初対面
ジャンの心臓は今にも張り裂けそうだった。
ジャンが今いるのは、いつもと変わらない彼の家の食卓だ。
木のテーブルとこれまた木の椅子が並べられたそこには、人10人は余裕で食事ができる広さがある。
一般的な平民の家だ。
なぜ彼が人生史上最高に緊張しているか。それは、これから面会する人に原因があった。
これから彼が面会するのは彼の結婚相手候補、ルーである。
両親から教えられたため名前さえ知っているものの、会ったことはない。隣町に住む親戚だ。確か祖母のいとこの孫とかなんとか。
ジャンの両親がそろそろ息子の結婚を、と考えていた時、ルーの両親も娘の結婚相手を探していたところだった。そして両者の祖母たちの交流の中で話が合い、トントン拍子に話が進んだのだ。
この世界 ーいや彼の知る世界というべきかー では、両親が結婚相手を決めることは一般的である。
というのも、家族や親戚以外の男女が交流することがほとんどないため、結婚相手を探そうにもできないのである。
この世界に広く普及する宗教、アーヤムでは、婚姻関係以外にある男女は交わることは固く禁じられている。
聖典にそう書いてあるのだから仕方がない。
この「交わる」という表現の解釈にはいくつかの見識があるが、一般的には性的行為と解釈されている。
そしてこの宗教の大きな教えの1つ、それは「人間は弱いものである」というもの。
この2つの教えが影響しあい、婚外交渉が起きないためには、そもそも欲求に弱い人間である男女はむやみやたらと近づくべきではない、という解釈がなされたのである。
そのためこの世界ではある程度の年齢に達せば異性の友人を持つのはもちろん、恋人を持つことはもってのほかである。女性進出の進んだ都会ではその風潮が割と緩いとは聞いたが、ジャンが住むのは帝都から遠く離れた辺境の地。周りの目は厳しい。
そんなこんなで、ジャンは16になってまで、同年代の異性と会話したこれといった記憶がないのである。
とはいえジャンの国では成人は15歳。現在では経済の発展のため15歳を過ぎても教育課程に残る者は多いものの、一応ジャンも立派な大人である。
結婚は宗教上とても重要な意味を持ち、成人すればしろと聖典でも勧められている。
そこで持ち込まれた縁談話。離す手がない。
突然、ノックの音が部屋に響き、ジャンは飛び上がった。
控えめなノックの音だ。おそらくルーだろう。
「どうぞ」
ジャンはなんとか声を絞り出す。
「はい…」
鈴の音のような声がしたかと思えば、軋む音がし、ゆっくりとドアが開いた。
そして入ってくる少女は、全身を紺の布で覆っていた。
かろうじて床にすれない丈のスカートに、袖の開いた長袖。頭に巻いたスカーフで首元や髪を覆い、口や鼻も布で隠している。表に出るのは手と目元だけだ。
なんてことはない。これはこの地域で一般的な女性の服装である。
「万が一のこと」が起こらないようにする為、女性は美しいところを隠せという教えに従っている。
男性にも膝から上、肘から上は隠すようにという教えがある。
男性の方が制限が緩い、という意見には、女性の方が美しいから、または男性の方が自制心がないからだという答えがされる。
アーヤムでは女性が最大限に尊重される。例えば親孝行を説く時も、母親は父親以上に大事にするべきとされる。母の愛は海よりも深いのだと。
この慣習は、女性の尊厳を守るためでもあるのだ。
「あなたの上に平安ありますように」
ルーは手を胸に当て、頭を軽く下げた。
これがこの世界の挨拶である。
「…っ」
その優雅な動きに見惚れながらもジャンは立ち上がり、挨拶を返した。
「あなたの上にも平安ありますように」
今度は手を胸に当てた後、ルーの方に軽く差し伸べてから頭をさげる。
こちらも典型的な挨拶の返しである。
顔を上げると、心なしかルーが布の下で微笑んでいるように見えた。
「どうぞ」
ジャンは椅子に座るようにとルーを促した。
「感謝します」
ルーが座ったがいいが、ジャンは何を話せばいいかわからない。
心臓の音はルーにも聞こえているのではないかと思うほどうるさかった。
それはルーも同じようで、さっきから的外れな方向を見つめている。
「あの、ジャンです」
とりあえず自己紹介から始まるようだ。
「16歳。ユースフの二番目の息子です。もうすぐでガイナの大学校に入学します」
そう、ジャンは今年の春から遠く離れた街の学校に入学する。
大学校とまでなると地方にはなかなかない。特にジャンは優秀なため、離れた大きな街の大学校への入学を許可されていた。
息子が遠くへ行って帰ってこなくなる前に、ルーと結びつけておこうという両親の魂胆が見えるようだ。
「14歳、ニジェーラとハッサムの末娘です。村の中学校に通っています」
14歳は結婚適齢期にはまだ早い。しかし結婚が決まってもすぐ結婚する訳ではなく、婚約者という形になるため、14歳でお見合いをするのも別段珍しい話ではなかった。
「ジャンさんは…」
ルーが身を乗り出して話し始めたが、途中でジャンが遮った。
「呼び捨てでいいよ。敬語もやめない?」
「そう、ね」
ルーの口からホッと息が漏れる。やはり敬語は慣れなかったのだ。
「ジャンは本当に頭がいいのね。ガイナの大学校なんて」
褒めてもらうのは単純に嬉しかった。ジャンの頬は緩む。
「ヌタのお陰だ」
しかし謙虚に返した。ヌタとはアーヤムにおいての唯一神のこと。人は無力だ。何かを成し得るのもすべてヌタのお陰なのである。ルーはその返しに微笑むと、さらに尋ねた。
「大学校を出た後は何か考えているの?」
ルーは可愛らしく首をかしげる。
「そうだな…ここの村の行政をやりたいと思ってる」
「まあ」
ルーは目を丸く見開いた。その黒曜石のような瞳には誰でも吸い込まれそうになる。
ジャンは慌てて目を逸らした。年頃の少女と目を合わせるのは、初めてだった。
「ルーは、何か夢があるのか?」
ジャンがそう尋ね返すと、ルーの目は輝いた。
「私、助産師になりたいの」
アーヤムの教えに従い体の露出を抑えてきたからか、この世界の女性には異性に体を見せないことが徹底されている。体を扱う医療行為なども、よっぽどのことがなければすべて同性どうしで行われる。従ってあまり女性が外へ出て働くことのないここでも、女医や女性の助産師は多くいる。
「そうかそうか。いい夢だな」
ジャンもその薄茶色の目を細める。生命の誕生に携われるその仕事は、とても夢がある。
「だから16になったら、ジャンと同じように大学校に行きたいのだけれど…」
ルーは不安そうに語尾をすぼめる。
「あなたは私が卒業するまで待っていてくれる?」
結婚のことだ。ジャンはルーの言いたいことがわかった。
ジャンは少し面食らった。それはまるでルーが待ってほしいみたいだったから。
ジャンは何故だか、この少女のためならいくらでも待てる気がした。
「もちろん。っとその前に、まだ結婚は決まった訳じゃないぞ」
ジャンが慌てて付け加えると、ルーはふふふと笑った。
「あら、私ではダメ?」
いたずらっぽくジャンの目を覗き込む。
「ダメって訳じゃないけど、ほら、俺たちお互いのことまだ知らないからさ。ここは慎重にいくんだ」
目を泳がすジャン。
この可憐な少女と結婚だなんて、想像しただけで顔から火が出そうだった。
本当に女子に免疫がないのである。
「なら、結婚相手に求める条件でも教え合いましょうか?それが効率的よ」
「そうだな」
効率という言葉はとても好きだ。ジャンは素直に従った。
「まず、何歳までに結婚したいのかしら?」
「俺は特にこだわらないな」
本当の話だ。アーヤムで勧められているので、いつかはしたいとは思っているが、特に急いではなかった。
しかし、この世界にアーヤムを広めた預言者様達御一行の内ひとりは、「この世界はヌタからの祝福であり、その中でも妻は最大の祝福だ」と言ったそうだ。愛とはなんなのか、結婚とは何か、興味が無い訳ではなかった。
「あらじゃあ100歳まで待てる?」
「んな訳あるかい」
ジャンがツッコむとまたルーはふふふと笑った。
この天真爛漫な少女は、いまいちペースが乱してくる。ジャンは困ったように鼻の頭をかいた。
「私は30歳までね。子供が欲しいの」
「なるほど」
子供は女性が若い程授かりやすいと聞く。確かに30歳までがいいだろう。アーヤムにおいて子どもは宝、ヌタからの贈り物だ。結婚が勧められているのは、人類の繁栄のためでもある。
「しかしみんな20までには結婚しているだろう。周りの目とか気にならないのかい?」
「あら、皆のことなんて気にしないわ。ヌタが認めてくださればそれでいいの」
ジャンの胸は高鳴った。ルーを待っている時とは違う、心地よい鼓動だった。
「そうだな」
ルーのことをもっと知りたい、そう思った。
「子供は何人欲しいんだ」
…しまった。ジャンは尋ねたあとに自分が失態を犯してしまったことに気が付く。
これではまるで2人で子供を作ろうとしているみたいではないか。
ルーを不快にさせてしまったかもしれない。
最悪の事態を想像したのか、ジャンの顔から血の気が引いた。
「そうね…」
しかし予想外なことにルーは全く動じていない。
ジャンはど肝を抜いた。ほっとしながら、ルーの答えを待つ。
「5人とか…かしら?」
まあ常識的な数だ。むしろ少ないくらい。ジャンは7人兄弟で、母は今8人目を身籠っている。
「あまりたくさんいても育て切れるか不安だし…ってジャン?顔が真っ赤よ」
ジャンの顔を見たルーは不思議そうに言った。何か良からぬことでも想像したのか、ジャンの顔は熟れたリンゴのように赤かった。
「だって恥ずかしいから…初対面なのに」
まあ、とルーが声を上げる。
「結婚するかどうかがここで決まるの。そんなこと気にしちゃいられないわ」
結婚、という単語を聞いてジャンは耳まで真っ赤になる。
それを見てルーはあらあらと微笑んだ。
「君はとても肝が座ってる」
いたたまれなくなったジャンは、気がつくと口走っていた。
長い睫毛に縁取られたルーの瞳が目に入る。
まだ幼さが残るがその目は清らかで、布の上から微かに見られる顔の造形は美しかった。
布の内側では、ルーが顔を赤らめている気がした。
「私よく、女の子らしくおしとやかになさいって言われるのよね。中学校でもそうよ。婚約者がいる女の子はみーんなおしとやかで、男の人を立てる術を知っているような子なの」
ルーの睫毛はふるふると震えていた。
ジャンはうろたえた。弟や妹の慰め方なら知っていても、家族以外の女性とは接したことがない。
「まっ、いいんだけどね!」
「いいんかい」
ジャンは思わず突っ込む。
彼の心配とはよそにルーは朗らかに笑んだ。
「いいのよ。だって私が一番敬うのはヌタであって、夫じゃないわ。夫は持ち上げるための人ではなく、2人で高め合って天国へと近付くための存在」
アーヤムでは天国が信じられていた。天国へ行くためにはアーヤムの教えを守り、正しい道を歩まなければならない。結婚は、夫婦が2人で助け合い、高め合って正しい道を進むための制度だ。ヌタは全ての男女を対に作り、この世界に生誕させたという。
ああ、やっぱりこの人は…
「にいたん!」
ジャンの思考は横からの幼い声により遮られた。
「どうしたんだい、ルカ」
入り口からこちらを覗き込むのはジャンの1歳の弟、ルカだった。
入り口のドアは、ルーが入ってきてから開けっ放しだった。男女が1つの部屋に入るのはあまりよろしくないと判断したジャンが、入ってきたルーに閉めなくても良いと指示したのだった。
「にいたん!」
ルカは小さな片方の腕をいっぱいに伸ばし、ジャンを指差している。
もっとも、手がまだ器用ではないのでかろうじて人差し指が他の指より伸びているだけだが。
兄を見つけて喜んでいるようだ。
「まったく」
やれやれというように笑うと、ジャンは入り口へと向かった。
しかしその目は愛おしいというように優しく弟に向けられていた。
「ルカ、ユーナスたちはどうしたんだ?」
ジャンは、ルカを見ているようにと言われていたはずの弟たちの名前を出す。
「ユーナス兄はねー、遊んでる!」
「はあ…」
ジャンは困ったように頭を掻くと、ルーの方を見た。
「ちょっとこの子も一緒でもいい?」
「もちろん」
ルーは快諾する。むしろルーは末娘で、妹や弟を持たないため大歓迎だった。
「とっても可愛い子ね!」
ジャンがルカを抱え、元の椅子に座ると、ルーの美しい顔が前に乗り出す。
同時にルカがジャンの胸へと顔を寄せた。
「にいた…」
ルカは不安そうに兄を見上げる。
「この人はルーだ。お客さんだよ。挨拶してごらん?」
「はーい」
あまり乗り気ではなさそうだが返事だけはいい。
「あなたの上に平安ありますように!」
ルカは義務のようにルーの顔を見て言い切ると、すぐにジャンの胸に顔を埋めた。
「あなたの上にこそ平安ありますように」
ルーはルカの素っ気無さを特に何か思う様子もなく、穏やかに頭を下げる。
黒の瞳は、母性にあふれていた。
「よくできたな、ルーシュヌタ」
ルカを撫でるジャンの手はどこまでも優しい。
ルーシュヌタ、とは「神が望んだ」という意味の言葉で、人を褒める時などに使われる言葉だった。
「この子は?」
ルーはルカの事を聞くために顔を上げるが、すぐに固まった。
思った以上にジャンの顔が近かったのだ。
「ごめんなさい」
「なにも問題ないよ」
そんなこと、とジャンは笑いかける。
ルーは急いで椅子を引きジャンから離れると、手でパタパタと顔を仰いだ。
「この子はうちの7番目の子供、ルカだよ。もうすぐ2歳になる」
ルカは末っ子だが、もうすぐ兄となる。末っ子で居られるうちに存分可愛がってやろうとジャンは思っていた。
「ルカというのね、いい名ね。ルーシュヌタ」
ルカとは預言者様御一行の内1人からあやかり付けられた名だ。
「ありがとう」
ジャンはニコリと微笑むと、アジャンタと付け足した。
アジャンタ、は「神の恵みがありますように」という意味の言葉である。お礼を言う時に使われる。
「あら、今気付いたのだけれど、ルーシュヌタには私の名、アジャンタにはあなたの名前があるのね」
「ほんとだ。褒める時のルーシュヌタ、礼を言う時のアジャンタ」
その瞬間、ジャンの脳内で、古くおぼろげな記憶が再生された。




