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流れ星の見える夜  作者: 長栄堂
第九章 旭日荘の住人
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流れ星

 その一時間後、有馬慎吾は、『手術中』の表示の灯る深夜の病院の片隅にいた。その顔は暗く、気持ちは、まるで奈落の底に突き落とされたかのように沈んでいる。

 あの後、旭日荘の二十三号室に駆け込んだ有馬慎吾たちが見たのは、部屋の中で血まみれになって倒れている鬼車宗八であった。鋭利な刃物で腹部を三か所も刺され、そのうちの一つは内臓にまで達していると言う。

「精一杯の手は尽くすが、予断は許さない」

 緊急搬送先の医師は言った。

「ご家族に連絡を……」とも言ったが、有馬慎吾は「家族は俺しかいない」と答えた。

「なんとか、助けて欲しい」と祈るような気持ちで呟いた。


「慎吾さん、それくらいの大きさが、食って一番美味いぞ」

 釣り上げた魚を見て、嬉しそうに言う鬼車宗八の顔が瞼に浮かび、涙が溢れてきた。

「もっと早くに気付くべきだった……」

 有馬慎吾は、自分の愚かさを嘆いた。

「あの娘は、毎日のようにかわら屋にやって来てね、それでとうとう私が君原真紀だって気が付いたの。宗八さんが、小川悟志さんだってことも……」

 隣りに座るアパートの管理人、大前順子の目からも涙が溢れている。

 あの娘というのは高坂早苗である。彼女は、小川悟志と君原真紀が有馬慎吾を見捨てて逃げ回るはずがないと思い、二人を探すために有馬慎吾の近くに引っ越して来たのだ。

 勘の良い高坂早苗は、何度かかわら屋に通ううちに、大前順子が君原真紀で、鬼車宗八が小川悟志だと気付いたが、事件が解決するまでそのことを伏せておいて欲しいと二人に頼まれ、仕方なくそれを了解したと言う。

 有馬慎吾はやっと思い出した。

「俺は知らんな。それがどうかしたか?」

 ホテルペルージュのコテージの森で、挑むような目で有馬慎吾を睨みつけてきた作業者がいた。無精髭を生やし、真っ黒に日焼けした作業者の目……。あれは変装した小川悟志だったのである。そして、すぐに慌てて吉村達夫を呼んだ女性作業者……、あれは日除けカバーの付いた帽子で顔を見えなくした君原真紀だったのだ。有馬慎吾から秋里に行くと聞いた君原真紀は、すぐに十五年前の事件を調べに行くのだと気付き、小川悟志と一緒に日雇いの作業者として吉村造園に潜り込んだ。もちろん、有馬慎吾を見守るためにである。

 二人は、これまでもずっと有馬慎吾の近くにいたのだ。

 足立岩次郎の働き掛けによって有馬慎吾がさくら園に引き取られると、小川悟志と君原真紀は、住み込みの下働きとしてさくら園で仕事をし、権藤一郎の家に移ってからは恵那市に引っ越し、有馬慎吾が大学に進学すると、足立岩次郎の所有する旭日荘の住人と管理人として同じアパートに住んだ。有馬慎吾に気付かれぬよう顔を変え、姿を変えて他人の振りをしていたが、二人はいつも、有馬慎吾の様子を近くで見守っていたのである。


「宗八さんが、階段の横の案内図を偽装すると言って、どうしても聞かなくてねえ」

 君原真紀は、ハンカチで目頭を押さえた。

 鬼車宗八と君原真紀が秋里から京都に帰ってすぐのことである。旭日荘の専用駐車場で、鬼車宗八は、有馬慎吾の車に目をやる目付きの鋭い男を見た。その時、彼は気が付いたのである。黒幕Xは、有馬慎吾の車にGPSを仕掛けたに違いないと……。

 有馬慎吾の車にGPSを仕掛けられると、旭日荘の専用駐車場の場所が特定され、有馬慎吾が旭日荘の住人であることは、すぐにわかってしまう。後は誰かを雇ってその車を見張らせ、有馬慎吾が車を使った時に、彼の後をつければ良いのだ。

 あの目付きの鋭い男は、黒幕Xが雇った探偵に違いない。そう思った鬼車宗八は、それから近くの空き家を借りて、その男の動きを見張った。二日が経ち、有馬慎吾が車を運転して駐車場を離れ、やがて一時間ほどして帰って来た。目付きの鋭い男は、案の定、有馬慎吾の後をつけ、彼が部屋に入るのを確認すると、階段横の案内図を見に行った。

 有馬慎吾の部屋はわかっても部屋の号数はわからない。あの男は、階段横の案内図から有馬慎吾の部屋の号数を読み取り、それを黒幕Xに知らせるつもりに違いない。そう考えた鬼車宗八は、案内図を書き換え、自分が身代わりになって黒幕Xを自分の部屋に誘い出してやろうとしたのである。

 彼もまた、部屋に監視カメラをセットし、仮に自分が殺られても、黒幕Xの素性を明らかにして事件を早く終わらせたかったのだ。しかし、この鬼車宗八の思いが報われることはなかった。旭日荘が停電した後すぐに、何者かが鬼車宗八の部屋に忍び込むところまでは監視カメラの映像で確認出来たが、暗闇の中での撮影であり、その人物を特定することは出来なかった。


「慎吾ちゃん。あなたのお母さんは、本当に気持ちの優しい人だったよ」

 君原真紀は、岡本奈津について知っている限りのことを有馬慎吾に話してくれた。

 二十七年前の二月十五日、小川悟志が中国に行ったのは、足立岩次郎に中国のクライアントを紹介され、その打ち合わせを行うためである。仕事は一日で終わるので、岡本奈津も一緒に行って、あちこちを観光しようという話になった。

 現地の案内と通訳は、岡本奈津が勤務先の旅行代理店を通して手配していたが、しかし現地に着くと王武義と名乗る者が現れ、手配した者は都合が悪くなったので、自分が代理を務めるよう頼まれたと言った。

 二人は疑うことなく王武義の運転する車に乗り込み、杭州市のはずれにある春秋酒店というホテルに入った。ホテルでは日本語も英語も通じないので、王武義が代わりにチェックインをやると言い、小川悟志と岡本奈津はパスポートを渡して彼に手続きを任せた。

 その日の午後六時、小川悟志と岡本奈津は王武義に連れられて、近くの飲食店に夕食を取りに行った。その時、ホテルに預けるからと言われて、二人は部屋の鍵を王武義に渡している。飲食店に着くと、王武義は、自分はあなた方の使用人なので同じ席にはつけないと言ってホテルに戻り、また午後八時半頃にやって来た。

 その後、王武義に連れられてホテルに戻ったが、少しして岡本奈津に異変が起こった。気持ちが悪いと言って、食べた物を嘔吐したのである。小川悟志と岡本奈津は、フロントに行って胃薬をもらおうとしたが言葉が通じず、仕方がないので薬屋を探しに街に出た。

「今から考えると、それは慎吾ちゃん、あなたの命が芽生えていたのね」

 君原真紀は、真っ赤な目で有馬慎吾を見た。

 結局、薬屋は見つからず、二人はホテルに戻ったが、玄関前に警察車両が停まり、ホテルの中がどうも騒がしい。近くにいた旅行客に英語で聞くと、麻薬を持ち込んだ宿泊客がいるという通報が入ったようだと言う。

 二人は驚いた。その宿泊客の部屋番号を聞くと、それは自分たちの部屋である。麻薬の所持、運搬、密売は、中国では問答無用で死刑になる可能性が高い。そう思った小川悟志と岡本奈津は、わけがわからぬまま、とにかくホテルから立ち去ることにした。

 二人は人気のない道を探して異国の街をとぼとぼと歩き、やがて西湖のほとりで一夜を明かすことにした。夜になると氷点下になることもある真冬の杭州市である。二人は肩を寄せ、かじかむ手に息を当てて、不安と寒さに震えながら、長い夜を過ごした。

 やがて夜が明けると人の姿が見えたので、二人はそこを立ち去り、また人気のない道を探して歩いた。少し行くと公衆電話があった。急いで岡本奈津が君原真紀に助けを求め、君原真紀が足立岩次郎に連絡した。

 足立岩次郎の古い友人という男性が二人のもとにやって来たのは、その日の夜になってからである。劉康元というその男性は、指定した場所に二人がいないためずいぶんと探したらしいが、近くの廟の中に隠れている小川悟志と岡本奈津をやっと見つけ、なんとか保護してくれた。車で二人を自分の家に連れて行き、その家にかくまってくれたのである。

 後は有馬慎吾が考えた通りである。足立岩次郎は、どこかに手を回したのか、二日でビザを取り、二月十八日に劉康元のもとにやって来た。劉康元に頼んで春秋酒店で何があったのかを調べてもらうと、小川悟志と岡本奈津が泊まっていた部屋のキャリーバッグから麻薬が見つかり、人民警察が二人の顔写真を持って逃亡先を探していると言う。

 足立岩次郎は、急いで二人のパスポートと日本への入国ビザの偽造を劉康元に頼み、小川悟志と岡本奈津は、陳博文と周美玲という名前で三月四日に日本に戻って来た。

「足立さんはずっと気にしてるよ。後から思うと、小川悟志と岡本奈津の名前で日本に帰って来ても、大丈夫だったんじゃあないかってねえ。慎吾ちゃん。あなたにも申し訳ないことをしたって、今でも悔やんでいるよ」

 事情がわからない中で、みんなが懸命に考えて、良かれと思って動いた結果である。有馬慎吾には、犯人への憎しみはあっても、足立岩次郎を恨む気持ちなどかけらもなかった。


  小川悟志と岡本奈津が、王武義という男にはめられて、自分たちが黄光哲と林寧という中国人にされたことを知ったのは、日本に戻ってからである。しかし、誰が二人をそのような目に逢わせたのか、それは日本に戻ってからも、ずっとわからなかったようだ。

 岡本奈津が自分の妊娠に気付くのは、日本に戻ってすぐのことである。彼女は君原真紀の名前で岐阜の産婦人科で検査を受け、そしてその年の十月二十日、やはり君原真紀の名前で元気な男の子を出産した。

「慎吾ちゃん。あなたに流星という名前を付けたのは奈津よ。あの子は西湖のほとりで震えながら一夜を明かした時、何度も流れ星を見たんだって……」

 岡本奈津は、何度も何度も流れ星にお願いをしたらしい。二人が助かりますように、無事に日本に帰れますようにと、何度も何度も手を合わせて……。

「あの時、流れ星にお願いをしたから、こんなに元気な赤ちゃんを授かることが出来たんだって、嬉しそうに言っていたよ。それと、この子が私たちを助けてくれたんだって、本当に嬉しそうな顔をして……。あんな嬉しそうな奈津を見たのは、初めて……」

 君原真紀は、両手で顔を覆い、言葉が続かなくなった。岡本奈津は、自分では育てられないことを知った上で、それでも有馬慎吾の誕生を心から喜んでくれたのである。

「慎吾ちゃん。あなたは、奈津にも悟志さんにもよくなついていたよ。あなたは何も言わなかったけど、あの二人が本当の母親と父親だって気付いていたんじゃないかな」

 君原真紀は、事件が解決したら君原流星に全てを打ち明け、小川悟志と岡本奈津のもとに流星を返すつもりだったと言った。


 二十七年前の四月、小川悟志と岡本奈津が日本に戻った後、君原隆司は勤めていたシステム開発会社を辞め、小川悟志が経営していたOSEの従業員を引き取って、自分の会社、君原システムを松本市に立ち上げた。小川悟志が従業員の行く末を心配し、また彼らが騒ぎ立てることを危惧したのである。

 小川悟志と岡本奈津は、岡本奈津が君原流星を出産した後、その子を君原夫妻に託し、足立岩次郎の世話になりながら岐阜市に住んだ。君原流星のいる松本に住みたかったし、君原夫妻もそれを勧めたが、松本にはOSEの元従業員がおり、本郷裕子や保前夫妻が住んでいた。彼らと顔を合わせるとまずいことになると思った小川悟志と岡本奈津は、松本に住むことを諦め、時々、松本に出向いて君原流星の成長を見守ることにした。君原夫妻も流星を連れて、よく岐阜まで行ったと君原真紀は言った。


 それから九年の歳月が経った十八年前の八月、突然、小川悟志と岡本奈津が住む岐阜の家に保前正樹が訪ねて来た。彼は、小川悟志と岡本奈津は、二人が生まれ育った岐阜にいるに違いないと目星を付け、足立岩次郎の周辺をさんざん探し回ったのだ。そして、二人の居所をやっと見つけた。

 保前正樹の話を聞いて二人は驚いた。彼は、小川悟志が失踪したのはその年の三月だと勘違いしていたのだ。何者かが小川悟志に成りすまして、本郷重富から金を巻き上げていたことに、その時、初めて気が付いた。小川悟志と岡本奈津は、保前正樹に全ての事情を打ち明け、保前正樹は、二人の濡れ衣を必ず自分が晴らしてやると約束してくれた。

 その時、小川悟志は一つの頼みごとを保前正樹にしている。自分は本郷重富とは顔を合わせるつもりはないし、彼の財産なんかには全く興味がない。ついては小川悟志という人間は死んだと本郷重富には伝えて欲しいと……。保前正樹は、それも了解した。


 十七年前の一月、君原夫妻に不幸な出来事が訪れる。君原隆司がくも膜下出血で病院に運ばれ、手当ての甲斐なく亡くなってしまったのである。君原真紀が君原隆司の後を継いで社長に就任したが、君原流星の面倒を見る人間がいない。そこで岡本奈津が松本に家を借りて、通いで君原流星の面倒を見ることになった。自分は死んだと本郷重富に思わせたい小川悟志は、本郷重富の関係者に顔を見られることを恐れ、岐阜に残ったまま、時々、岡本奈津と君原流星の様子を見に行くことで自分を納得させた。


 十六年前の五月、たまたまその家に君原流星がいる時に、小川悟志が保前正樹を連れてやって来た。保前正樹が君原流星を見るのは、その時が初めてである。彼は小川悟志と岡本奈津、そして君原流星を外に連れ出し、写真を撮ってやると言った。君原流星を真ん中に立たせ、その両脇を小川悟志と岡本奈津が固めた例の写真である。

 三人での初めての記念撮影であった。保前正樹は、緊張して君原流星の両側に立つ小川悟志と岡本奈津に何度ももっと笑えと言い、やっと二人がぎこちなく微笑んだ瞬間をとらえて、シャッターを押した。

 後ほど、保前正樹は岡本奈津にその写真を三枚渡している。小川悟志と岡本奈津が持ち歩くために二枚、もう一枚は、部屋に飾るために岡本奈津が頼んだのである。

「奈津はいつもその写真を眺めていたよ。嬉しそうな顔をしてね。宗八さんもその写真を持ち歩いているよ。今でもね」

 君原流星と岡本奈津が拉致された後、君原真紀が岡本奈津の家に行くと、キャビネットの上にあったその写真がなくなっていた。君原真紀は犯人が持ち去ったのだと思った。

「慎吾ちゃん。あなたが助かったと聞いた時、私は、何度もあなたは自分の子供だと言おうと思った。でもあなたのポケットからその写真が出て来たと聞いて、奈津が最後の最後に写真をあなたに渡したのだと思った。その奈津の気持ちを考えると……、私は何も言えなくなってしまってね。ごめんね。本当にごめんね」

 君原真紀は、何度も「ごめんね」と言いながら、大きく泣き崩れた。


「宗八さん、大丈夫かしらね」

 そう言いながら、有馬慎吾と君原真紀のそばにやって来る女性がいた。かわら屋の女将の田口紗江である。彼女もさくら園の出身で、岡本奈津とも親しかったようだ。

 田口紗江は三十歳の時に結婚したが、鬼車宗八という芸名を持つ彼女の夫は金遣いが荒く、さんざん放蕩生活を繰り返した後、十年前に突然、姿を消したと言う。彼女は君原真紀から小川悟志を紹介された時、自分も小川悟志と有馬慎吾を守るのに一役買うと言い、夫の捜索願いを取り下げて、小川悟志にその戸籍を使うことを許可したのである。

「宗八さん。有馬君と釣りに行くのを楽しみにしていたよ。行った後もその話ばかりして……」と、田口紗江も涙を浮かべながら言った。

 外が少し明るくなってきた。やがて手術中の表示が消えた。

 有馬慎吾が不安そうな面持ちで立ち上がると、

「やるべきことは全てやったよ。後は本人の気力次第だが、まず大丈夫だと思うよ」

 手術室から出て来た医師は、そう言ってくれた。

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