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流れ星の見える夜  作者: 長栄堂
第一章 雪のペルージュ
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君原流星誘拐事件

「十五年前の一月六日、松本市に住む君原流星君という小学五年生の男の子が誘拐されたの。君原真紀さんという女性の一人息子よ」

 前々日からその日の午前中にかけて大雪が降り、松本市が全面、雪で覆われた寒い日のことであった。午後になって雪が止み、除雪作業が行われて、幹線道路がほぼ正常な交通を取り戻した頃である。

「夕方、確か午後四時頃だったと思いますが、息子は近くのコンビニにノートを買いに行くと言って出掛けました。家の前の道はまだ完全に除雪が終わっていなかったので、気をつけてねと言って送り出しましたが、それが息子を見た最後になってしまって……」

 君原真紀の供述である。

 君原流星が家を出て一時間後に犯人から自宅に電話があり、息子を返して欲しければ一億円を用意しろと伝えてきた。君原真紀はすぐに警察に通報している。

 二回目の電話があったのは、その日の午後九時三十分。この時、犯人は君原流星の声を君原真紀に聞かせている。君原真紀が、金を用意するのに明日の午前中いっぱい掛かると告げると、では明日の午後にまた連絡すると言って電話は切れた。

 翌日、午前十一時過ぎに、銀行から君原真紀の自宅に現金一億円が運び込まれた。

「二年前に夫の君原隆司を病気で亡くしましてね。夫が経営していた会社を、先日、売却したものですから……」

 身代金にはその売却金の一部を充てたと君原真紀は言った。

 犯人から三回目の電話があったのは、一月七日の午後三時三十分である。君原真紀が金を用意したと告げると、それを鞄に詰めて車で家を出ろと言ってきた。君原真紀は警察が用意した隠しマイクを装着し、GPSがセットされた小型のキャリーバッグに現金を詰めて家を出た。この後の犯人とのやり取りは、君原真紀の携帯を通じて行われている。

 犯人は君原真紀に松本市内をぐるぐると廻らせたが、最終的に、松本市郊外にあるホテルサンロイヤルに向かうよう指示をしてきた。君原真紀がホテルに到着したのは、午後五時十五分である。

「ホテルに着くと、私の名前で予約している部屋に入れという指示が、携帯に入ってきました。フロントに行くと、六階の六一七号室が予約されていると係の人に告げられました」

 君原真紀は言われた通りにした。

 犯人と君原真紀の会話は、隠しマイクを通じて警察にも入っている。従業員や宿泊客を装った長野県警の捜査員が、ホテルの周辺と六一七号室を見張った。

「ここで君原真紀さんは、警察が思ってもいなかった行動に出たの」

 君原真紀は、犯人が用意したリュックに身代金を積み替え、さらに犯人が用意した登山服に着替えて、六一七号室とは違う部屋から出て来たのだ。もちろん犯人の指示によるものである。自宅を出た時、彼女はグレーのスーツにベージュのコートを着ていた。その女性が、赤のダウンのアウターとグレーの綿入りズボンを身に着け、登山靴を履いて出て来たのだ。しかも入った部屋とは別の部屋からである。

 一億円の身代金が入った黒のキャリーバッグは、赤いリュックに変わっている。それにニットの帽子をかぶり、サングラスを掛けて違う部屋から出て来られたのでは、警察もたまったものではない。ホテルサンロイヤルに詰めていた捜査員は、ほぼ全員、君原真紀がホテルから抜け出したことに気が付かなかった。

「でもね、この時、君原真紀さんがホテルサンロイヤルから抜け出したことに気付いた刑事が、一人だけいた」

 ホテルの裏口を張っていた長野県警・松本南署の立花清美という女性刑事である。彼女は、すぐ目の前を通り掛かった登山服姿の女性を見て、君原真紀に間違いないと見抜いたのである。立花清美は捜査本部の指示を無視して、君原真紀を尾行した。

 立花清美から報告を受けた捜査本部は混乱した。君原真紀は六一七号室に入ったまま出て来ない。ホテルのベランダから身代金の受け渡しを行った気配もない。君原真紀に持たせたGPSは、まだ六一七号室に彼女がいることを示している。立花清美にいくら言っても、彼女が持ち場に戻る様子はない。仕方がないので、同じ松本南署の先輩刑事である朽木啓介を立花清美に同行させた。

 君原真紀は、犯人が用意した携帯で指示を受けながら、ホテルサンロイヤルからタクシーに乗り、秋里市に向かった。

「タクシーの中ですか? 赤いリュックを膝に抱え、何度も中に一億円の現金が入っていることを確認しました。しばらくして犯人から電話があり、ホテルペルージュに向かえという指示がありました」

 犯人から電話があったのは、秋里市の市街地を通り抜けた頃。君原真紀がホテルペルージュに到着したのは、午後六時二十三分である。

 捜査本部が自分たちの間違いに気付いたのは、君原真紀が秋里市の市街地に入った頃である。君原真紀が入った六一七号室に動きがないことを不審に思った捜査本部は、捜査員の一人に従業員を装って部屋の中に入らせた。部屋には君原真紀の姿はなく、君原真紀に持たせた隠しマイクが、電源が切られた状態でテーブルの上に置かれていた。その横にはGPSと君原真紀の携帯があった。それを聞いて捜査本部は、君原真紀が何らかの方法で部屋を抜け出したことに、初めて気が付いたのである。

 この時、君原真紀の後を追っていたのは、立花清美と朽木啓介の二人だけである。捜査本部は至急、秋里市に捜査員を向かわせたが、到着には少し時間が掛かる。立花清美と朽木啓介は、二人だけで君原真紀を追尾した。


 高坂早苗がここで少し時間をおくと、店のマスターがグラスを二つ、二人の前に置き、「喉が渇いただろ。少し休め」と言ってビールを注いでくれた。

「少し、聞いても良いか?」

 ここまでの話で少し気になる点がある。有馬慎吾が問い掛けると、高坂早苗は「なに?」と言って、有馬慎吾に顔を向けた。

「君原真紀がホテルサンロイヤルを抜け出したことに、警察が気付いたのは何時だ?」

「午後六時頃よ。君原真紀さんがホテルサンロイヤルを抜け出したのが、午後五時四十分だから、その二十分後ね」

「君原真紀がホテルサンロイヤルに入ったのは、午後五時十五分。と言うことは、警察は四十五分間も、ホテルサンロイヤルで君原真紀が出て来るのを待っていたのか?」

「そうみたいね」

 高坂早苗は、まるで他人事のようにあっさりと切り捨てた。

「それともう一つ。君原真紀は入った部屋とは違う部屋から出て来たって言ったけど、どうやったら違う部屋から出られるのだ?」

「ああ、そのことね。あのホテルは、元はリゾートマンションで、テラスにはセントレジデンスと同じように非常用の避難ばしごが付いていてね、ハッチを開けて縄ばしごを垂らせば、下の階に降りられるのよ」

「それを開けて下に降りたのか?」

「そう。普段は使えないようにプラスチックカバーを被せているんだけど、君原真紀さんは、それを破って一階下の五一七号室に降りたの。六一七号室のドアの前に、それを指示するメモが貼り付けてあったみたいね」

「と言うことは……」

「君原真紀さんは、六一七号室に自分の携帯と隠しマイク、それにキャリーバッグに仕掛けたGPSを置いて、それから、キャリーバッグを持って五一七号室に降りたのよ。そこで身代金を赤いリュックに積み替えて、自分も部屋に用意された服に着替えたの」

 五一七号室の寝室には、彼女が着ていたコートとスーツが脱ぎ捨てられ、彼女が持って来たキャリーバッグは、空の状態でリビングに置いてあったらしい。

「犯人は五一七号室に、事前にチェックインしていたのか……。顔はわからないのか?」

 高坂早苗は首を横に振った。五一七号室にチェックインした人物は、フロントとエレベーターの防犯カメラにその姿が映っているが、帽子をかぶっていて顔は見えない。わかるのは、海外旅行にでも行くような、大きなキャリーケースを転がした男だということだけだ。当然、名前も住所もでたらめである。

「犯人はここで身代金を奪おうと思えば奪えたんだが……。なぜ奪わなかったんだろう?」

「この犯人の狙いは、お金じゃないのよ。それは、話の続きを聞けば、すぐにわかるから……」

 高坂早苗はそう言って、また話しの続きを始めた。


 君原真紀がホテルペルージュに着くと、犯人から最後の指示があった。

「十四号コテージを私の名前で予約しているので、フロントで鍵を受け取り、外周道路を歩いてコテージまで行け。そしてコテージに入ったら、そこに金の入ったリュックと犯人から渡された携帯を置き、おまえはフロントで待機しろと言われました。私は指示に従うしかありませんでした」

 君原真紀は、後ほど、このように述べている。

 君原真紀の後を追って来た立花清美と朽木啓介がホテルペルージュに入ると、君原真紀はまだフロントにおり、二人の刑事に「私のあとをついて来ないで……」と言った。

 君原真紀が立ち去った後、立花清美と朽木啓介がフロントの受付係に聞くと、君原真紀は十四号コテージに向かったと言う。また二十号コテージであれば、コテージの窓から十四号コテージを見通すことが出来るとも言われた。十四号コテージは、十八号コテージよりさらに奥の、コテージの森の最南端に位置している。二人の刑事はホテルの電動カートを借りて、君原真紀とは別の道を通って、二十号コテージに向かうことにした。

 君原真紀は、一億円の入った重いリュックを背負って、外周道路を反時計回りに歩いて行く。立花清美と朽木啓介は、犯人には気付かれないようカップルを装って、電動カートをゆっくりと走らせた。立花清美と朽木啓介は、「小径には途中、雪が積もっている個所があって、二十号コテージに着くのに五分ほど掛かった」と言っている。

 君原真紀が十四号コテージに向かったのは、午後六時二十七分、立花清美と朽木啓介が電動カートで二十号コテージに向かったのは、午後六時二十九分、二十号コテージに到着したのは、午後六時三十四分である。

 なお、君原流星が誘拐された一月六日の昼頃にいったん降り止んだ雪は、その日の夜にまた降り出したが、翌一月七日の午前中には止んでいる。

「十四号コテージに向かって外周道路を歩いている時、頭の上には星空が広がり、流れ星がいくつも見えました」

 君原真紀は後ほど、泣きながらこう供述している。

 立花清美と朽木啓介が二十号コテージに入ると、しばらくして、君原真紀が十四号コテージにやって来るのが見えた。十四号コテージの錠を開けて中に入り、すぐに出て来たが、この時、君原真紀はそれまで担いでいた赤いリュックを持っていなかった。立花清美と朽木啓介は、十四号コテージに身代金を置いてきたと理解した。

「十四号コテージは施錠されていたので、持っていた鍵でそれを開け、犯人の指示通り、中に赤いリュックと犯人から渡された携帯を置きました。その後、私はすぐにまた歩いて本館に戻り、鍵をフロントに返却しました」

 君原真紀はまた、「玄関の錠ですか? ええ、施錠せずに本館に戻りました。そういう指示だったものですから……」とも供述している。君原真紀が十四号コテージに入ったのは、本館を出て十三分が経った午後六時四十分、本館に戻ったのは、午後六時五十分である。

 なお、午後六時三十六分には、刑事四人を乗せた秋里署の車両二台がホテルペルージュに到着し、すぐにホテルの南側を走る県道に向かっている。ホテルペルージュの東西両側は険しい崖となっているが、十四号コテージの南側に広がる山林は傾斜も緩やかで、先には県道が走っている。犯人が本館を通らずに身代金を持って逃げるとすれば、南側に広がる山林を抜けて県道に出るしかない。そう判断してのことである。

 二台の警察車両がホテルペルージュ南側の県道に着いたのは、午後六時四十七分である。

「その後、長野県警の応援が駆け付けて、ホテルの敷地内を手分けして張り込んだんだけど、この時にはもう身代金は奪われていた」

 君原真紀が身代金の入ったリュックを十四号コテージに置いてから、二十分ほどが経った時である。ホテルペルージュの南側の県道を張っていた刑事が、あるものを発見した。雪で覆われた山林の中に点々と続く人の足跡である。調べると、その足跡は十四号コテージの勝手口から始まり、フェンスを乗り越え、ホテルペルージュ南側の山林を通って県道にぶつかったところで終わっていた。

 捜査員が慌てて十四号コテージを見に行ったが、身代金の入ったリュックはなく、裏側の勝手口が開いていた。この勝手口から身代金は見事に持ち去られたのである。

 その後の長野県警による現場検証で、山林に残された足跡は、十四号コテージの勝手口から始まる、初めに発見された一筋だけであり、それ以外にはないことがわかった。

 捜査員はホテルペルージュの周辺の山も隈なく調べたが、本館を通らずにコテージの森に入った痕跡も、コテージの森から出て行った痕跡もなかった。足跡は、あくまで十四号コテージの勝手口から南側の山林を通って県道に続くその一筋だけだったのである。

 捜査本部は、二通りの考えで犯人を絞り込むことにした。雪が降り始める前に外部から不正にホテル内に侵入した者による犯行という考えと、正規の出入り口からホテル内に入った者による犯行という考えの二つである。しかし、外部から不正にホテル内に侵入した者による犯行という考えは、すぐに否定された。

「周囲の山も南の山林も奇麗なもんだったよ。足跡なんかいっさいなかったね」

 一月四日から降り続いた雪がいったん止んだ一月六日の午後と、身代金の受け渡しがあった一月七日の午後に、ホテルペルージュでは業者に委託して敷地内の除雪作業を行っている。その作業に従事した複数の作業者が、南の山林からも、東西両側の山からも、人が立ち入った痕跡は、全くなかったと証言したのである。

 雪山に一度付いた足跡は、一晩の雪ぐらいではなかなか消えてはくれない。一月五日以降にホテル内に侵入したのであれば、雪山には何らかの痕跡が残っているはずだし、さすがに一月四日以前にホテル内に侵入し、従業員に見つかることなく、どこかに潜伏していたとは考え難い。このことから捜査本部は、身代金を奪ったのは正規の出入り口からコテージの森に入った者の仕業と結論付け、その日にチェックインした宿泊客二十五名と、身代金受け渡し時にホテル内にいた従業員十二名の中から犯人を割り出すことにした。

 方法は防犯カメラの映像のチェックである。

「有馬さん。あのホテルって、宿泊客がコテージの森に入るには、必ず本館を通らないといけないでしょ。正面玄関のドアとコテージの森と書かれた本館裏側のドアの二つを通ってね。そのドアにはどちらも防犯カメラが付いていて、人の出入りが全て映像で記録されるようになっているの」

 ホテルペルージュには、これ以外に従業員が使う通用口や、車両出入り口にも防犯カメラが設置されており、従業員や業務用車両の出入りも全て把握出来るようになっている。

「警察は、コテージの森にいったん入った後、防犯カメラに写らずにコテージの森から消えた者を探し出すことにしたの。そして一人だけ該当する人物を見つけたのよ」

 それが、十六号コテージに宿泊していた保前正樹という人物である。

 彼は一月七日の午後四時十七分にチェックインしてコテージの森に入ったが、その後、防犯カメラに写ることなく、コテージの森から消えていたのである。

 君原真紀が身代金を十四号コテージに置いた後、そのコテージの玄関から人が出入りしていないことは、二人の刑事が目撃している。また、勝手口付近には山林に向かう一筋の足跡があるだけで、勝手口からコテージ内部に侵入したことを示す足跡はない。

 このことから、保前正樹は事前に十四号コテージの玄関から侵入し、君原真紀がやって来るのをじっと中で待ち構えていたものと考えられた。そして、君原真紀が十四号コテージを出ると同時に、身代金を奪って勝手口から飛び出し、ホテルペルージュの南側に広がる山林を駆け下りて県道に出た。その後は、隠してあった車で逃走したのであろう。十四号コテージの鍵は、事前に合鍵を作っていたに違いない。捜査本部はそう結論付けた。

「その後の捜査で、保前正樹には、君原流星君が誘拐された一月六日夕方のアリバイがないこともわかった。午後三時に会社を出て帰宅したのが午後八時。その間、どこで何をしていたのか、誰も知らないの。それも彼には不利に働いたみたいね」

 高坂早苗は、少し腹立たし気に言った。


 それから数日が経ち、事件は急展開する。身代金の受け渡しのあった一月七日から五日が経った一月十二日の朝、秋里市賀谷地区の個人所有の山荘で、保前正樹が遺体で発見されたのである。

 桂浩太郎というその山荘の所有者は、渓流釣りが趣味で、シーズンオフの冬場は山荘の管理を近くに住んでいる山路玄太という人物に任せていた。山路玄太は週に一度、山荘の玄関と窓を開けて、空気の入れ替えをするよう桂浩太郎から頼まれており、十五年前の一月十二日もそのために山荘を訪れている。

 山路玄太が山荘の玄関の錠を開けようとした時のことである。

「玄関のドアは内側からチェーンロックが掛かってましてね。よく見ると、建物の周りの雪も荒らされているし……」

 山荘の中に誰かがいる。そう思った山路玄太は、急いで警察に通報した。

 通報を受けて駆け付けた賀谷地区駐在所の警察官は窓をチェックしたが、全て内側から施錠されている。仕方がないので、玄関のチェーンを切って中に入った。

 山荘の一階には、オーナーが書斎として使っている洋室と、キッチンとダイニング、それにリビングが一続きとなった大きな洋室がある。

「リビングに入った時です。ガスストーブが焚きっ放しで、ソファの上には茶色の旅行鞄と赤いリュックが置かれていました。中を調べると、赤いリュックには大金が入っていたのでびっくりして……。数日前に発生した誘拐事件のことが頭に浮かび、すぐに所轄の秋里署に連絡を入れました」

 警察官は、その時の状況をそう説明した。

 保前正樹の遺体を発見したのは、駆け付けた秋里署の刑事である。山荘には地下室があり、そこで保前正樹が倒れていたのである。刑事が保前正樹の遺体に駆け寄ったが、すぐに気分が悪くなって戻ってきた。その後、酸素ボンベを背負った捜査員が遺体を運び出し、司法解剖に回したが、死因は炭酸ガス中毒とのことであった。

 保前正樹の遺体は死後四、五日が経過しており、体内からは睡眠導入剤が検出された。

 保前正樹が死亡していた地下室の床近くからは、二十パーセントを超える高濃度の炭酸ガスが検出された。数分で人を死に至らしめる濃度である。

 山荘で見つかったリュックには君原真紀の指紋がべったりと付いており、一億円の札束からは君原真紀と長野県警の刑事の指紋が検出された。君原流星誘拐の通報を受けて、君原真紀の自宅に駆け付けた刑事の指紋である。

 玄関からは、ホテルペルージュ南側の山林に残された足跡と靴底模様が一致する長靴が、発見された。保前正樹が倒れていた地下室にはワインセラーがあり、ビンテージのワインが貯蔵されていた。保前正樹が遺体で発見された時、そのワインセラーの錠が壊され、錠には保前正樹の指紋が付着していた。また床には、やはり保前正樹の指紋が付いたワインが一本、転がっていた。

 これらの状況から、保前正樹はホテルペルージュで身代金を奪った後、この無人の山荘に侵入し、睡眠導入剤を飲んで寝ようとしたが眠れず、地下室にあった高級ワインを見つけてそれを取り出そうとした時に、部屋に充満した炭酸ガスにやられて気を失い、そのまま一気に酸欠状態となって死亡したものと考えられた。

 炭酸ガスは空気より重いガスである。長時間、炭素を含む燃料を焚き続けると、発生した炭酸ガスは床を這ってより低い地下室に流れ込み、そこに滞留する。

「冬場はほとんど別荘に行くことはないのですが、友人が一度わかさぎ釣りをやってみたいと言いましてね。それで十二月二十日から四日間ほど別荘に滞在しました」

「ストーブは焚かれていましたか?」

「ええ、ずっと焚きっぱなしでした。ワインはリビングに保管していたものがあるので、それを全部、飲み切りました。地下室には降りていません」

 横浜に住む山荘の所有者・桂浩太郎は、捜査員の質問にそう答えた。

「地下室には床面近くに換気扇がありましてね、地下に降りる時には、その換気扇を必ず回すようにオーナーから言われていました。でも地下室に降りたことはないし、もちろん、換気扇も回していません」

 管理人の山路玄太も、地下室の換気にまでは気が廻らなかったと証言した。

 これらのことから、保前正樹は誤って炭酸ガスの充満した地下室に入り、そこで気を失ってそのまま死亡したに違いない。警察はそう考えたのである。いずれにしろ密室の中で身代金とともに死亡していたことで、保前正樹の容疑は確定し、彼は被疑者死亡のまま送検されたのである。長野県警は、その後も君原流星の行方を必死で探したが、未だにその消息は不明である。


「これが十五年前の事件よ」

 高坂早苗は話しを終えた。

「確かに不思議な事件だな」

 有馬慎吾がポツリとつぶやいた後、二人の間に沈黙の時間が流れた。有馬慎吾は手帳を指で追いながら、何度も今聞いた話を頭の中で反芻した。

 雪山に残された足跡はただ一つ。その足跡を付けた人間が、身代金を持ち出したとしか考えられない。当然、犯人である。一方、ホテルから消えた人間もただ一人。ということは、普通に考えれば、その消えた人間が犯人ということになる。

「ちょっと待てよ」

 消えた人間以外でも犯行が可能となるのは……? 人知れずホテルペルージュに侵入した真犯人が、身代金を奪って賀谷地区の山荘に運び込んだ。真犯人はまた、保前正樹を人知れずホテルペルージュから連れ出し、賀谷地区の山荘で殺害して、密室を作った。

 もし他に真犯人がいるとすれば、おおまかにはこういうことだろう。

 人知れずホテルペルージュに侵入する方法と、人知れず保前正樹をホテルから連れ出す方法を見つければ良いのだ。それと山荘に作られた密室の謎……。しかし……、どうもそんな単純な話でもないような気もする。有馬慎吾が黙ってあれこれ考えていると、高坂早苗はバッグから紙袋を取り出し、有馬慎吾に手渡してきた。

「ホテルペルージュの十五年前の防犯カメラの映像と宿泊者名簿よ」

 高坂早苗は、十五年前に警察が押収し、現在はホテルに保管されているそれらをコピーしてきたと言う。これを見て、有馬慎吾が放った問いに答えを出せということか……? 

「念のために言っておくけど、防犯カメラに死角はないからね。それは警察が確認済み。それとホテルペルージュでは、十五年前からコテージの新築や改築もやっていないからね」

 有馬慎吾は紙袋を受け取り、自分のリュックに仕舞った。 


「ところで、どこに俺が出て来るんだ?」

 有馬慎吾は、自分がいっこうに登場してこないことが気に入らない。

「そうだったね。この事件にはまだ続きがあるの。身代金の受け渡しのあった次の日に、岐阜県の木曽川支流で、瀕死の重傷を負った少年が見つかっているの」

 そういうことか……。

 身代金の受け渡しが行われたのは十五年前の一月七日。有馬慎吾が河原で倒れていたのは、その翌日一月八日の早朝。誘拐された君原流星は、まだ見つかっていない。

「その誘拐された君原流星ってのが、俺だって言うのか……?」

 有馬慎吾は二週間ほど病院のベッドで生死の境をさまよい、気が付いた時にはそれまでの記憶が飛んでいた。自分が誘拐された君原流星かも知れないと言われても、その実感がいっこうに湧いてこない。

「長野県警は、その少年が君原流星君ではないかと思って、その子が担ぎ込まれた病院まで、君原真紀さんを連れて見に行ったのよ」

「しかし君原流星ではなかった……?」

「君原真紀さんがきっぱりと否定したの。流星には背中に大きなほくろがあるけど、この子にはないと言ってね」

 有馬慎吾が、まだ意識のなかった頃の話である。

「それから一か月ほど経った頃、河原で倒れていた男の子は君原流星君に違いないと言う人が現れた。岐阜県警の刑事が必死で聞き込みを掛ける中で出て来た証言よ」

 その証言を行ったのは、君原流星が通っていた小学校の教師だった。岐阜県警の刑事がさらに聞き込みを掛けると、他にも同様の証言を行う人物が、少なからず出て来たそうだ。

「でも、それも母親が完璧に否定してね……。結局、岐阜県警の刑事もそれ以上の追及は出来なかったみたい」

 岐阜県警の刑事というのは、権藤一郎に違いない。有馬慎吾が初めて聞く話だが、母親が親子関係を完全に否定しているのだ。有馬慎吾にその話を伝えなかったとしても、仕方がないのかも知れない。

 有馬慎吾は右手で首の後ろを揉みながら、「うーん」という唸り声を放った。

 十五年前、君原流星という少年が誘拐された。その子はまだ見つかっていない。その直後に、木曽川支流の河原で重傷を負った同年代の少年が見つかっている。

 十五年後の今、誘拐事件の舞台となったホテルに当時から勤めていた女性が殺害され、遺体の近くに、河原で見つかった少年のポケットに入っていたものと同じ写真が置かれていた。高坂早苗の言葉を借りれば、これは犯人が置いたものである。

 これらの出来事をどう理解すれば良いのだろう?

 十五年前の君原流星誘拐事件の真相を調べれば、答えが出るのかも知れない。有馬慎吾は、自分も登場すると言った高坂早苗の言葉をやっと理解した。 


「君はなぜ、保前正樹が犯人ではないと思っているんだ? 彼以外にも犯行が可能なことを見つけ出して欲しいと、なぜ俺に頼んだ?」

 有馬慎吾の素朴な疑問である。

 高坂早苗は考えている。言うべきかどうか、迷っているようだ。やがて気持ちを決めたように彼女はしゃべり出した。

「保前正樹には二人の子供がいて、その下の子が携帯を買ってもらったの。まだ小学校の三年生だったけど、塾に通うようになったから、初めて携帯を持たせてもらったのよ」

 高坂早苗の声が次第に震えてきた。

「その子は女の子か?」

「上が男で、下は女の子」

 高坂早苗が気持ちを落ち着かせようとしているのが、手に取るようにわかる。

「その携帯にはGPSが付いていてね、その子は、父親の携帯と位置情報を共有化してもらって、いつも父親がどこにいるのかをチェックしていたんだ。会社にいるとか、もうすぐ家に帰ってくるとか……、きゃあきゃあ言いながら……」

 十五年前と言えば、GPS付きの携帯が出始めた頃だ。その女の子は父親の居場所がわかるのが嬉しくて、身代金の受け渡しのあった日も携帯をチェックしていたらしい。

「その子が最後に携帯をチェックしたのは、身代金の受け渡しがあった日の午後十一時。その時、保前正樹の携帯は、間違いなくホテルペルージュにあった」

「午後十一時に携帯が……」

「でも翌朝には、位置情報は……、消えてしまっていた」

 高坂早苗の言葉が詰まった。

「大丈夫か?」と有馬慎吾が聞くと、彼女はそれには答えずに話しを続けた。

「そしてその携帯は、保前正樹の遺体が眠っていた山荘で見つかっている。これは、どうして?」

 高坂早苗の目が潤んでいる。有馬慎吾は、この女の正体がやっとわかった。

「そのことを警察には言ったのか?」

「言ったよ。何度も何度も……。でも信じてもらえなかった。それに……、犯人から君原真紀さんに二回目の電話があった時……」

「一月六日の午後九時半だな」

「保前正樹は、間違いなく家にいた。家族と一緒にいたんだよ。でも、それも身内の証言だってことで、ちゃんと話を聞いてもらえなかった」

 高坂早苗は感情を押し殺すように言い、そこで彼女の長い話は全て終わった。

 有馬慎吾は、まだ頭の整理がつかない。今の話から、どうやって保前正樹でなくても犯行が可能なことを見つけ出せば、良いのだろうか?

「とりあえず、君からもらった防犯カメラの映像と宿泊者名簿を調べてみる」

 有馬慎吾は、そう言うのが精一杯だった。

 話し終わった高坂早苗は、急にすっきりしたという顔になり、「ああ」と大きな声を出して背伸びをし、にこっと笑いながら大きな目を有馬慎吾に向けてきた。

「ところで、有馬さん、お腹が空かない? ラーメンでも食べに行こうよ。私がおごるよ」

 あっけらかんとして言う。よく表情の変わる女だ。

「そう言えば、腹がへったな」

 時計を見ると午後十時を回っている。結局、その日、バー・モレロには誰一人として客は入って来なかった。


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