#5 佐奈南「屋号さえあれば」
――屋号さえあれば。
――屋号さえあれば、もっと可愛い姿で、もっと自分らしい姿で舞台を踏めるのに。
あたしは毎朝のように、悔やむ。
生まれる場所を間違えたことを、悔やむ。
あるいは、あたしの夢を笑わない相方でもいれば。
◆ ◆
本日の予定は、昼公演と夜公演が一回ずつ。
『大鍛冶屋第二劇場駅』から徒歩八分の場所にある『大鍛冶屋第二劇場』の前には、すでに人だかりができていた。百や二百はくだらない。ホール一つで収容人数は千を超える。今日も昼公演から半分近くは埋まるだろう。
昼公演は十二時半開場の十三時開演。平日の昼間からあれだけの人が並んでいるのは、今が春休みだからだろう。現に、列を作っているのは若いお客さんばかりだ。
あたしはマスクをつけたまま列の後ろを通過。裏手に回り、半開きのシャッターをくぐって裏口に入る。搬入口も兼ねた出演者用出入り口だ。
廊下の幅は広い。大型トラックが余裕で通れるほどの幅があるのは、大型の亜人ばかりが所属している大鍛冶屋一門ならではのことだろう。
白い床についた足あとの汚れを避けながら、あたしはヒールで廊下を歩む。コツコツという足音は、通り過ぎた楽屋からの、下品な男の笑い声で掻き消された。
「おはようございます、今日もよろしくお願いします。おはようございます」
すれ違った先輩方に頭を下げながら、あたしは廊下の最奥にあるお手洗いに入った。
洗面台にバッグを置き、鏡とにらめっこをするあたし。
化粧ポーチからメイク落としシートを二枚取り出し、肌を撫でるようにしてメイクを落とす。
――こんなの本当のあたしじゃない。
鏡を見ながら、心の中でそう嘆く。
相方からは、メイクをしたまま舞台に上がるなと言われている。理由はウケなくなるから。あたしたちが幼い頃から続けている芸風には、あたしのなりたい姿がミスマッチだった。
メイクを落とし終え、溜め息をつく。
これが、あたし――一戸佐奈南の出番前ルーティンだ。メイクを落としてトイレから出る瞬間は、やっぱり憂鬱だ。
「……ちょっとくらいなら」
バレない。
正直、ちょっと魔がさした。
あたしは携帯用の化粧水を取り出し、メイクの下準備をはじめた。
「落とせ。漫才ナメてんのか」
案の定だった。
大鍛冶屋第二劇場、中楽屋。
あたしは楽屋の隅っこにある観葉植物の影で、相方と向かい合っていた。
カメレオンの亜人であるあたしと彼が似ている点は「爬虫綱系」という部分だけ。他は正反対だ。
まず、2メートルを超える彼の体は存在感がすごい。首は丸太で殴られても折れなさそうな太さはある。甚平を着ていてもはっきりとわかる逆三角形の上半身で、肩幅はあたしの倍くらいある。ワニの亜人である彼の亜人特性は、亜人の中でもまた別格の筋力だ。
芸名は大鍛冶屋セレン。大鍛冶屋一門は、「上方参門屋号」と呼ばれるトップ3の名門の一角を担う、歴史と人気のある名門だ。
セレンは大鍛冶屋一門の師匠から屋号と芸風を継承している、正式な大鍛冶屋門下生。またそれも、あたしとは正反対――
「誰のおかげで漫才ができてると思う、佐奈南?」
頭上から野太い声が降り注ぐ。彼の強面を見上げるのが怖くて、あたしは肩幅を縮めながら苦し紛れの反論を床に落とした。
「……別に、ナメてなんかないし。あたしだって早く一人前になって、大鍛冶屋の門下生になるし」
あたしは屋号を持たず、本名で活動している。九年目になった今でも一人前だと認められておらず、門下に入れてもらえない。
「『いろは漫才新人賞』の決勝前なんだぞ。もっと気を引き締めろ。メイクしたお前なんて世間は求めてない。それを受け入れたら、きっと師匠方も弟子を取ってくれるかもしれない。わかってるな?」
無愛想な顔で問い詰められ、あたしはおずおずと頷いた。
致し方なくトイレに戻り、メイクを落としてから楽屋に入り直す。
漫才師になる条件は二つだ。屋号を手に入れるか、屋号を持っている芸人と組むか。
後者しか満たしていないあたしは、セレンがいなければ舞台を踏むことすら許されない。
――屋号さえあれば。
楽屋の椅子に座って背中を丸めながら、ぎゅっと拳を握る。
「セレンの若旦那。またなんかきてますよ」
楽屋のドアが小さく開き、トカゲの亜人が顔を出した。彼も大鍛冶屋門下生の一人で、芸歴はあたしより一年長い十年目だ。十二年目のセレンよりは後輩ということになる。
ドアが大きく開けられると、二人の男が楽屋に放り込まれた。
「またお前らか。帰れ」
あたしの向かいの席に腰かけているセレンは、放り込まれた男たちを一瞥。煙草をくわえながら冷たくあしらった。他の門下生も、部外者に興味がないとばかりに、スマホをいじったりテレビを観たりしている。
「「でも!」」
男たちの声が重なる。
あたしはなんとなく彼らの事情を察した。
――たぶん野良芸人ね。
野良芸人とは、どの名門にも入っていない芸人を指す。
「このまま売れずに終わるくらいなら、名門の大鍛冶屋一門に下った方が……」
「早速ボロが出たな。大鍛冶屋をナメてんのか?」
セレンが席を立つ。
瞬間、知らんぷりしていた大鍛冶屋門下生たちが、視線だけをセレンや野良芸人たちに向けはじめた。
セレンが肩と首の関節を回しはじめると、他の門下生たちは楽屋の隅に避難していく。
「あの、今のはその、違うっていうか……」
「俺ら、本当に大鍛冶屋の皆さんに憧れてい――」
二人はひどくおののいて、足の裏を引きずって後ずさる。
「どうせ、出演させてもらえるライブが少なくて困ってるんだろ? 一生フリーライブでくすぶってろ……ッ」
セレンは腕を大きく振りかぶって、男二人の首を太い腕の鞭で薙ぎ払った。
床を大きく転がって壁に衝突する二人。
数秒が経って、一人がもう一方の肩を貸して立ち上がる。
「……名門に下るしかない野良芸人の気持ちは、あんたらにはわからないだろうな」
去り際、そう残して楽屋を出ていった。
演芸の世界は、弱肉強食だ。
強者の座につく者は古くから決まっている。
上方では、上方参門屋号と呼ばれる「上鳴座」「大鍛冶屋」「神祭橋」が演芸業界を牛耳っている。
国内にある劇場のほとんどは名門が所有しているため、名門の門下ではない野良は出演するライブがなく食いっぱぐれる者が多い。今の男たちのように、食いっぱぐれそうになった者はプライドを捨てて名門に下るというケースが多い。名門による劇場の独占は、弱者を淘汰するにしては充分すぎたのだ。
――屋号さえあれば。
――屋号さえあれば、もっと可愛い姿で、もっと自分らしい姿で舞台を踏めるのに。
あたしは毎朝のように、悔やむ。
生まれる場所を間違えたことを、悔やむ。
あるいは、あたしの夢を笑わない相方でもいれば。