14 泣いてもいいよ。
直系二メートルはありそうな炎の龍は、僕らを焼き尽くすその前に、青白い光に阻まれて悲鳴のような音と共に掻き消えた。
「……、はっ、……?」
僕も、グレイ伯爵も、そうして――魔法を放った、ハンス自身も。驚愕に言葉もなくぽかんと口を開けている。
それもそのはず。ついさっきまで床に膝をつき、荒い呼吸を繰り返していた幼女が――ドレスの裾を翻して立ち上がり、防御結界で攻撃を完全に防ぎきったのだから。
「なっ、……なぜっ!」
ざぁ、と表情を変え、ハンスは怒鳴る。ほとんど魔力切れ寸前まで、魔力を使い果たして大結界を張った直後だ。グレイ伯爵ですら、もう防御結界を張るような余力はなかったはずだった。
だけれど、大神警視はもうすっかり涼しい顔で、自分と、僕ら全員をかばえるほどの結界を張っている。
――その手には、ネオンブルーの輝きを放つ、鮮やかな宝石が握られていた。
「あっ、それ……!」
魔導鉱石!
そうだ、それがあったじゃないか!
大神警視が手に持っているのは、エドガーくんが別れ際に贈ってくれたものだ。あの石は、エドガー君が注入した魔力が満たされている。つまり、あれがあれば……あの石に注がれた魔力がつきるまでは、魔法を使うことができるのだ。
それに……警視は多分、今、大気に満ちる魔力と、魔道鉱石の魔力とを繋いで使っている。マナを取り込み、自身の魔力へ変換するのに、魔道鉱石の魔力を利用しているようだった。
だが、そんなこととは知らないハンスは、ディアナが力を使い切らず温存していたと思ったか、ものすごい形相になった。それはもう、イケメンも台無しな、怒りと憎しみに満ちた表情だ。
「――風よ! 刃となりて我が敵を切り刻め! 風刃!!」
無数の鎌鼬も、全て大神警視の結界に阻まれる。それを目にする度、どんどんハンスの眼差しは険しくなっていった。
「……子どものくせにっ!」
「もうやめておきなさい。貴方に勝ち目などないでしょう」
「黙れ! しぶといガキがっ! 何が神童だ! 鬼才だ!! 生まれながらの才能だと!? ふざけるな……!」
冷静な言葉は、よほどカンにさわったのだろうか。血走った目でめちゃくちゃに攻撃魔法を繰り出しながら、ハンスはわめく。狙いをそれた風の刃が、いくつも壁にぶつかり、破壊音と共に見事な穴をあけていく。さすがにディアナの父親だけあって、ハンスの魔法はなかなかの威力のようだ。
ひゅう、と冷たい夜風が吹き込んでくるが、頭に血の昇った男を冷静にさせることはかなわない。むしろ、攻撃が当たらないこと、当たっても結界に防がれてしまうことで余計にヒートアップしていっている。
「何が流石グローリア辺境伯家の姫だ!! 血統のおかげだとでも言うつもりか!? そんなわけがない、たまたまだ!! 偶然だ! グローリアの血が特別なんじゃないッ!! 貴様のような者が居るから……っ!!」
「……何が気に食わないのか知らないが」
はぁ、と。大きな溜息が吐き出された。
ほとんど狙いも定まらない状態で繰り出された火球も風刃も、発生元が解っていればそう脅威でもない。何故なら飛んでくる方角は定まっており、不規則な動きをするわけでもなく――つまり、避けるのはそう、難しくもない。
だから僕も、グレイ伯爵も、もはや結界に頼ることもなく、ハンスの魔法を避けることができるようになっていた。そのくらいには、荒れていた呼吸も整っていたのだ。
対して、ハンスの息はどんどん上がっていく。
「叫くな。みっともない」
白い小さな幼子の手が、つい、とふりあげられた。
とりたてて、呪文の詠唱などがあったわけではない。だが一瞬にして、ハンスの足下が崩れた。積み上げられていた石が崩れ、穴が開く。重力に従い、胸のあたりまで一気に落ちたハンスは、しかしそのまま階下までは落下しなかった。
崩れたはずの足下が、今度はハンスの身体を締め付けたからだ。
一瞬にして生き埋めになったハンス・グローリアは、まるで何が起きたのか解っていないようすで、顔に驚愕を貼り付けて固まっている。
胸から上だけが地上に出ているが、腕は組まれた石の中に埋まっているのだ。この状態では、攻撃魔法を使って抜け出そうとしようとも、自分の身体ごと吹き飛ばす羽目になる。
「……っ! な、な……っ!」
「貴方が、どうしようもない愚か者で良かった」
「ディアナァ……ッ、貴様……ッ!」
憎悪と怒りに染まった真っ赤な顔で、自分の娘を睨めつけるハンスの首元に、鋭い刃が添えられる。抜き身の剣を突きつけたのは、――ロイだった。
ロイの後ろには、何人も騎士達があとに続いてくる。それもそのはず。いかに防音の魔道具といえど、風の刃やら火球やらの攻撃で吹っ飛んだ壁を隠せるわけでもない。あれほどめちゃくちゃに魔法を使いまくって、誰にも気付かれないなんて、ありえないのだ。
「おかげで、心置きなく取り除ける」
群青の瞳を柔く細めて、珊瑚色の唇は優美な弧を描いた。
そうして、駆けつけたばかりの護衛騎士に目配せをする。ロイは何を求められているのか察したように頷いて、ハンスの首に剣を突きつけたまま、懐から古びた笛を取り出して見せた。
「……っ!」
「ディアナ様の予想した場所で、この魔笛を吹いている奴を捕まえました。既に防衛隊の副団長に引き渡しています」
徐々にハンスの顔から血の気が退いていく。それでも、忌々しげな表情には変わりがない。
「ご苦労様です。大叔父様、この方の処遇もよろしくお願いいたします」
「……ああ」
大神警視の言葉に、グレイ伯爵は重々しく頷いた。
とても実の父親に対して向けるものとは思えないほど、淡々とした冷たい声音。たった今、その父親に殺すつもりで攻撃を仕掛けられた直後だというのに、ほんのわずかの動揺も見せない幼女など普通に考えてありえないだろう。
ロイがなんだか微妙な顔をしたのも、そう考えてのことだろうか。そうして、そう思ったのはハンスもまた一緒だったようだ。
「……ハ、流石あの男の孫だ。実の兄を追放してまんまと当主の座に居座った、恥知らずそっくりじゃないか! ハハッ、ハハハハ!」
血の繋がった親兄弟を犠牲にするのも厭わない――そう笑うハンスに、何を言っているのだこの男、という目を向けてしまったのは僕だけではない。大神警視も同様だ。いや、むしろ僕よりずっとそう思っているだろう。何せ――さっきからずっと、怒りを押し殺して冷静さを装っているだけでなのだから。ハンスの自分を棚に上げた言葉に、警視が理性でもって小さな身体に押さえ込まれた激情が、じわっと滲み出してくる。
「そうですか。貴方に似なかったことは、私にとって望外の幸運です」
本当に、ディアナがハンスに似てなくて良かった。
警視はきっと心からそう思っているだろう。僕もそうだ。
「後を頼みます。ケイン、戻りましょう」
「はい」
「……了解っす」
騒ぎを聞きつけ、駆けつけてきた騎士達が、ハンスの攻撃によってぼろぼろになった城壁に驚き、また生き埋めになっている様に驚いている。その横をすり抜け、ずんずんと歩いて行く大神警視を、僕は小走りで追いかけた。
すれ違ったとき、ロイが少しだけ驚いていた。その理由を、客間のある棟に入ってようやく気付く。
「警視……」
「……参ったな、聞かれていたようだ」
表情は、常と変わらない。
声音もいつも通り、冷静そのものの大神警視の口調のままだ。
だけれど――いかに、父親として失格な相手であったとしても。もう、あんな男は父親ではないと思っていたとしても。
あの娘にとって、実の父親である事には変わりはなくて。
ほたほたと、群青の双眸から大粒の涙が溢れ出し、こぼれ落ちている。
「ディアナ……」
可哀想なことをしてしまった、と。
どこか途方にくれたような声音で、大神警視はつぶやいた。
次から次に溢れる涙は、なかなか止まることはない。
泣いているのはディアナだから、警視には止める術もないのだ。
――ようやく涙が止まったのは、夜遅くになってからのことだった。
***
うぁあぁぁん……
ひっく、う、ふぇぇ……
ああ、泣いている。
子どもの声だ。まだ幼い、女の子の声。
真っ先に僕の頭に浮かんだのは、妹の二葉だった。だけど、すぐに違うと解る。何故なら、二葉はもう高校生なのだ。こんなに幼い声はしていない。
それなら、これは……。
「ディアナ……」
自分の声帯から発せられた、自分の声。そうだ、僕は本来、こういう声をしていたっけ。
目を開ければ、そこはすっかり見慣れた池の畔だった。
大きな木の根元で、ディアナが泣いている。その小さな身体を抱きしめて、あやしているのは大神警視だ。
既婚者でありながら、未だに警視庁の女性職員らの人気の高い警視は、普段エリートらしい冷たい雰囲気を纏っているけれど、意外と子どもの扱いがうまい。子守になれている理由は、十代後半まで世話になっていた児童養護施設で年下の子ども達の世話役をしていたからだという。
その施設は元は寺に付属の孤児院だったところで、地域に根付いた古い寺は僕にも馴染みのある場所だった。古武術を教える道場があって、大神警視の紹介で僕も数年前から通っているのだ。そこで施設の子ども達に基礎を教えている警視を初めて見たときは衝撃だった。なんせ、初めて見るくらい優しい顔で、優しい言葉で教えていたのだから。
「カズマ……」
「やぁ、今晩は」
「……っ、うっ」
最初に僕に気付いたのは、ケインくんだった。なるたけ優しく見えるよう笑って見せれば、ケインくんは目に涙をためて僕に駆け寄ってきた。その小さな身体を受け止めて、そのまま抱き上げて歩き出す。
大木の根元、大神警視の隣に腰を下ろす頃には、子どもの泣き声はふたつになっていた。
これは無理もないことだ。この子達にとって、どうしたってあの男は少なからぬ縁のある相手だった。本当なら、父親として慕い、頼りにするべき相手だったのに。
――自分たちを愛してくれるはずの相手に、本気の殺意を向けられていたのだ。憎悪の言葉を叩きつけられたのだ。
例えそれが、僕らというフィルターを通してのものであったとしても……どうせ愛してくれない相手だと諦めていたのだとしても。ショックを受けないわけがない。
だから、僕も、多分大神警視も試したのだ。寝るときに、どうかこの子達に会えますようにと、会いに行こうと必死に念じて眠りについた。今夜は、今夜だけは絶対に、この子達の傍についていてやらないといけないと思っていたから。
「ご、めんなさい……っ、とまらない、っの……っ。わた、わたし、わかってたのに、なんで……っ」
「いいんだ、いいんだよ。我慢することはない。酷いことを言われたのだから、泣いていいんだ」
「でも……っ、でもっ……」
「泣いていい。嘆いていい。だけどこれだけは忘れてはいけないよ。どこの誰が君たちを嫌っていても、私たちは君たちを愛している」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったディアナの顔をのぞき込み、警視は言う。
このひとのこういうところが、本当にかなわないと思うのだ。僕は照れてしまって、こんな時でもはっきりと言葉にして伝えてやることができない。精々、不安げに見上げてくる幼児に、便乗して「そうだよ」と頷いて見せるくらいしかできやしない。
「そうだよ、だから……だからね、きっと君たちをここから出してあげるから……。そうしたら、おいしいお菓子をたくさん作るよ。たくさん泣いたら、お腹が空くだろう? 楽しみにしておいで」
精々言えたのはそんなことくらいで、情けない限りだ。
それでもケインもディアナも、ぐちゃぐちゃの顔のままほんの少しだけど笑ってくれたから。
……せめて、とびっきりおいしい菓子を、作ってやろうと誓いを立てた。