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序章

ご無沙汰しております。

第三章、本日より連日更新予定です。

よろしくお願いします。




 一番古い記憶は、饐えた臭いの充満する半地下の小汚い部屋だった。

 襤褸をかき集めたかのような、寝台とも呼べない寝床に石像のように座り込み、明かり取りの窓から外を眺めていた父の横顔が今も忘れられない。

 覚えている限り、父は無気力で、物静かなひとだった。

 身体も良くなく、気温が下がれば熱を出し、暑くなれば倦怠感で寝込む。そんな父に代わって、物心つく頃には往来で金の無心をしたり、神殿で食べ物の配給を貰ってはねぐらへと運んでいた。

 父はそのたび、ありがとう、アーネストと笑った。

 それは私の名前ではなかったが、そう言って微笑む父はことさら優しかったので、それは誰、と聞くこともできなかったのだ。


 ――父は、私の世界の全てだった。


 母のことは覚えていなかったし、私たち親子を屋根のある部屋に置いてくれていた貧民街の者達も、母についてはろくな話をしなかったから。


 曰く、父は若い頃大層美しかったという。こんな薄汚れた場所に居るのは不似合いな、まるで王侯貴族のような美しい男。見目の良さから、金持ちの家の下男としてあっさりと雇われたが、そこの娘が父に懸想してしまったのが不運のはじまりだったという。自分では釣り合わないから、と父はご令嬢と距離を置こうとしたけれど、我が儘放題育った娘はとりあわなかった。

 令嬢は父を求め押し切って子を作り、婚約の話も蹴ってしまい、激怒した領主に勘当されてしまった。そうして令嬢と父は市井に放り出されたけれど、お嬢様にまともな仕事などできるわけもない。

 父は妻子を養おうと無理をして働いたけれど、つましい生活に耐えきれなかった令嬢は、まだ乳飲み子だった私と父を置いて出て行ってしまった。

 その後の令嬢の行方は、貧民街の誰も知らない。

 実家に戻ったのだと言うものもいたし、門前払いされてどこぞでのたれ死んだのだと言うものもいた。


 令嬢……母が出て行ったあと、父は私を抱えてその日雇いの仕事を転々とし、しばらくして娼館の下男になったけれど、ここでも美しい容貌が災いした。

 美貌を武器にのし上がることができる者もいれば、うまく立ち回れず、奈落に落とされる者もいる。

 父は後者だった。


 雇い主の妻に愛人になれと迫られて、生活のことを考えると断れず。けど結局、雇い主にバレて袋だたきにされて放逐された。

 その時の怪我が原因で、ただでさえ身体の弱かった父はますます弱り切ってしまったのだ。


 死にかけた父と、まだみっつにもならなかった私がそのままのたれ死ぬのを憐れんで、娼館の主から匿って助けてくれたのが、大家さんだ。

 彼は貧民街でその日暮らしの労働者たちに、朝晩麦粥を売り歩く仕事をしていた。彼の妻は下町で評判の飯屋で働いていて、そこで廃棄寸前の穀物を安く譲って貰って、それで作った麦粥を売っていたのだ。夫婦共働きで、子どもが居ない。だからか、彼らは不遇な父と幼い私を憐れんで、使っていない部屋においてくれた。


 家賃は、前払いとして、父がかろうじて持っていた財産……母のものだったのか、娼館の夫人から貰ったのか、大きなルビーのついた指輪で支払われていたらしい。


 父の持ち物は、もう他には私しかなかった。

 私にも、父だけだった。


 そんな閉ざされた世界が一変したのは、父が死んだあの夜だ。


 その頃には、父は毎日朦朧としていて、頻繁に私を「アーネスト」と間違えた。だけどその時だけは、意識がはっきりしていたのだろうか。私の目を見て、言ったのだ。


「神殿に行きなさい。神官様に、お預けした箱がある。この鍵でしかあけられない箱だ。私の本当の、最後の財産がそこにある。それを持って、グローリア辺境伯家にお行き。もしかすると、アーネストなら……お前の……力に……」


 震える指で、首から提げていた革紐にくくられた鍵を私に押しつけ、父は微笑んだ。


 アーネスト。


 父は最後に、またそうつぶやいて。

 そうして死んでしまった。

 私の覚えているかぎり、私の名を呼んでくれたことなど数えるほどしかなかったのに。


 世界の全てであった父が息を引き取ったその瞬間、共に私の世界も壊れてしまったのだろう。


 アーネスト。

 それは誰。

 グローリア辺境伯家。

 それは父となんの関係があるのか。


 今際の際に、頼れと告げたその家は、ならばなぜ困窮した時点で頼らなかったのだろう。


 なぜ、なぜ。

 疑問ばかりを抱えて、神殿にかけこんだ。神殿の神官は、父を共同墓地の一角に葬って、父から預かっていた箱を返してくれた。その箱に入っていたのは、見たこともないような素晴らしい細工の、青い宝石がついた指輪で。

 それひとつで、十分一財産になろうはずのそれを、なぜ神殿に預けていたのかわからなかった。

 売って、何か商売の元手にしてしまえば、あんなふうに惨めな最期をむかえずにすんだのではないか。


 なぜ、なぜ。



 うずまく疑問に答えをくれたのも、その指輪だった。

 謎のままであった、父の素性。

 哀れな父の、生まれから終わりまで。

 そうして同時に、私の憎むべき相手も、教えてくれたのだ。



 あの日からずっと……ずっと……。

 熾火のようにくすぶる憎しみが消えることは、ついぞなかった。




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