16 雪山にて、遭難す。
踏み出した足が、膝まで埋まる。
人どころか獣すら踏み入ったあとのない真白な雪は、春の遠いこの地ではいまだ厚く積み重なっていた。子どもでなくとも、足をとらえて思うように進まなかったことだろう。
そればかりではなく、視界を奪う横殴りの吹雪もまた、進む足を鈍らせる要因となっていた。
わずかでも口を開けば、ぜぇぜぇと荒い呼吸がもれる。背中や脇を流れる汗は、瞬く間に冷えて体温を奪っていった。
どうしてこんなことになったのか――……。
鳥型の魔獣に襲われ、馬車ごと巣に持ち帰られるところだったのは、認識している。馬車の扉が壊れ、中空へ投げ出された僕らに、あの鳥が気付かなかったのは不幸中の幸いか。
雪山の上空を飛行中に宙に放り出されたとき、僕はとっさに風魔法で墜落の衝撃をやわらげようと試みた。しかしどうしてか、魔法は発動しなかった。それどころか、魔力を身体に巡らせて、身体強化をはかることすらうまくいかない。
何かに遮られるように、体内で魔力が滞っている。
それを察したときには、もう地表は間近だった。
この速度で、あの高さから落下したのだ。無事に済むはずもない。
それでもせめてと、受け身を取ろうとした僕の腕を、大神警視が掴んで自分の方へと引き寄せた。
「重力軽減、速度低下――風よ、折重なりて盾となれ!」
言葉に力がこもり、僕らをとりまく空気の流れが変わる。
ごう、と突風が下方に渦巻き、積もっていた雪が舞い上がった。地表と僕らとの間に作り出された空気の層。墜落の直前、それが僕らの身体を弾いて、鞠が跳ねるかのように雪の上に投げ出される。
「ぅぐっ……!」
恐らくは、初めて試みる魔法であったせいもあるだろう。衝撃は殺しきれず、ごろごろと雪の上を転がって、僕は……僕らはしばらく気を失っていた。
そうして先に気がついた大神警視に叩き起こされ、あたりを見回せば、一面の銀世界。どこを見ても鬱蒼と茂る針葉樹と、樹木や岩、地面を覆い尽くす雪ばかり。
馬車ごと運ばれた距離は、それほど長いものではなかっただろうが、不慣れな土地であることも手伝って、どちらが自分たちがもと居た場所なのかすら判断がむずかしい。白鷲山は山頂が常に雪で覆われているためにそうと呼ばれているけれど、近隣の山も条件は似たようなものだ。
しばらくはアルフィアス男爵夫人を捜しもしたが、落下位置がずれたのか、彼女の姿はどこにもなかった。そのうちに降り始めた雪はあっという間に吹雪へと変わってしまい、このままでは我々の命も危ないと捜索を打ち切った。
彼女を捜すことを諦めたわけではないが、子供の体ではできることに限界がある。一度どこかに身を潜め、体力の回復を図るなり、グローリア辺境伯家の騎士たちと連携をとるなりして態勢を整えるべきだ。
救助者が救助のために死んでは話にならない。
……まあ、今現在僕らも要救助者の側なのだけれど。
いずれにせよ、まずは自分たちが生き残ることが最優先である。
せめて風雪をしのげる場所を探さねばと歩き始めて、どれほどの時間がたっただろう。
おそらく、この山は白鷲山の隣に位置する山ではないかと思うが、だとしたら標高もかなり高い、大きな山であったはずだ。そのどのあたりの位置を、現在彷徨っているのだろう。
人口の建物のひとつも見当たらなければ、特徴的な岩か何かがあるわけでもない。
そもそも、どんどん吹雪がひどくなっているため、周囲の景色などほとんど見えないようなものだ。
せめて樹木の多いあたりに逃げ込めば、多少の風よけくらい見つかるかもしれない。そう思って、少しでも障害物がありそうな方向へ歩くしかない。
魔法で防寒ができたなら良かったのかもしれないが、あいにくそんな便利な方法は知らない。せめて身体強化で体力を底上げできないかと歩きながら何度も試みているが、やはり何かに阻まれるように魔力の循環が滞っている。
歩けば歩くほど、足は鉛のように重くなっていった。
あ。
まずい、視界がかすんでいく。
寒い、と感じることももうなく、ただただ眠くて仕方がない。
いや、ダメだ。
歩かないと。
避難、しないと。
少しでも安全な場所へ――そう思うのに、目の前が真っ白で、だんだん何も考えられなくなってしまう。
もう自分が歩いているのか、いや、立っているのか。それすらも曖昧だ。
――このまま、死ぬのだろうか。
この世界にやってきて、初めて感じる、命の危機だった。運良く洞窟か何か見つけられたとして、この冷え切った身体で、なんの道具も食料も持たず、救助が来るまで待つことができるのか……。非常にあやしい。
魔獣を討伐し終えた騎士団が、きっと探してくれるだろうけれど。馬車がさらわれたのを知っているのはきっとあの男だけ。
奴が虚偽の申告をしたなら、見当違いの方向で捜索活動がなされるかもしれない。
不吉な考えばかりが浮かんで、助かるビジョンが浮かばない。
それは絶望となり、諦念となる。
――置いて行くのだろうか。
今度こそ、本当に、死んでしまったなら。
置いていかないでね、と。泣いていた妹の姿が脳裏をよぎる。
もしも自分が先に死んだとしても、金銭面ではどうにかなるだろう。それだけの用意はしてあったし、両親の保険金も手つかずだ。保護者が必要という点では、きっと叔父夫婦が助けてくれる。
だから、だけど――……。
ごめん、二葉――。
「起きろ、佐藤警部補!!」
バシンと乾いた音と主に、頰に衝撃を受けた。
かすんでいた意識が、唐突にクリアになる。襟首を掴まれ、ぐいっと引っ張り上げあられた。間近に迫った群青が、僕を叱咤する。
「しっかりしろ、馬鹿者! ケインを道連れにするつもりかっ!!」
「――っ!」
あぁ、そうだ。
その通りだ。今この身体を動かせるのは、僕だけなのに。
僕が諦めるということは、あの子どもも死んでしまうということじゃないか……!
何をあっさりと、諦めているのだ!
「す、みません……っ!」
ぐっと足に力を込めて、なんとか立ち上がる。よろける身体を、大神警視が支えてくれた。幼い少女の肩を借りなくては歩けないなど、情けない限りだが、今はそんなことをぼやいている場合じゃない。
「……まったく、何という体たらくだ。己の見通しの甘さに腹が立つ。奴らを甘く見過ぎていた。よもやここまで外道とは……っ」
一歩足を踏み出すたび、膝まで雪の中に沈みこむ。荒い呼吸の合間、吐き出されるのは憤りをはらんだ言葉。意識を保つ為か、己を奮い立たせるためか。ひとことも喋る余裕のない僕とは裏腹に、大神警視は怒りを燃料に動き続けているかのようだった。
雪道に体力を奪われているのも、芯から凍えているのも同じはずだ。ディアナとケインに、身体能力の差はほとんどないはずなのだから。
ろくな防寒装備も、食料も何も持たず、吹雪の山に放り出されたのだ。大人であっても絶望的な状況であるのに、前を睨む群青の瞳には変わらず強い意思がともって陰ることはない。
「こんなところで、死なせるものかよ……っ」
ざくっ、ざくっ。
足下でうるさく鳴っているはずの音さえ、どこか遠い。
前に。
一歩でも、前に。
ここで止まるわけにはいかない。
足を止めれば、意識を失えば、きっと助けを待つこともできず凍え死んでしまうだろう。
あの子どもたちを道連れに……。
何としても、それだけは避けなければと。ただその一念で動かしていた足が、雪に取られて崩れ落ちる。大神警視もとっさに支えきれず、ふたりして雪の中に埋もれるように転んだ。
「くっ、……」
「……はっ、くそっ」
雪に濡れ、重くなった衣類が邪魔だ。
立ち上がろうと、腕に、足に力を込めて、けれど思うように動かなくて。
なんとか顔を上げた、僕らの視線の先で――……。
白い獣が、こちらを見ていた。