9 幕間 或る青年騎士の奮闘
おっさんしか出てきません。乙女ゲームどこ行った。
雪が溶け始める頃、魔獣が山を越えて麓をうろつくことは、よくあることだった。
念願叶って誉れ高きグローリア騎士団に入団し、北の山嶺に配されて二年。この二年は、数週間に一度、山中や森で魔獣を狩ることはあれど、大物や群れに遭遇したことは両手で数える程度。
ガロリア皇国の対魔獣最前線といえど、急峻な山嶺と、強固な結界、三重の防壁のおかげで、外部の人間が想像するほど、常に危険と隣り合わせにあるわけではない。でなければ、常に駐屯する防衛隊相手に商売をしようと商人が渡ってくることも、領民が移住することなく住み続けることもないだろう。
確かに訓練と実戦の繰り返しで遊ぶ暇もなく、昔誰だかが嘆いていたように、若い娘とふれあう機会もまるでないけれど、覚悟していた程の過酷な環境ではなかったのは幸いというか、若干拍子抜けというか。
そんな風に、油断していたのが悪かったのかもしれない。
雲行きが怪しくなったのは、昨年の秋。先代グローリア辺境伯ご夫妻が身罷った頃からだった。
魔獣も獣であるから、冬には冬眠する種も多い。自然、冬場は出没率が下がるものなのだが、この冬はどうにも様子が違った。
巡回中に魔獣の群れを発見した回数が、この二年のうち、半数以上がこの冬のことだと言えば、その異常さが伝わるだろうか。
北の山嶺の向こうに広がる凍土は、魔の領域と云われている。そんな場所と接しているのだから、このあたりで魔獣を見かけることは不思議でもなんでもない。いくら結界や防壁を張り巡らせても、山脈や森をつたって、皇国の他の地域に現れる魔獣だって、もちろんいる。しかし、フレアローズの近隣でジャバウォックという大物が出たとまで聞けば、この北の山嶺でも騒ぎになっていた。
竜種の大型魔獣など、北の山嶺ですらそうそうあらわれるものではないのだ。
グローリア辺境伯領の他の地域でも、山間で魔獣を見たという噂が頻繁に囁かれるようになり、商人達の間でも、この春には大氾濫が起きるのではないか、とまことしやかに囁かれる。
もちろん、グローリア騎士団北の山嶺防衛隊……我々の間でも、その警戒はあった。隊内でも日々緊張感が高まり、上官から少しでも情報を引き出そうとする者も多い。かく言う、オレもその一人だ。
「領都から応援は来るんですか?」
「……さてな。そのうちそういう話も出るんじゃないか」
「春はもうすぐですよ。小隊長達には何か編成が変更されるとか……」
オレの問いに、小隊長は面倒臭そうにひらひらと片手を振った。決定事項でないと話せないとか、何か箝口令をしかれているとか、そういうことだろうか。何も情報がなければ、予定はないと言えば済む話だ。
「もうすぐ芋虫月です。あと二月もすれば、雪も完全に溶けてしまいます」
この北の地では、芋虫月はまだ雪景色だ。萌芽月の末になってようやく雪が溶け始める。厳しい寒さが数年続いたあとの、雪解けの時。一番危ないのはその時期だと、先輩達から語り継がれてきた。まさにその時が刻一刻と近づいてきているのだ。
「別に、大氾濫に怖じ気づいてるわけじゃないですよ。そんなときこそ最前線で食い止めるのがオレ達でしょう。だけど、オレ達だけで食い止められなきゃ……ここが突破されたら、領内に魔獣が溢れてしまうじゃないですか」
「ああ、ああ、解ってるさ」
狭い宿舎の、暖炉の火がぱちりと爆ぜた。小声で話しているオレたちの会話に、宿舎の談話室にいた全員の耳が集まっているのを感じる。当然か。待機任務中で、誰もが手持ちぶさたなのだ。そんなところで皆が気にしている話をすれば、注意を引くのも当然。オレがこの場所で小隊長を問い詰めることにしたのも、仲間達の無言の催促を利用するためなのだから。
オレの稚拙な作戦など、はなから気付いていただろう。小隊長は苦笑している。
「あのな、お前、小隊長ごときがどれだけ情報もらえてると思ってるんだ。買い被りすぎだ」
「しかし……」
「お前の不安も解る。俺だって、できるだけはやく安心材料は欲しいさ。だがまだ、正式な告知ができる段階じゃない。じゃないが……。まぁ、最近、グレイ団長と領都の間で早文のやりとりが増えている」
「そう、ですか……」
恐らくそれが、小隊長が今教えられるぎりぎりの情報なのだろう。騎士団長が領都と文を交わしている。……援軍要請をしているということに違いない。上が何の手も打っていないわけがないのだ、と教えられ、ほっと胸をなで下ろした。
きっと今頃、領内の他の部隊が再編され、この地へと応援として出立する準備を進めているのだろう。大氾濫の時は、そのように対応するのだと、過去の武勇談とともに聞いている。
不安材料があるとすれば、代替わりしたばかりの新しい領主が、すこぶる評判が悪いこと、だろうか。
オレのように、貴族と言っても箸にも棒にもひっかからないような弱小貴族家の、更に家督も継げないような四男じゃあ、皇国指折りの上級貴族についてどうこう言えるような身分ではないのだけれど。
それにしたって、入り婿のくせに身重の妻を放って遊び歩いたり、妻の侍女に手を出したり、先代の急死によって領主代行となったものの皇都で愛人を囲って領都にすら戻らないなんて話を聞けば、不審にも思う。
そんな男が頭の時に大氾濫なんて有事が起きてしまって、大丈夫なのだろうか。
オレ達は領主代行の顔を一度も見たことがない。なんせ一度として、この地にやってきたがことがないのだから。フレアローズでの新任騎士への叙任式だって、列席すらしていなかった。
そんな状態であっても、有事の際、総指揮官はその男となるのだ。普段ならばセドリック・グレイ伯爵が総指揮官であるが、領都から応援部隊が集まれば、当然複数の部隊を統括するのは領主の役目だ。
せめて軍事に感心がないならないで、お飾りとしておとなしくしてくれていればいいのだが。グレイ騎士団長に指揮権を譲ってくれていれば、きっとなんとかなるだろうから。
――そんなふうに、春先のことを警戒は、していた。
けれどまさか、その有事が、たった三日後に起きるだなどと。誰にも思いも寄らないことだっただろう。
***
――ピー、ピッピューィ……
夜の闇に沈んだ森に、鳥の鳴き声のような、笛の音のような、高い音が響いた。
「……なんだ?」
「笛か?」
巡回中のことだ。今夜は月が細いから、闇はより深くなっている。三人一組での見回りの最中で、もちろんオレもひとりではない。組んでいた三人全員が聞いたのであれば、気のせいではなかったはずだ。
「鳥の姿は見当たらんな」
「おい、あそこに誰かいるぞ」
きょろきょろと城壁の上から周囲を見回す。場所は、防壁のもっとも内側、一の壁市街地とも接する地点だ。オレ達の右手には二の壁と三の壁がたっぷり間をあけてそびえており、左手には市街地――騎士団を相手に商う酒場や食事処、武具店をはじめとした店や、城塞で働く下男下女やその家族の居住区なのだが……。
とっくに閉店している飯屋の建物の影に潜むように、誰かが立っていた。外套をかぶり、城壁を見上げ、何か……笛、のようなものを吹いている。
「おい! アンタ、そこで何をしてるんだ!?」
オレが声を張り上げると、そいつはびくりとこちらを見上げ、慌てたように逃げ出してしまった。
――怪しい。
「おい、待て!!」
「追うぞ、あ、いや、お前は小隊長に伝えにいってくれ」
「ああ!」
不審者を追うのは同僚たちに任せ、オレは詰め所にいるはずの小隊長の元へと走った。そうして事の次第を伝え、指示を仰ごうとしたその時だ。
――三の壁の物見役から、魔獣の群れが現れたという報せが城壁を駆け巡ったのは。
そこから先は、あまりにも忙しなくて、何をどうしていたのか詳細を思い出すこともできないほどの大混乱となった。同僚達が追った不審者には逃げられてしまったそうだが、捜索のために人を出す余裕もない。なんせ結界に群がる魔獣達が、体当たりで突破してこようとしているのだから。
結界にかかる負荷を減らすためにも、群がる魔獣を少しでも減らさなくてはならないが、あとからあとから沸いてきて、減る気配がいっこうにないのだ。
魔力と体力が尽きるまで、小隊ごとに陣形を組んで三の壁の外で戦い続ける。
「陣形を崩すな!」
「左だ、来たぞ!!」
「ぐぅ……っ!」
三人一組で互いの死角を補うように固まって、一匹でも多く魔獣を仕留めようと剣を振るう。身体強化の魔法は得意のはずだったが、さすがに丸一日近く闘い続ければ、限界だった。
「下がれ! 一旦後退だ!」
「はっ!」
小隊長の指示に従い、じりじりと後退し、どうにか結界の内側に入った時には、もう膝から崩れ落ちそうだった。
疲労困憊の身体を支え合い、ふらつく足を叱咤して防壁の内側へと退避する。医務室はとっくに満杯で、砦の講堂が臨時の診療所となっていた。医師だけでは明らかに手が足りていないようで、若い助手や、普段は雑用をこなしているメイドたちすら治療に借り出されている。治癒魔法が使える者は滅多にいないが、身体強化である程度傷の治りをはやくすることはできる。自力で身体強化をかける体力のないものに、魔法が使える下級貴族出身のメイドたちが身体強化術をかけたり、食事の介助をしたりと忙しなく働いていた。
オレたちも彼女らの世話を受け、応急手当をし、食料を貪るように食らって、硬いタイルの張られた床の上に寝転がった。気持ちが高ぶって眠れないかと思ったが、流石に身体は疲れ果てている。目を閉じればすぐに泥のような眠りにつき、数時間後、目が覚めた。
相変わらず、激しい戦闘が続いているようで、ときおり甲高い獣の叫び声が耳に届いてくる。――ああ、夢ではなかったのだと奥歯を噛みしめた。
何故、こんなことになっているのか。
春はまだ先だ。雪もちっとも溶けていない。
戦場となっている三の壁の外側は、数日前まで真っ白だった雪原が踏み荒らされ、魔獣や人の血を吸って赤と茶の混じり合った醜い有様となっていた。今のところ、騎士団に死者が出たという一報は走っていないが、それも時間の問題だろう。気のせいなんかじゃない。だんだんと、押し寄せてくる魔獣が強くなっていっている。
本来ならまだ冬眠しているはずの、ペルグラベアの目撃情報まで出たときには、耳を疑った。大型の魔獣の中でも、ひときわ凶暴で、鋼のように硬い毛皮と強靱な筋肉を身に纏った熊の魔獣だ。普通の熊に比べて何倍も大きく、牙も発達し鋭いかぎ爪のついた豪腕は一凪ぎで巨木をへし折るほどの恐ろしい力を持っている。
オレ達の小隊が束の間の休息から戦場へ戻ったときには、恐るべき怪物が戦場で暴れ回っていた。
魔法で編んだ風の鎖で動きを制限しようとも、奴の毛皮は耐魔性で魔法の攻撃をある程度弾いてしまうのだ。ならばと純粋な武具で勝負しようにも、それすら毛皮が防ぐのだからたまらない。
小賢しくも知能のある魔犬たちは、ペルグラベアの影をうろちょろし、隙を見ては襲ってくる。それに気を取られれば、ペルグラベアの豪腕をよけ損ない、防御結界をとっさにはってすらあっというまに深手を負ってしまうのだ。
元々魔力の低いオレには、たいした攻撃魔法は使えない。土魔法で礫を操り、邪魔な小型魔獣を先に減らそうと試みるも、後から後から沸いてきてきりがなかった。ペルグラベアがどんどんこちらに近づいてくる。あんな怪物、オレなんかがかなう相手じゃない。小隊長だって無理だろう。だが、止めなくてはならないのだ。アイツは場合によっては、結界を大きく損なう一撃を見舞ってくるかもしれないのだから。
ほんの数時間休んだ程度では、魔力も十分には回復していなかったようで、手足に力がこもらなくなっていく。目の奥がチカチカとするような感覚に、噛みしめた唇が切れ、口の中に血の味が広がった。
体躯は、熊だ。だがその大きな口には、熊にはありえない大きな牙が伸びている。爪も鉤爪のように長く鋭い。尾は爬虫類のように長く、太く、これもまた強靱だ。腕の攻撃を避けても、次にはこの尾が標的をなぎ払おうとしていくる。この二段構えの攻撃は、解っていても避けるのは難しい。並の騎士では反応が間に合わず、ならばと防御結界をはっても、その圧倒的な膂力と質量で結界ごと吹き飛ばされてしまうのだ。
……その豪腕が、目の前に迫ろうとしていた。
「下がれぇいっ!!」
雷鳴が轟いたような怒号に、考える余裕などなく身体が従う。
オレのすぐ横を、火球が目にも留まらぬ速さで通り過ぎ、ペルグラベアに直撃した。
「ヴォアァア――ッ!! グルゥア!!」
「ちっ、やはり魔法はききが悪いな」
「……団長!!」
驚愕混じりの声が、周囲に上がった。オレのような下っ端は、遠目からしか見たことのないような雲上人が、自ら戦場に降り立ったのだ。
セドリック・グレイ伯爵。北の山嶺防衛隊の団長であり、先代グローリア辺境伯の実弟……。まさかそんな人が最前線に出てくるだなんて。
「ふんっ!」
グレイ団長はもう老人と言ってもいい年齢である。だというのに、巨大な戦斧を軽々と振るい、ペルグラベアと堂々と相対した。横凪ぎに振るわれた戦斧を、ペルグラベアは腕でガードする。だが硬い毛皮も、団長の渾身の一撃を防ぎきれるものではなかった。毛皮をものともせず、戦斧は丸太よりも太い腕を深く抉った。
大地を揺るがすような怒りの咆吼が、獣の口からほとばしる。
「グルルゥゥ!!」
「ぬ、浅いか……。まだまだぁ!」
赤黒い血が吹き出す腕に構わず、ペルグラベアは突進してくる。腕や牙の猛攻を、グレイ団長は戦斧でいなし、返す刃をその腹に叩き込む。巨大な熊の身体が、雪の上を転がった。ベアの周辺に見る間に血だまりができ、黒い瘴気まで滲み出していく。
ペルグラベアは、起き上がろうとしばらくもがいたが、追い打ちとして叩きつけられた魔法の雷によって、とうとう動かなくなった。
「……やっ、た?」
やった! 斃した! ペルグラベアを……あのバケモノを!
そう、オレが喜んだのも束の間。
ぐっと頭を上から押さえつけたかのような、重苦しい魔力の重圧に息が止まりそうだ。
「……あ、……」
「ちっ、連れがいたか」
グォォオォオォオォ――ッ!!
怒りに満ちた、雄叫び。
倒れ伏したペルグラベアの元へずしんずしんと重い足音を立てながらよっていくのは……さっきのペルグラベアより、二回りは大きそうな、とんでもない巨体のペルグラベア。
……まさか、二体もこんなバケモノが出てくるだなんて。
グレイ団長を見やれば、彼も大きく肩で息をしている。ついさっき斃したペルグラベアのせいで、魔力や体力を大幅に削られているのだ。魔法攻撃はきかないならと、身体と武器の強化に徹底的に魔力を集中させたのだろう。
北の砦でもっとも強い魔力と戦闘力を持つのが、グレイ団長だというのに……。その団長が斃したペルグラベアより更に巨大で、明らかに強い個体が出てくるなんて、どうしたらいいのだ。
「いかん……!」
ペルグラベアに戦力が集中していたことで、結界の負荷が大分強くなっている。そこを狙って、巨大な魔獣は苦手なはずの魔力攻撃を仕掛けた。口中に集めた魔力のエネルギーを、結界めがけて放ったのだ。
凝縮された魔力球は、光線のようにまっすぐな残像を残し結界へと叩き込まれる。
パン! と何かが弾けるような音に、グレイ団長の表情に焦りが浮かんだ。オレの顔も、きっともう真っ青だ。
結界が、破られた……。
まだ一部に穴が開いただけだけど、このままでは完全に破られるのも時間の問題だ。
急いで結界を張り直さないと。だけど、もう魔法が使える騎士はみなこの三日の戦闘でくたくただ。城塞を守る結界は、張り直すにも大量の魔力を消費する。今、砦にそれができるだけの魔力を残しているものなどいるのだろうか。
絶望的な状況に、心が折れそうになる。
それでも、オレも、先輩達も、皆ただ剣を振るい、魔法を操って、少しでも魔獣を減らすしかない。
もはやペルグラベアに向かっているのはグレイ団長だけだ。団長ぐらいしか、まともにやりあえないせいだ。それなのに。
やはり、化け物は強くて。
巨大ペルグラベアの強烈な一撃を、団長は戦斧でガードする。それでも身体が吹っ飛ばされるのは避けられない。
城壁に叩きつけられ、団長の身体がよろめいた。
まずい。
団長がやられたら、もう――……。
耳障りな魔獣達の鳴き声。うなり声。
視界を埋め尽くす烏、黒い瘴気を纏った魔獣の群れ。
諦めの境地で、歯を食いしばり――……死を、覚悟したその時。
白い獣、が舞い降りた。