなしいな、って言われたんです。はじめて会ったひとなのに」
――マリアベルお嬢様が言うには、年明けから二ヶ月ほどの間の記憶が、すっぽりと抜け落ちているのだという。
そのため、マリアベルお嬢様にとって、寝て起きたら突然見知らぬひとに見知らぬ場所に
連れ込まれたような状態だったのだ。一夜たっても、何が起きたか理解できず、周囲の腫れ物に触れるような扱いにも困惑し、人の居ない場所を探して庭をさまよっていたとき、見慣れたデメティエル様の像を見つけて逃げ込んだ、ということだったようだ。
この日のことがきっかけで、マリアベルお嬢様はキャスリーンお嬢様にすっかりと懐いてしまった。知らない場所で、自分の話を最後まで否定せずに聞いてくれた、年の近い少女だったから、というのもあったろう。他の使用人たちのように腫れ物に触れるような態度をとることもなく、あくまで姉として振る舞うキャスリーンお嬢様の態度が功を奏したのかもしれない。
マリアベルお嬢様が姉に懐いていることは、旦那様にとっても意外であったようだが、姉妹仲が良いのはいいことだと思い直したらしい。キャスリーンお嬢様に、姉として妹を助けてやるように、と尊大におっしゃって、二人が共に行動することを許した。
そんな父親の様子に、キャスリーンお嬢様はすっかり諦めたように、そっと目を伏せて「わかりました」と頷いのだけれど……。そんなおふたりの様子に、驚いていたのはマリアベルお嬢様だった。
「あのおじさんは、本当にわたしたちのお父さんなんですか?」
強張った表情で、そうキャスリーンお嬢様に尋ねられたのは、午前の授業が終わって、庭で散歩していたときのことだ。
庭とはいえ、幼いお嬢様たちだけ歩かせるわけにもいかないので、私も数歩下がって散歩についていっていた。
マリアベルお嬢様の言葉に、目を丸くしたキャスリーンお嬢様だったけど、気持ちはよくわかる。あんなに溺愛しているのに、旦那様はまだマリアベルお嬢様にとって「知らないおじさん」のままなのだ。
意地が悪いようだけど、ざまあみろ、と思ってしまうのも仕方ないじゃない。
「そうよ、お父様よ。どうして?」
「だって、あのひと、お姉さまにいじわるです……」
「……お父様は、わたくしのお母様と、無理矢理結婚させられたことを不満に思っていらっしゃるのよ」
「おかしいです。けっこんはしんせいな神さまへのちかいだって、神官さまがおっしゃってました。いやならしなきゃよかったじゃないですか。いやだって言わなかったのに、お姉さまや奥さまにいじわるするのは、へんです」
「…………っ、そう、ね」
マリアベルお嬢様の言葉に、キャスリーンお嬢様は息を詰めた。
嫌ならそう言うべきだった。
とても単純で、まっすぐな理屈でばっさりと父親を切り捨てるマリアベルお嬢様。
だけど、そうだ。本当に、そのとおりだ。
いくら大旦那様に強要されたからって、それに抗えず屈したのは旦那様だ。別に、奥様が結婚を強要するよう仕向けたわけじゃない。奥様だって、政略結婚であると理解して嫁いできて、きちんとご自分のつとめを果たしてきていたのだ。それを裏切ったのは旦那様自身だ。被害者ぶって、今更奥様やキャスリーンお嬢様を責めるのはお門違いにも程がある。
「そうね、本当に……そうだわ。お父様がおかしいのよね」
「お姉さま!? どうしたんですか、どこかいたいんですか?」
「……いいえ。いいえ、平気よ。ありがとう、マリアベル」
ぽろぽろと涙をこぼすキャスリーンお嬢様に、マリアベルお嬢様は驚き慌てた。困ったように周囲をきょろきょろ見回して、私を見つけて目線で助けを求めてくる。
どうしよう。お姉さまが泣いている。
そんな気持ちがこちらにも伝わってくる慌てようだ。
だけど、私は動かなかった。だって、キャスリーンお嬢様は悲しくて、辛くて泣いているわけじゃないからだ。
「マリアベル。あなたがわたくしの妹で、良かった」
「わっ、わたしも、お姉さまがお姉さまでうれしいですっ」
突然ぎゅうっと抱きしめられて、マリアベルお嬢様はぱっと頰を桃色に染めた。三つの年の差は大きく、マリアベルお嬢様の背丈はキャスリーンお嬢様の肩にやっと届くかどうか。抱きすくめられるとすっぽり顔が埋まってしまうけれど、キャスリーンお嬢様を抱き返す小さな腕も、わずかに覗く頰も、全部嬉しそうで。
本当に、嬉しそうで。
多分、この時だ。腹違いの姉妹が互いの存在を受け入れて、心から姉妹になったのは。
春の日差しの下、庭中の花が競って咲き誇るなかで。
互いを抱きしめ合う幼い姉妹の姿は、なんだか神聖なもののように見えて。
これならきっと、大丈夫だと、そう思っていたのに。
――姉妹の笑顔が再び曇るようになったのは、それから三ヶ月ほどたった後のことだった。