#7 佐奈南「こんなのあたしの才能じゃない!」
「うわ、悪い! 擬態してるから気づけへんかった! わざとじゃないねん!」
「なあ佐奈南! お前芸人なんやろ! この牛乳パックと同じ色に変われや!」
「あはは……がんばってみるね」
従兄のセレンと組んでいた漫才コンビでは、あたしは滑稽なボケだ。小学校のみんなには秘密にしていたが、小3のある日、偶然劇場を見にきたクラスメイトがあたしの秘密を広めてしまった。
芸人はいじられてなんぼだとセレンが言っていたから、そういうものだと割り切って耐えていた。
中3の冬、自分はもうすぐ高校生になるという自覚が強くなり、小4からずっと続けてきたツインテをやめてメイクをしてみた。それ以来、いじられるのが嫌という気持ちが強くなり――
「よう佐奈南! あれやってや! 牛乳パックと同じ色になるやつ!」
「黙れ」
パチンッ!と乾いた音が教室に響き、手のひらにひりひりした痛みが走る。瞬間、胸がスッと軽くなったのを今でも覚えている。
それ以来、あたしをいじってくる男子はいなくなった。
あたし次第で世界は変わる。理想の自分を貫ける。だから今日も、あたしはあたしの手で本当のあたしを守るんだ。
「セレン。突然なんだけど――解散しよ?」
大鍛冶屋第二劇場、中楽屋。声は抑えたつもりだったが、隅で立ち話をしているあたしたちにチラチラと視線が向けられている。スマホやテレビを見ているフリをしているが、密かに注目の的にされていた。
「――解散?」
くわえた煙草に火をつけながら、セレンは唸るように低い声で言って、首を傾げた。
解散。これはあのアホのおかげで出せた答え。
人間なのに漫才師になろうとするあいつを、あたしは見習わないといけない。
ずっと自分に言いワケしてた。「屋号さえあれば」なんて悔やみながら、心のどこかで「誰かが助けにきてくれる」なんて思ってた。
でも違う。そんなんじゃあたしはあたしらしく生きられない。
解散して、一人になっても夢を追いかけ続けられるあたしにならないと、ダメなんだ。
「そりゃ無理だ、佐奈南」
セレンは口から紫煙を吐き出した。照明の周りに煙がわだかまっているのが見える。
驚かれると思ったが、やけに淡白な返事だった。
ぎゅっと硬く握られていたあたしの拳は、肩透かしを食らって緩んでしまう。
「なんのために、お前を門下に入れてないと思ってる?」
「なんでって、それはあたしが一人前の芸人じゃないから――」
質問に答えながら、あたしはなんとなく察していた。
「お前、なにもわかってねえのな」
片手に提げていたバッグが床に落ちたことには、ガシャンという音を聞いてようやく気づいた。
たぶん、化粧道具のなにかが割れた音。
力の入らない拳が、勝手にプルプルと震えはじめる。
「……あたしを縛りつけるため、だったの?」
恐る恐る問いかける。
楽屋の門下生たちが、クスクス笑いはじめた。
目の前が真っ暗になるというのは、たぶんこのことだ。
やっぱりあたしはアホだ。なんで今まで気づかなかったんだろう。
屋号がなければ漫才師にはなれない。つまり、屋号のないあたしはセレンと組まなければ舞台に立つことができない。
それを利用して、あたしを縛りつけてたんだ。
セレンは煙草を燻らせながら続ける。
「カメレオンほどいい亜人特性を持った奴はなかなかいねえ。色は変わるわ、目はくりくり動くわ舌は伸びるわ、亜人の中でも希少種だから他のコンビに真似もされない。だからお前に好き勝手動かれちゃ困るんだよ」
拳が力む。シワが残っちゃいそうなほど眉間を狭くする。目の奥からジワリと熱が湧き上がってきた。
もし強引に解散なんてしたら、あたしは「大鍛冶屋を裏切った芸人」に仕立て上げられるかもしれない。そんな厄介な芸人はどこも受け入れてくれない。
つまり、解散すればあたしは〝干される〟のだ。
ぺたん、と背中を背後の壁につける。
「だったら――」
こんな亜人特性はいらなかった。名門になんて生まれたくなかった。純粋な努力だけで成長して、駆け上がって、汗水流して成功をつかみたかった。
あたしはセレンを睨み上げ、涙とツバを散らしながら叫ぶ。
「こんなのあたしの才能じゃない! あたしがやりたいことと全然違う!」
「上方は、努力で才能に勝てるなんていう美しい世界じゃねえ。結成九年目で観客動員数序列四十九位という好成績を出せてるのは、ひとえにお前の才能が認められてるからだ。わからないのか?」
「やめっ、放して!」
胸ぐらをつかまれる。片腕の力であたしの体は宙に浮いた。
セレンの太い腕を何度も叩くが、無愛想な表情は微塵も動かない。
「大人しく滑稽を演じろ。それがお前の才能だ」
「黙れ! あたしはそんなことしたくない! しないって決めたんだ!」
「じゃあ、そうだな……。あと三分で開演だ。出番までに面白い顔にしてやるよ。『いろは漫才新人賞』でも、いい顔をお披露目しないとな」
空いたセレンの手が、硬く握られた。
やだ。
顔はやめて――
咄嗟に両腕でセレンの拳を受け止める。重たい衝撃が肩まで駆け巡った。
あたしの体が床にこぼれる。激痛のあまりのたうち回る。
今度は蹴りが襲いかかってきた。あたしは体を丸めて必死に顔を守る。
蹴りの雨に罵声を返し続けるが、なにを叫んでいるのか自分でもわからない。
蹴りが止んだかと安堵した直後、また胸ぐらをつかまれた。
「立て」
無理やり立たされたあたしは、壁に背中を預けて、震える足で体重を支える。ジンジンと痛む腕は、もう重たくて上がらなかった。
「これで最後にするぞ佐奈南。お前は滑稽に徹しろ」
「……いやだ」
直後、セレンが大きく肘を引いた。
目をつぶり、歯を食いしばる。
――――……
……あれ?
「こんちは。二科志佑って者です。一戸佐奈南をもらいにきました」
目の前から男の声がした。セレンじゃない。
恐る恐る目を開ける。
目を疑った。
そこには、佐奈南より少しだけ大きな背中がある。シャツまで黒い黒スーツを身にまとい――セレンの拳を、細い脚で受け止めている。
驚くことに、目の前にいる男はあのときの強姦魔だった。
「いい蹴りだな。人間の分際で」
「『人間が亜人に喧嘩で勝てない』とかいう固定観念、持ってないんで」
楽屋がざわつきはじめた。知らんぷりしていた門下生たちがバラバラと席を立っていく。
「あいつ人間だぞ」「若旦那の拳を止めやがった……」「誰だよ、部外者通した奴」
「黙ってろ!」
セレンは背後でしゃべくる門下生たちを怒声で一蹴。
それから、拳を引っ込めて二科志佑を見下ろす。
「どけ。俺は相方を教育せにゃならん」
「嫌だ。一戸佐奈南っていうんだよな、お前の相方。大事にしないならもらうぞ」
「もらってどうする。そいつァ屋号を持たねえ無紋だ。舞台には立てねえ」
「屋号なら俺が持ってる」
二科志佑はスーツの内ポケットから三つ折りの紙を取り出した。
紙を大きく広げ、彼は淡々とした様子で言う。
「さっき演芸庁にいって登録してきた。『二科堂』。出来たての一門だけど、たぶん大鍛冶屋よりは上品な一門だぞ。紋章とか兎がぴょんぴょんしてて超癒やされる。ステッカーあるけどほしいか?」
紙と一緒に、手のひらサイズの丸いステッカーを取り出す。二科堂という一門のトレードマークだろう。二羽の兎が輪になっている。
もうこちらに注目していない門下生などいない。焦った様子で楽屋を飛び出す者もいた。
「どうやって屋号を手に入れた……」
セレンは眉根を狭め、イラ立ちを含んだ声でつぶやいた。
「亡くなったひいじいちゃんが上方堂シキっていうんだ。その証拠に、ひいじいちゃんが遺した封筒があったんだけど……ワケあって手元にない」
あたしは昨日見た黄ばんだ封筒のことを思い出す。
「上方堂だと? 二十年以上前に途絶えた一門のことか」
「そうだ。つーか、あの封筒があったらもっとスムーズに屋号が手に入ったんだけどな……」
チラリと振り返る二科志佑。あたしは咄嗟に目を逸らした。なんか責められてる……。
門下生たちが顔を見合わせて「上方堂ってあの上方堂か?」と声のボリュームを上げていく。
そうか。だからあいつのバッグの中に「上方堂シキ」と書いてある封筒があったのか。変な奴だとは思っていたが、まさか――漫才の父と呼ばれた人の血縁者だったなんて。
「……どうやって屋号を手に入れた?」
セレンが続けて問う。
そう、それだ。屋号を手に入れるには、漫才師に弟子入りしたことを演芸庁に届け出ないといけない。たとえこいつが上方堂の末裔でも、屋号が継承されていなければ弟子入りは必要不可欠。
人間である二科志佑を弟子にとってくれる漫才師がいたというのだろうか。
「上鳴座って知ってるか?」
志佑の問いに、セレンは肩をすくめる。
「バカにしてるのか? 上方参門屋号の一角、女流漫才の一門。常識だ」
「俺は昨日、上鳴座の劇場に『弟子にしてくれ』と頼み込みにいった。俺が上方堂シキのひ孫だって伝えたら、二つ返事で門下に入れてくれた」
だからあいつのバッグの中にあんな封筒が入っていたのか。あれは、自分が上方堂シキのひ孫であるという証拠だったのだ。
「……古い上方の芸人は、みんな上方堂シキに恩があると聞いたことがある。……そこに漬け込んだか」
「あぁ、漬け込ませてもらった。あとは無許可で一門を抜けて、『二科堂』っていう分派を作って今に至る」
楽屋中に、息を合わせたような仰天の声が上がった。驚愕に床が震える。
あたしも開いた口が塞がらなかった。
「テメェ……演芸の世界のタブーを知らないのか」
さすがのセレンも唖然と眉を歪ませている。
「さっき知った。勝手に分派を作ると、師匠への宣戦布告になるんだろ? 演芸庁の窓口で変な顔されたからググってみたけど、ありゃびっくりしたわ。まあ、後悔はしてないし、する予定もないけど」
「あの上鳴座一門に喧嘩を売ったんだぞ……どうでもいいことのために」
「どうでもよくない。なんのしがらみもなく一戸佐奈南とコンビを組むためには必要なことだった」
あたしは壁に寄りかかりながら、床に崩れてしまう。
なんだこいつ。なんだか、笑ってしまった。
「俺から佐奈南を奪えば、大鍛冶屋にも喧嘩を売ることになるぞ、二科堂」
「一戸佐奈南は俺に『漫才師になれる』と言ってくれた。今の俺にとってこれ以上の相方はいない。だから絶対に組みたい」
やっぱり、アホだこいつ。
笑いと同時に、涙が溢れる。
「夢は長くは続かない」
セレンが低い声で脅すように言うが、まったく怯まない。
「上鳴座の総座長の名前、上鳴座ライチョウだっけ? あいつはこう言ってたぞ」
二科志佑は腕を上げ、セレンの胸ぐらをつかむ。
「大看板の『上鳴座つばめ・つぐみ』ってコンビに俺が勝てたら、上鳴座は水に流してくれるってよ。大鍛冶屋一門は、あんたを潰せば許してくれるか?」
睨み返すセレン。
あたしはその目を見てぞっとした。
「その言葉、冗談として受け取らないが、いいか?」
「いいぞ。冗談じゃないし」
「頭が高ェんだよ人間ッ!」
怒鳴った直後、セレンは志佑の脳天に向かって頭突きを放つ。
ガツンという鈍い衝突音に思わず目を閉じる。
恐る恐る目を開ける。
驚くことに、まだ立っていた。首筋に血が滴っているのが見える。
彼はセレンを威嚇するように、絞り出すような声で言った。
「人間が亜人の飯を食えるワケがないって言われたけど、食えた。人間が亜人の身体能力に敵うワケがないって言われたけど、張り合えた」
「張り合えただァ?」
立て続けにセレンの神経を逆撫でする二科志佑。
それから、セレンの猛攻撃が二科志佑に降り注いだ。
圧倒的な体格差。目に見える質量差。なのに彼は怯まず、セレンの拳をすべて蹴りで迎撃していく。
冷蔵庫の扉がひとりでに開く。テーブルのペットボトルがゴトンと倒れる。局地的な地震が起こっていた。
一分ほどが経った頃、息を切らしたセレンが拳を止める。
二科志佑もまた、息を切らして脚を下ろした。せっかくの仕立ての良さそうな黒スーツは、ボロボロになっている。
「……ほらな、張り合えた。人間は漫才師になれないって言われても、なれるんだよ」
「……そんな非常識な真似してでもなりたいか、漫才師に」
「なりたい」
彼は即答し、フラついた体をなんとか足で立て直した。
「……芸名、もう一度聞くぞ」
「二科堂志佑」
「……大鍛冶屋セレンだ」
――セレンが人に名前を訊くなんて。
自分より格下の芸人にはいっさいの興味を示さなかったセレンが、いったいどういう風の吹き回しだ。
楽屋の隅に避難していた門下生が横槍を入れてきた。
「つまり野良芸人だろ? 野良がセレンさんに喧嘩を売るなんて、身の程を知れ!」「どうせ数分後には泣き喚いてる。野良がイキるな!」
セレンはやかましい門下生たちに振り返り、睨みつける。
「叩ける相手を見つけた途端に流暢だな、半人前」
騒いでいた門下生たちは急にしおらしくなった。
そのとき、楽屋の隅で固まっていた中から一人、こちらに向かって歩み寄ってくる者がいた。カタカタ、カタカタ、厚底の木下駄を鳴らす長身の大和撫子。
厚底を入れたら、背丈は2メートルはある。白地に赤い七宝柄が染められた着物を着ており、顔には不気味な般若の仮面をはめていた。
面の額には刀剣の刻印――大鍛冶屋紋が入っている。大鍛冶屋の門下生だ。
あたしはこんな奇妙な姿をした芸人の名を、知らない。
「半人前ほど他人の短所を粗探し。群れる弱者の性だ。ところでセレン。いい機会だ、私と組もう」
謎の女はセレンの肩に手を置いた。厚底を履いているとはいえ、セレンと肩の高さが並んでいることに驚きだ。セレンと比べれば細身で小柄な彼女だが、かなりでかい。
尻尾は棘のような鋭い鱗に覆われている。たぶん、セレンと同じ爬虫綱の凶暴種だ。
「誰だあんた」
乗せられた手を払い、般若の面に振り返るセレン。
「大鍛冶屋ウラン。大鍛冶屋ネオン門下の一年目だ。以前からネオン師匠に『腕のいい先輩を捕まえろ』と言われていてね。観客動員数序列は圏外だが、組んでみないかセレン」
「セレン〝さん〟だろ。ネオン姉貴のお気に入りだか知らんが、礼儀がなってねェ」
「コンビを組むなら呼び捨てでいいだろう」
超然とした態度で突っぱねるウラン。結成九年目のあたしでもこんな態度は取れない。
「つーかその仮面外せ」
「断る。どうしても外せない理由があるんだ。私の悲しい過去に関わる、のっぴきならない事情でね」
「……なんだそれ」
セレンの問いに、ウランは堂々たる態度で答える。
「ブスなんだ」
「………………………………」
「それよりセレン。この話の落としどころだ」
沈黙をごまかすかのような切り返しだったが、動じた様子はなかった。
「……それについては、考えてる」
セレンは言葉の通り、困ったように首の後ろを搔く。
落としどころ……?
二人がなんのことを話しているのか、あたしにはついていけない。
パチン、と手のひらを合わせるウラン。
「では私がこの場を預かろう」
するとセレンは渋々、数歩分だけ退く。
ウランと二科志佑が向かい合った。刺さっていた簪を抜き、ヘアゴムを外すと黒髪が滝のように下へ流れる。腰まで伸びた流麗な長髪だった。
なにか、するつもりだ。
般若の面で表情が見えない。あっけらかんとした声調は心根を隠すようだった。でも、なにかを起こしてやろうという意思だけはひしひしと感じる。
門下生たちが壁に追い込まれるように距離を取る。ウランから漂うオーラに怖気づいたのだろう。
「漫才は亜人によって栄えてきた芸能だ。二科堂志佑と言ったか? 人間が不利だと知っていながら、なぜ漫才師を志す?」
「笑わせたい人がいる、じゃ不足か?」
「結構」
くるり、と背を向けるウラン。仰々しく両腕を広げ、怯んでいる門下生たちに向かってウランは言った。
「ここにいる二科堂志佑という野良芸人は、我々大鍛冶屋一門と上鳴座一門を同時に敵に回した。よほど命を捨てたいらしい。そこで問おう二科堂志佑」
またくるり、今度は二科志佑に般若を向けるウラン。
「歯、食いしばれるか?」
謎の問いに、二科志佑はすべてを理解したとばかりに……
「俺はどこにも逃げない」
瞬間、ウランは脇を締めて肘を引き――二科志佑の腹に拳をぶち込んだ。
くの字に折れた体が、あたしの傍らの壁をぶち抜いて吹き飛んでいく。楽屋内の鏡にヒビが入ったり、棚や観葉植物が倒れたりするほどの衝撃だった。
今度はウランにどよめきが集まる。
「おい一年目。……人間相手にやりすぎだろ」
ウランはクスリと笑いながら、着物の帯を整えた。
「人間相手に? ――差別はやめなよ」