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1 早春に来る者




 屋敷中がそわそわして、落ち着きがない。朝からずっと……違うか。一月前からずっとそんな調子だわね。

 それも仕方がないと、私はそっと溜息を喉の奥で呑み込んだ。


 ちらりと斜め前に視線をやれば、キャスリーンお嬢様が真っ白な顔で表玄関の扉を見つめている。その幼い丸い頰は、いつもならほんのりと桃色に染まってそれは愛らしいものなのに、今はただただ、震えるように青白い。そのくらい、緊張しているんだろう。

 無理もない。

 今日これから、キャスリーンお嬢様は父親の不貞の象徴を笑顔で迎えいれなければならないのだから。


 私……コニーがこのお屋敷……ランドン男爵家で奉公するようになったのは、三年前のこと。ちょうど十になった頃だった。それまでは男爵領内でも指折りの商家で奉公していたのだけど、そこの大奥様が、若いメイドを探していた男爵夫人に私を紹介してくださった。なんでも、お嬢様と歳の近いメイドをつけてやりたかったんですって。


 ミネルバ・ランドン男爵夫人は、躾に厳しい貴婦人で、屋敷中の使用人達から恐れられている方だ。もちろん、ご自身の一人娘であるキャスリーンお嬢様に対しても厳しく接していらっしゃる。

 だけど厳しいからといって、お嬢様を愛していないわけじゃない。むしろとても大切に思っていらっしゃるからこそ、下級貴族でありながら、格上の貴族家にも負けない教養を身につけさせようとお考えなのだ。


 そんなわけで、キャスリーン様は物心ついた頃にはもう淑女としての教育を受けるようになっていらして、でも四六時中勉強ばかりでは心が折れてしまうだろうから、と。年の近い少女を側につければ、弱音を口にしたり、休憩時間やお休みの日に一緒に遊んで息抜きをしたりもできるだろう。そんな配慮から、私がお嬢様のお話相手を兼ねたメイドとして雇われたのだけど……。

 その私の雇い主である奥様は、ここのところすっかり心を乱して部屋に籠もってしまっていらっしゃる。


 そうなった原因は、一ヶ月前に発覚した、旦那様の不貞だ。


 ミネルバ奥様のご実家は、ふたつも格上の伯爵家で、本当なら奥様と旦那様の縁談は不釣り合いなものだった。だけどランドン男爵家は先代様が港町を整備し、商船が入りやすくしたことで、下級貴族とはいえ随分お金持ちになっていた。それで、少しでも高貴な血を家に入れて、一族の魔力を高めようと考えられたそうだ。

 奥様のご実家は裕福な伯爵家で、魔力だって旦那様よりずっと強い。そんなご令嬢に嫁いでいただくために、大旦那様は相当苦心したらしい。嫁いできた奥様を、下にも置かない扱いをされていたというのは、昨年大旦那様が身罷られたとき聞いた噂話だ。

 もちろん、旦那様だって奥様をそれは大切にされていた。


 ――そう、皆思っていたのだけれど。


 実は、旦那様には縁談がまとまる前から恋人がいたのだという。だけれど、その恋人は平民出身のメイドで、大旦那様が交際を認めるわけもなかった。奥様をお迎えする前に、その女性はお屋敷を追い出されていたのだけれど……。旦那様と奥様がご結婚された一年後、旦那様は視察で訪れた町で、元恋人と再会してしまったのだ。


 そこからの展開は、火を見るよりも明らかだろう。


 家の都合で引き裂かれた恋は瞬く間に再燃し、旦那様とメイドは奥様や大旦那様の目を盗んで逢瀬を重ねた。結果、メイドは子を身籠もったのだが、その直後、大旦那様にそのことがバレてしまったそうだ。

 怒り狂い、身籠もった子を殺そうとする大旦那様から逃れるため、メイドは町から姿を消してしまった。

 そうとは知らず、旦那様はつい最近まで、奥様のことを気にしていた恋人が、とうとう自分の元から去ったのだと思って悲嘆にくれていたという。


 私からしたら、旦那様もその女も大概ろくでもない。どうしても一緒になりたければ、旦那様が家を出るとか、方法はあっただろうに。悲劇の主人公を気取って、ふたりして奥様を裏切っていたんだから。もっとも、旦那様は今でも自分が悪いことをしたとは思っていないらしい。でなければ、そのメイドが産んだ子どもが見つかった、なんてそれはそれは嬉しそうな笑顔で言えるわけがないのだから。


 なんでも、その子どもは皇都の神殿付属孤児院にいたそうで、神官達が調べたところ、とんでもなく魔力の高い子どもなのだという。

 奥様からしたら、こんなに忌々しいことはないだろう。


 夫が新婚の自分を放って愛人を作っていたことも、その愛人が子をなしていたことも腹立たしいことであるのに。いくら貴族にとって愛人のひとりふたり、囲うのも珍しいことではないとしても、された方が許容できるかといえば別の話だ。しかも平民の愛人が産んだ子が、自分が産んだ子よりも魔力が高いという。この事実が、何よりも奥様の心を蝕んだ。


 最低な旦那様が、自分の不貞を棚に上げ、はじめから彼女を家に迎えていればよかった、そうすれば自分はずっと愛するひとと一緒に居られたのだ、などと嘲ったのだから当然だろう。


 そんなことがあった晩から、奥様はお部屋に籠もっていらっしゃる。旦那様は、そんなことは知らぬとばかりに、恋人の忘れ形見の愛しい娘を迎え入れようと有頂天で準備していた。屋敷の中で一番良い子ども部屋であったキャスリーンお嬢様のお部屋を移動させて、そこを新たにやってくる娘の部屋とするために内装を急ぎ整えさせた。屋敷中を掃除し、飾り付け、前夜からごちそうを作らせた。


 ここまでされれば、まだ九つのキャスリーンお嬢様でもわかってしまうだろう。父は自分より、腹違いの妹を愛しているのだ、と。

 母や自分は、貴族としての義務で情をかけていただけで、愛してなどいなかったのだ、と。

 小さな白い手が、ドレスの裾をぎゅうっと握りしめている。

 玄関が騒がしい。

 きっと馬車が到着したのだろう。旦那様と、もうひとりのお嬢様を乗せた馬車が。


 皇国最南端のこのランドン領では、もうすっかりあたたかくなり、春の陽気が訪れているけれど……。キャスリーンお嬢様や、お嬢様が生まれる前から仕えてきた執事や家政婦、侍女たちの表情はどんよりと暗い。

 みな、奥様とお嬢様に同情してるのだ。


 だけどそんな居心地の悪い空気で充満したホールに、突然明るい日差しが差し込む。開け放たれた扉から、外の光が入ってきたのだ。前庭で既に満開になっている薔薇の薫りが吹き込んでくる。


 ――まるでそこだけが、輝いているかのようだった。


 嬉しそうに相好を崩している旦那様。

 その旦那様に手を引かれ、ホールに入ってくるのは、それは美しい少女だった。


 薄桃色の、サラサラとした髪。春の若葉のような、瑞々しい新緑色の瞳。雪のように真っ白な肌に、ほんのりと薔薇色の頰。

 神様が丹念に作ったお人形のように、可愛らしく、愛らしい。

 天使のような、という形容が、これほど似合う少女もそうはいないに違いなかった。


 ざわ、とホールに集まっていた使用人達が動揺した。誰もがあんぐりを口を開け、おずおずと困惑したように周囲を見回す少女を見つめている。


 ――ああ。

 私は、目眩がした。目の前が暗くなっていくような、そんな気分。


 キャスリーンお嬢様のお顔が見れない。

 お嬢様は今、どれほど辛く苦しい想いをしていらっしゃるだろう。


 きっと、きっと……旦那様のなさりように憤っていた使用人達も、あの美しい少女にすぐ絆される。子どもに罪はないのだから、と。

 それはその通りだ。私だって、あの子が悪いなんて思ってない。

 だけど。

 だけど、そうだとしても。


 あの子を庇おうと、お嬢様を傷つけるものがあらわれるんじゃないか。

 お嬢様に、あの子と仲良くするよう、強要するものが出てくるんじゃないか。

 そんな心配が、どうしたってぬぐえなかった。



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