10 神様をプロデュース
北の山嶺と名付けられた一帯は、言葉通り皇国の最北に位置する、広大な山脈を擁している。この急峻な山々が天然の要塞となり、山脈の向こう側に広がる魔の地からあふれ出る魔獣を押しとどめているのだ。
もちろん、ただ山脈があるから魔獣がこちらへやってこない、というわけではない。山脈にそって、堅牢な防壁が三重にそびえ、一番外側は魔獣の侵入を阻む結界が張り巡らされている。小物はそれを越えられないが、力の強い魔獣は結界を破って防壁をかいくぐることもあった。そういった魔獣を討伐し、グローリア辺境伯領を……ひいては、皇国を守護する対魔獣最前線。
グローリア辺境伯領エンランドは、その北の山嶺を守護する城塞都市である。この地を治めるのはグローリア辺境伯家であるが、代官として実質的に城塞を預かるのは、分家であるグレイ伯爵セドリックだ。
北の山嶺を擁する都市となると、グローリア辺境伯家の騎士しかいないのかと思いきや、もちろんそんなことはない。
城塞やその周辺に詰めているのは騎士達やその身辺の世話をする近隣の住民であるが、南側には古くからこの地に住まう領民もいる。今、その領民達は、都市の南門付近に設けられた堅牢な塔へと避難の真っ最中だった。
「急げ、急げ、塔に籠もれば安全だ! 決して外へ出るのではないぞ!」
「荷は持つな、食料も毛布も燃料もある、案ずるな、しばらくの辛抱だ!」
騎士団の若い兵が、声を張り上げ、街のあちこちで住民の避難を誘導している。住民は不安そうな顔をしてはいるが、このような事態には慣れているのか、大人しく騎士達の指示に従っていた。着の身着のまま、あるいはわずかな貴重品と思しき手荷物だけを抱えて塔へと避難していく。南門の塔は、そうした避難場所であり、いざ危ないとなったときは、すぐに近隣の村や町へ住民を逃がせるよう、ノーセンド街道に面しているのだとロイから聞いている。
大神警視と僕は、そんな城塞内の様子を、高所から見下ろしていた。
城塞の西門。その塔の上だ。
こちらはほとんど人の姿は見当たらない。南門に住民を集めている為だろう。避難誘導や住民の保護を担当している者以外は、ほとんど北の砦に詰めているようだ。
三日前、北の山嶺で大氾濫が発生したと連絡を受けたのち、大神警視はテユール様と共に先行することを選んだ。ロイやリックには、それぞれ別の仕事を依頼している。正確には、ロイとリックにそれを頼むには、子どもの僕らがいてはできないので、僕らは僕らでテユール様という最強の保護者と行動することにしたのだ。
もちろん、ロイも、フレアローズにいる家令や騎士団長たちも反対したが、テユール様がついているのに何の問題があるのか、と強引に押し切った形だ。そのテユール様の手前、それ以上強硬な反対もできず、ロイも渋々折れてくれたのである。
護衛対象が、出会ったばかりの神様と自称する謎の大きな獣と単独行動するなんて言い出したのだ。ロイが反対するのも無理もないことである。僕でも反対するよ、大丈夫だ、ロイ、君は何も間違っていない。
……しかし大人数では動きにくいのは事実だし、テユール様の背に乗せて貰った方が圧倒的に速く移動できるので、僕はこのときことの成り行きを黙って見ていただけだった。全部終わったら、ロイには気に入っていたタルタルソースたっぷりのフィッシュバーガーを作ってあげようと思う。
と、まあそんなわけで。
人目を避けるため、街道ではなく、街道にそった森の中を、テユール様の背に乗って駆け抜けてきたのだが、懸念していたハンスの連れた傭兵らしき姿は見えない。
「……間に合った、んですかね」
「うむ……。いや、まずいな」
僕のつぶやきに、テユール様は低く唸った。
同時に、僕にも異変がはっきりと……感じ取れてしまう。
北の空が暗く淀んでいた。甲高い烏の鳴き声に似た、不吉な声や、大きく轟く咆吼すら聞こえてくる。
びりびりと空気がふるえ、何かが弾け飛んだような感覚。
「今のは……結界が?」
「破られたな。さて、どうする?」
北の砦を睨み、テユール様はどこか愉しげに問う。それに、大神警視はごくごく真面目な顔で頷いた。
「派手に参りましょう。信者獲得の最大のチャンスです」
「はっはっは! 相解った!」
豪快に笑って、テユール様は、北の塔の頂上から宙に躍り出す。
馬ほどに大きな真っ白な狼が、尖塔から尖塔へ、家々の屋根へと軽々飛び移りながら、まるで飛ぶように駆けてゆく。その背に、青いドレスの幼女と、仕立てのいい貴族らしい格好の幼児を乗せて。
途中、そんな異様な姿を見上げて、あんぐりと口を開ける領民や、騎士の姿が見えた。
無理もない。誰だって今の僕らを目にしたらそうなるだろう。
まして、魔獣に襲われている真っ最中なのだ。驚嘆し、場合によっては怯えてパニックになってもおかしくない。
しかしそれに構っている暇はなかった。既に大氾濫が発生して三日がたとうとしている。最前線で闘う騎士達も疲弊し始めている頃だろう。そんな状態で結界が破られたのだ。まだ城壁を突破されてはいないようだが、このままでは、三重の砦を越え、魔獣が領内へ溢れ出すこともありうる。
街の中央は緩衝地帯として広い公園が設けられていた。それを一瞬で駆け抜け、北側。北の砦が間近に迫る。砦の前に詰めていた見張りの兵が、ぎょっとした顔でこちらを凝視していた。
その頭を飛び越えて、テユール様は北の砦に乗り込む。
その背に必死にしがみつく大神警視と僕にとっては、まるで超高速のジェットコースターに、安全バー無しで乗っているようなものだった。
もちろん、手綱なんてないから、テユール様の真っ白な毛にしがみつくしかないのである。
とん、とーん、た、たん。
そんな軽やかな音をたて、テユール様は砦の壁や屋根を飛び越えて、奥へ奥へと進んでいく。
争いの最前線。まさしく今、激戦が繰り広げられている、その場所へ。
東西へと伸びる城壁の、最も外側。その一角に、多くの魔獣が集中していた。まだ、城壁を越えられてはいない。外壁の外側で、鎧姿の騎士達が剣を振るい、槍を持ち、魔獣達を討ち払っているからだ。
だが押し寄せる魔獣の群れに、じりじりと後退を余儀なくされているようでもある。
ひときわ大柄な騎士が、炎を纏った戦斧で熊をより凶暴化したような、大きな獣の胴を払った。しかし、よほど硬い毛皮に覆われているのか、獣は咆吼をあげ、腕を振り下ろす。騎士はそれを戦斧の柄で受け止めようとしたが、衝撃を受け止めきれず、後方に吹っ飛んだ。
外壁に叩きつけられた身体は、頑丈なはずの壁にめり込んでいる。
――誰かが、セドリック様! と叫んだのと、テユール様が飛び出したのと、どちらが先だったろう。
「重力軽減、飛行制御開始」
小さくつぶやく大神警視の声。テユール様の巨体が、空中に浮いたまま止まり――……。
退魔の神の咆吼が、熊と、何か別の獣が混ざったような、大きな魔獣を吹き飛ばした。
多くの騎士達が、その様子にあっけにとられている。
なんだ、とつぶやいたのは誰だろうか。
こちらを指さし、何か囁きあう者もいる。
いずれにせよ、注目が集まっている今この時が、最大の好機――最高のタイミング。
「――聞け、勇敢なる騎士達よ! 我が名はディアナ・グレイス・グローリア。ここにおいでになるは古き破魔の神、テユール様である! 我らが献身に酬いんがため、長き眠りより目覚め御自らお出ましになられた守り神なるぞ!!」
凜とした声が、異様に静まりかえった戦場に響き渡った。恐らく風を操って、声を遠くまで届くよう操作しているのだろう。
はじめは訝しげな顔をしていた周囲の騎士達が、少女の言葉を理解しはじめるや、疲れ切っていたその顔に喜色を浮かべた。
ディアナの名は、グローリア辺境伯家の騎士達が知らないはずもない。辺境伯家の最有力跡継ぎ候補が、神の背に乗り戦場に現れたのだ。――信心深い者は、歓喜に目を潤ませてすらいる。
「立て、グローリアの騎士よ! 破魔の神の加護ぞここにあり! 臆するな! 剣を持て! テユール様に続け!!」
力強い激に呼応するかのように、テユール様は魔獣の群れに突進した。
咆吼を上げ、衝撃波で魔獣達を屠る。かと思えば、その鋭い牙で、爪で、自分の体格よりも大きな龍種の魔獣も打ち倒した。体格差など、ものともしない。
テユール様はご自分が弱っており、今にも消えそうだと言っていたけれど――。
大神警視や僕が、出会ってからことあるごとに供物を捧げ、レイナードさんとシモンズさんに連絡が取れてから、フレアローズ城とエヴァローズ子爵邸にそれぞれ簡易のテユール様の祭壇を作らせた影響か。弱ってるって、どこが? と聞きたくなるほどの絶好調。
戦神、破魔の神、というその本性がそうさせるのか、戦場にあって初めて見るほどに意気揚々と暴れ回っている。
おかげで、その背中にしがみついたままの僕は、振り落とされまいと必死であったのだが……。
「はははははっ! これはいい、レン、私を上へ運べ!」
「はいっ!」
狼という姿からなのか、それとも全ての力が残っていなかったからなのか。空を飛ぶという能力を有していなかったテユール様は、大神警視が重力操作と風魔法を組み合わせて編み出した飛行魔法を、いたく気に入ったようだった。
先ほど空中で浮遊したまま攻撃を加えたのが爽快だったのだろうか。自身を高度へ運ぶよう警視に要求する。こんな状況で編み出したばかりの飛行魔法なんて扱える大神警視が信じられない。
ぶわっと身体が下に叩きつけられるような感覚に、ぐ、と喉からうめき声が漏れてしまった。テユール様が急上昇したのだ。
そうして高く高く跳び上がり、上空で大きく口を開ける。
超高圧のエネルギーが、口腔に収縮されていく。周囲の空気さえ巻き込んで、不穏な音が響く。風が渦巻き、雲が流れ――……。
轟音であった。
まばゆい光が目の前で炸裂し、何が起こったかよくわからない。衝撃に吹き飛ばされそうになりながら、僕らは必死にテユール様の背にしがみつく。そんな視界の端で、なんとか視認できたのは、まるで稲妻のような閃光が、眼下にひろがる魔獣の群れを……その半数近くを、焼き焦す様と、そうして――。
生き残った魔獣たちの多くが、怯えたように逃げ出していく姿。
思う存分大暴れして、満足したテユール様が僕らを地上に降ろしてくれたのは、城壁に群がっていた魔獣達のほとんどが、打ち倒されるか、逃げ去るかしたあとのことだった。