5 日陰のひと。
アルフィアス男爵夫人が意識を取り戻したのは、夕暮れのことだった。
騎士達によって即席の補修を施された家の中は、テユール様のアドバイスで、風魔法で隙間風を遮ったおかげもあってか暖炉ひとつでそこそこ暖かい。フレアローズ城の快適さとは雲泥の差であるが、こんな廃村でもこれだけ快適に過ごせるようになるのだから、魔法というものは本当に便利だ。
ロイをはじめ、騎士は最低限の護衛を残して、大神警視の指示で出払っている。破落戸達も、すでに見張り役と共に移動済みだ。この廃村に残っているのは、僕、警視、アルフィアス男爵夫人、それから看護の得意なアルバートと、護衛隊副隊長のリックの五名だけだ。
アルバートとリックが家の修繕や野営道具で夕食の準備もしてくれたので、僕たちはとっても楽をさせてもらっている。
「う、うぅ……」
「あ、アルフィアス男爵夫人。よかった、目が覚めたんですね」
「こ、ここは……。……ひっ!?」
いろいろと手を尽くして温めた甲斐あって、アルフィアス男爵夫人はようやく目を覚ましたのだけれど、巨大な狼の姿であるテユール様を目にして、また気絶してしまった。よほど驚いてしまったらしい。
テユール様、ずっと夫人に寄り添って温めてくれてたんだけどな……。あ、心なしか耳としっぽがしょんぼりしてるな……。
え、どうしよう、いたたまれない……。
なんとフォローしようかと思っていたら、テユール様はす、と立ち上がった。
「テユール様、どちらに?」
「じっとしておるのも飽いた。どうせおぬしら、しばらくここにおるのだろう。散歩がてら狩に行く」
「共は……」
「いらぬ、人の足で我についてこれるものか」
「……さようですね。行ってらっしゃいませ」
大神警視がテユール様を恭しく送り出せば、騎士たちもほっと緊張を緩めたようだった。やっぱり馬のように大きな狼が同じ空間にいて、しかもそれが神様だ、なんて聞いたら気が気じゃないんだろうな。
それにしても、神様って狩りなんてするのか……。いや、うん、手負いの女性を刺激しないようにとの配慮だろう。有り難いことだ。
せっかくテユール様が気を利かせてくれたのだから、と、僕はそっとアルフィアス男爵夫人に声をかけてみた。いい加減何か食事をさせないと、体が持たないだろうから。
「アルフィアス男爵夫人、起きれますか?」
「……っう、ん、……はっ!」
「あ、急に起きちゃだめですよ。大丈夫ですか?」
何度か呼びかけている内に、覚醒したアルフィアス男爵夫人は、最初こそぼんやりとしていたが、何があったか思い出したか、カッと両目を見開いて飛び起きた。しかし、生死の境をさまよっていたようなものだったのだ。すぐにふらりと傾いだ身体を、慌てて支える。
「どうして、私、雪山に……、あなたたち……」
「大丈夫です、もう大丈夫ですから」
「白湯です。身体が温まりますよ」
温かな湯気の立ち上るコップを差し出したのは、大神警視だ。
アルフィアス男爵夫人は大神警視と僕を驚愕の眼差しで凝視して、半ば無理矢理持たされた白湯のコップに気付くと、一気に飲み干した。
喉も渇ききっていただろうから、それだけではまったく足りなかっただろう。白湯をおかわりして、ようやく人心地ついたようにほうっと安堵の息をついた。
「食事はできそうですか? 食べられそうなら、これをどうぞ」
騎士たちが作ってくれたばかりの粥の椀を渡しても、夫人のまなざしはまだどこか茫洋としていた。顔色は相変わらず悪いし、手も震えている。それでもなんとか自力で匙を口に運んで、夫人はぼろぼろと涙をこぼしはじめた。
涙を拭う余裕もなく、ずっ、と時折鼻を啜りながら、塩だけで味を調えた粥をごちそうのように掻き込んでいく。
そんな夫人を二人がかかりで支えながら、食事が終えればまた寝袋に横たわらせる。凍死の危機は免れたが、今度は熱が出始めていた。今夜は発熱がひどくなるかもしれない。
「アルフィアス男爵夫人、熱が出てきていますから、一度着替えましょう。騎士達が夫人の着替えも持ってきてくださってます。ドレスでは苦しいでしょう。ご自分で着替えられますか?」
「……できるわ」
大神警視が問えば、夫人はぼんやりとした眼差しではあったが、きちんと受け答えはしてくれた。
「では着替えを置いておきますね。私たちは外に出ていますから、着替えたら呼んでください」
「……えぇ」
助かったという安堵と、上がってきた熱のせいか、アルフィアス男爵夫人は随分と大人しい。フレアローズ城での傍若無人さが嘘のようだ。
「……メリッサよ」
僕らが家を出るとき、ほんのかすかに聞こえた言葉に、僕と警視と騎士達は、顔を見合わせてちょっとだけ笑ってしまった。
アルフィアス男爵夫人ことメリッサさんは、コルセットの要らないゆったりとした室内着に着替えた後、力尽きたのか今にもまた寝込んでしまいそうだった。寝入ってしまう前にと、ロイたちが万が一の為にと持ってきていた薬箱に入っていた熱冷ましの薬草を煎じて、薬湯を飲ませておいた。正直、この世界の医療技術も発展しているとは言い難いので、どの程度効くのかは心配になるところだ。いや、でも良く効くって言ってたし、大丈夫だと信じるしかないか。
メリッサさんが寝入ってから、僕と大神警視で交代で看病に当たることにし、アルバートとリックにも、不寝番はひとりだけたてれば十分なので、交代で仮眠を取るよう指示をした。ふたりとも、看病も不寝番も自分たちがやると言い張ったが、そもそも昨夜も夜通し吹雪の中を馬で駆けてきてくれていたのだ。二日連続徹夜なんてさせては、明日の行動に差し障ってしまう。
今も姿は見せないけれど、テユール様の冴えた冬の朝のような清々しい気配は近くに感じられるのだ。人が多いからあえて姿を見せていないだけなのだろう。神様って、本来人前に出てこないものであるそうだし。
テユール様がいれば魔獣に襲われることもないし、不審者が近づけばきっと教えてくれるだろう。なんせテユール様のご神体を持っているのは、大神警視なのだから。
それに、メリッサさんにしても、知らない成人男性に看病されるより、子ども相手の方がまだマシなはずだ。二葉も風邪で寝込んでいるときに家族以外と会うのは凄く嫌がっていたものだ。女性としては、熱にうなされ、憔悴している姿を他人に見られたくないに違いない。
そのあたりを説明して納得させ、看病と不寝番を分業することに成功した。
現在、ロイは部下をひとり連れ、大神警視の指示でブランカ城へ遣いに出ている。あとのふたりにもそれぞれ別の仕事を頼んでおり、少なくともロイが戻るまで僕らはここを動けない。
せめてメリッサさんだけでも、より安全な場所に移動させてあげたいところだけれど、容態が悪く、意識もないことから雪の中の移動は危険だと判断したのだが……。いよいよ危ないという時には、テユール様に頼み込んで医者がいそうな街まで運んで貰うしかないかもしれない。
幸い、夜半過ぎに薬が効き始めたか、熱が少し下がってきたようで、ほっとした。苦しそうだった寝息もだんだん穏やかになっていったので、僕の心配は杞憂に終わるかもしれない。
「様子はどうだ?」
先に仮眠を取っていた大神警視が起き出して、小声で声をかけてきた。リックは寝ていて、アルバートは家の戸口のあたりに陣取っている。
「少し熱が下がってきたようです」
「そうか。あとはかわろう。君も休んでおきなさい」
「はい、よろしくお願いします」
メリッサさんの枕元を大神警視に譲って、僕も仮眠を取るため寝床に潜り込んだ。
ロイ達が人数分の寝袋や毛布を持ってきてくれていたおかげで、昨夜に比べてかなり人間らしい寝床に潜り込むことができた。それでも寝心地がいいとはとても言えないが、朝から雪の中を歩き回っていたこともあり、身体はすっかり疲れ切っている。どんな時でも眠れる時に眠るのは、仕事柄身体に叩き込まれている――……と、思っていたのだけれど。
そもそもこの身体はケインくんのものなので、すっかり勝手が異なるようだ。
どうにも、なかなか寝付けない。
時折、布を水に浸し、絞る音が聞こえてくる。大神警視がメリッサさんの汗を拭いてやっているのだろう。
かすかな物音がやけに耳についており、神経が冴えてしまっているようだった。
ようやくうつらうつらと浅い眠りについているうち、ふと人の話し声が聞こえてきたような気がした。
会話というより、誰かが一方的に話しているような、そんな言葉の羅列だ。
――どうして? わたくし、捨てられたの? わかってるわ、まわりからどう見られていたかくらい。だけど、じゃあどうしたら良かったの? わたくしを求めたのはあの人なのに。いつかきちんと迎えるからって、その言葉を信じていたのに、信じるしかなかったのに、だって身分の低い使用人が、求められて断れるわけがないじゃない――……
嘆きの言葉は、涙混じりにかすれ、やがて嗚咽となって意味のある言葉にはならなくなった。
まどろみながら、僕はぼんやりと思い出す。
そういえば――かつて、封建社会で領主や貴族、富裕層の家で働く女使用人にとって、気をつけるべきは、雇用主の男性家人や、執事をはじめ立場が上の男性使用人からのセクハラであったと何かで読んだことがある。
ひどいときには手籠めにされて、妊娠するや母子ともに捨てられて、男の方は知らんふり。そんなことが頻繁にあったものだから、奉公に上がるときは十分注意しなくていけなかった。そんな危険があっても、女性の働ける場所など限られていたので、我慢するしかなかったのだ、と。
僕らの世界の価値観では、基本的に男女の仲は両者に責任があると考えるものだろう。実際、メリッサさんも開き直って若旦那の愛人としての益を得ていたという情報は方々から入ってきている。
だけど、そうだったとして。
――彼女を日陰者にした男達に、不要品のように処分されるなど。
そんなこと、あっていいわけがないのだ。
「ハンスにはね、皇都にも愛人がいるのだけど。……妊娠してるのよ」
泣に濡れた目元を拭うこともせず、すっかりと諦めきった無感動な声音でメリッサさんがそう教えてくれたのは、翌朝のことだった。