一夜が明けて
翌朝、有馬慎吾がやっと浅い眠りに入った頃、彼の泊まる十八号コテージの玄関のドアからドンドンという鈍い音が聞こえた。
「おい、慎吾。いるんだろ。ここを開けろ」
有馬慎吾が眠い目をこすりながら玄関を開けると、権藤一郎が立っていた。
「親父か。俺がここにいるの、どうしてわかった?」
「慎吾。昨日、高坂早苗とずいぶんと話し込んでいたそうじゃないか。帰りには、仲良く一緒にラーメンを食ったりして……」
権藤一郎は、驚く有馬慎吾に見向きもせず、ずかずかと部屋の中に入り、ソファに座り込んだ。さすがは刑事である。高坂早苗に会ったことをもう調べ上げている。
「尾行していたのか?」
「長野県警が高坂早苗を張っていたら、物凄く怪しい男と接触したという情報が入ったんだ。その男の写真を見せてもらったら、案の定、おまえだった。家でじっとしているとは思ってなかったが、しかし高坂早苗とラーメンを食っているとは……、びっくりしたぞ」
権藤一郎は、呆れ果てたと言わんばかりの顔で笑っている。
「慎吾。朝飯は食ったか? 良かったら今から食いに行かんか?」
権藤一郎は「慎吾の顔を見たら、急に腹がへってきた」と言い出した。朝食を取らずに、慌ててやって来たようである。
「ちょうどいい。俺も親父に聞きたいことがあるんだ」
有馬慎吾は権藤一郎を電動カートに乗せ、本館二階のレストランに向かった。途中、本館の受付の前を通ったが、高坂早苗の姿は見えなかった。
「なあ、親父。これを見てくれ」
有馬慎吾は権藤一郎に一枚の紙を手渡した。高坂早苗の話をまとめたものである。
『君原流星誘拐事件の概要』
一月六日
午後四時過ぎ 君原流星、誘拐される。
一時間後に犯人から連絡があり、一億円を要求。
君原真紀、警察に通報する。
午後九時三十分 犯人から二回目の電話。
一月七日
午前十一時過ぎ 銀行から現金一億円が運び込まれる。
午後三時三十分 犯人から三回目の電話。
君原真紀、一億円を持って家を出る。
午後五時十五分 君原真紀、ホテルサンロイヤルに到着。
午後五時四十分 君原真紀、ホテルサンロイヤルを出る。
立花清美と朽木啓介の二人の刑事が追尾。
午後六時頃 捜査本部、君原真紀がホテルを出たことに気付く。
午後六時二十三分 君原真紀、ホテルペルージュに到着。
午後六時二十七分 君原真紀、十四号コテージに向かう。
午後六時二十九分 立花清美と朽木啓介、二十号コテージに向かう。
午後六時三十四分 立花清美と朽木啓介、二十号コテージに到着。
午後六時三十六分 秋里署の刑事四名がホテルペルージュに到着。
ホテル南側を走る県道に向かう。
午後六時四十分 君原真紀、十四号コテージに到着。
身代金をコテージに置く。
午後六時四十七分 秋里署の刑事四人がホテル南側を走る県道に到着。
午後六時五十分 君原真紀、本館に戻る。
午後七時頃 県道にいた刑事が山林に足跡を発見。
十四号コテージを見に行くと身代金はなく、
コテージの勝手口が開いていた。
午後七時十分 警察がホテルを封鎖。(防犯カメラの映像より)
午後七時以降 保前正樹がホテルから姿を消していることを見つける。
一月八日
早朝 岐阜県木曽川支流の河原で重傷の少年が発見される。
横には母親の遺体あり。
一月十二日
朝 保前正樹の遺体が賀谷地区の山荘から発見される。
山荘は密室状態。
「これは……、十五年前の誘拐事件をまとめたものだな。この事件のことを高坂早苗から聞いていたのか?」
「警察は保前正樹という男を被疑者として特定したが、彼以外にも犯行が可能なことを証明してくれって頼まれたんだ。親父、この事件のことをどうして言ってくれなかった?」
有馬慎吾が詰め寄ると、権藤一郎は急に声のトーンを落として、すまなさそうに言った。
「別に隠していたわけじゃあない。事件の後、長野県警の刑事と君原真紀が病院にやって来たのは、確かだ。しかし、君原真紀が完璧に否定したんだ。この子は流星ではないと……」
母親が完璧に否定しているのに、有馬慎吾にそのことを知らせるのは酷だと思ったと権藤一郎は語った。
「慎吾。高坂早苗はこの事件で被疑者死亡のまま送検された保前正樹の娘だ。かつての名前は保前美咲、今は名前が変わっているが、それは間違いない。彼女の狙いは何だ?」
「狙い? 単純に父親の無実を証明したいということだけだろう。彼女はその証拠も持っていたが、警察が聞いてくれなかったと言っていたぞ」
「本当にそれだけなら良いんだが……。高坂早苗には三歳違いの兄がいるんだが、その男の行方がわからなくなっている。おまえ、高坂早苗から何か聞いていないか?」
「兄貴? そう言えば、そんなことも言っていたな。名前は何て言うんだ?」
「片瀬正平だ。事件の後、家族三人はばらばらに引き裂かれたようでなあ。母親の保前春子は名前を旧姓の山本春子に戻し、今も東京で一人ひっそりと暮らしている。子供は二人とも下の名前を変えて、しばらくは母親と一緒に暮らしていたが、事件の四年後に別々の身内に引き取られて、姓も変えている。片瀬正平の元の名前は保前雅也、その行方が一年前からわからないそうなんだ。何か仕出かしてなければ良いんだが……」
有馬慎吾の頭の中に、昨夜バー・モレロで見た不愛想な男の顔が浮かんだ。年恰好がぴったりと当てはまる。あの二人は実は兄妹で、父親の冤罪を晴らすために二人で十五年前の誘拐事件の真相を調べているのだろうか? それとも何か別の思惑があるのだろうか? 有馬慎吾にはよくわからなかった。
「親父。ここに書いてあることに間違いがないか、それを調べてくれないか?」
有馬慎吾は自分がまとめた資料を指差しながら、権藤一郎にチェックを頼んだ。
「その事件なら俺も長野県警の朽木警部補から詳しい話を聞いたし、捜査資料にも目を通した。手帳に書き写しているから、すぐに調べる。ちょっと待ってくれ」
権藤一郎は手帳を見ながら、資料に記載された内容と照合した。少し時間を掛けて丹念に調べている。十分ほど時間が流れた頃……。
「慎吾、間違いない。ここに書いてある通りだ。時間も正確だ」
権藤一郎は、はっきりと言い切った。
「親父。悪いが、もう一つ確認して欲しいものがあるんだ」
有馬慎吾は、別の資料を権藤一郎に手渡した。今度は三枚組の資料である。身代金の受け渡しのあった一月七日の宿泊者と従業員の居場所別リストである。
「事件のあった日にホテルペルージュに宿泊した客は、全部で二十五人だ。その全員が本館でチェックインした後、いったんコテージの森に入ったことが、防犯カメラの映像で確認出来た。その二十五名のその後の行動は三パターンある」
「慎吾、これを防犯カメラの映像から調べたのか?」
「ああ、昨日は徹夜だ。苦労したぞ」
有馬慎吾の言うパターンとは、①いったんコテージの森に入った後、ホテルの外に出て、身代金受け渡し時にはホテル内にいなかった者、②コテージの森から再び本館に入り、身代金受け渡し時には本館にいたと思われる者、③コテージの森に入ったまま出て来なかった者、すなわち身代金受け渡し時にはコテージの森にいたと思われる者、この三パターンである。有馬慎吾は、高坂早苗から渡された宿泊者リストに記載されたチェックイン時間と防犯カメラの映像から、二十五名の顔と名前を割り出し、その全員の行動を防犯カメラの映像で追跡したのだ。
高坂早苗から渡された資料には、その日の夜、ホテルペルージュで働いていた従業員のリストも入っていた。人数は十二名である。
ホテルペルージュの本館の西側部分は従業員スペースとなっており、そのスペースの北側と南側に従業員通用口が設けられている。北側は外部との出入りのための通用口、南側はコテージの森との出入りのための通用口であり、そのいずれにも防犯カメラが設置されている。有馬慎吾は、この二つの防犯カメラの映像を使って従業員の動きも追跡したが、その結果、十二名の従業員は、全員が本館内にいたことがわかった。正確に言えば、本館内にいたのではなく、本館に入った後、本館から出た形跡がないことを防犯カメラの映像で確認したのである。なお、前日の一月六日からの連泊者はおらず、一月六日の宿泊者は、全員が一月七日の午前中にチェックアウトしていることも確認した。
「これを一晩でやるとは……」
権藤一郎はやれやれという顔で資料を眺めた。三枚目をめくった時である。
「これは……」と言いながら、権藤一郎が顔を上げて、有馬慎吾を見た。その資料の三枚目には、身代金受け渡し時にコテージの森にいた八人の宿泊者名が記載されていたが、その中に、権藤一郎もよく知っている二人の人物の名前が書かれていたのである。
保前正樹 四十三歳 午後四時十七分 十六号
早川真理子三十一歳 午後五時四十五分 十八号
「早川真理子? 保前正樹はともかく、早川真理子も身代金の受け渡しがあった時、コテージの森にいたのか……」
「そこに書いてある時間はチェックイン時間、数字はコテージ番号だ。早川真理子もあの日、宿泊客として、十八号コテージに泊まっていたようだな」
それがどのような意味を持つのか、有馬慎吾にはよくわからない。しかし先日、マンション・セントレジデンスで殺害された早川真理子が、十五年前の君原流星誘拐事件にも登場するのだ。
権藤一郎は何かをしきりと考えている。やがて……。
「慎吾。この事件は、保前正樹を犯人と考えると、確かに不可解な点がいくつかある」
保前正樹を被疑者と断定するのは危険だと言った。
理由の一つは、十四号コテージの合鍵についてである。保前正樹はどうやって合鍵を手に入れたのか、実は長野県警もそれがまだわかっていないのだ。
「ホテルペルージュの鍵は、特定のメーカに特注で作らせていて、街の錠前屋に頼んでも合鍵は作ってくれない。仮に作ってくれる非合法の錠前屋がいても、現物を目の前にして丸二日は掛かると朽木警部補は言っていた」
ホテルペルージュでは一日三回、予備も含めて鍵のチェックを厳しくやっている。しかし、丸二日も鍵が受付に戻ってこなかったことは、一度もないとのことである。
また、事件の後すぐに、ホテルペルージュの鍵は、保前正樹が泊まっていた十六号コテージの鍵を除いて、予備も含めて全て正しくそろっていることを長野県警が確認している。全ての鍵を使って、実際のコテージで施錠と解錠を行ったのである。保前正樹は、どうやって十四号コテージに入ったのだろう? それがまだわかっていないのである。
「賀谷地区の山荘も同じだ。山荘の所有者も管理人の山路玄太も、鍵を人に渡したことはないと言っている。保前正樹はどうやって賀谷地区の山荘の合鍵を手に入れたのか、それもわかっていない」
権藤一郎の言う二つ目の不可解な点とは、ホテルペルージュから抜け出した後の、賀谷地区の山荘までの足である。保前正樹は、車ではなく電車で秋里まで来ている。チェックイン後、レンタカーやタクシーを使った形跡はなく、彼には賀谷地区の山荘まで行く足がないのである。どうやって賀谷地区の山荘に向かったのか? それにも答えが出ていないと権藤一郎は言った。
「もし裁判が開かれていたら、保前正樹は完全に無罪だな」
有馬慎吾は、高坂早苗の悔しい気持ちがよく理解出来た。保前正樹は、決して裁判で有罪になったわけではない。被疑者死亡のまま送検され、裁判は開かれていないのである。しかし世間は許してはくれなかっただろう。送検された段階で保前正樹の名前は公表され、残された家族は、情け容赦なく、社会の好奇と憎悪の目に晒されたに違いない。
三人の親子が、その後どのような人生を送ったのかはよくわからない。しかし母親の山本春子が、今後も続く嫌がらせの矛先から二人の子供を遠ざけようとしたことは、容易に想像出来る。子供の名前を変え、三人がばらばらに生きていく人生を選択したのだ。二人の子供は過去を消されてしまった。それは有馬慎吾と同じであった。
「親父。確かめたいことがあるんだ。今から、俺に少し付き合ってくれないか?」
「今日は昼から朽木さんと会う約束があるんだ。それまでなら大丈夫だが……」
「午前中でオーケーだ。すぐに終わる」
二人はいったん、十八号コテージに戻ることにした。