黄光哲と林寧
朽木啓介と大津涼平から報告を受けた長野県警捜査本部は、すぐにマンション・セントレジデンスの窓を全てチェックしたが、やはり、一階と二階の階段の踊り場に付けられたはめ殺しの窓と、八〇二号室のはめ殺しの窓の一つに、焼きばめ方式の窓が使われていることがわかった。
窓枠は内周と外周、さらにその周囲の硬質ゴムの三重構造となっており、内周にはインバー合金、外周にはオーステナイト系のステンレス鋼、最外周には耐熱性の硬質ゴムが使われていた。また、外周枠には六分割されたヒーターが内蔵されており、それぞれを個別にプログラム制御する機能も付いていた。違うところと言えば、外周枠の加熱を百五十度まで行うということと、最外周に用いた硬質ゴムの材質が永井守が使用したものとは若干異なるということ、窓枠に塗った耐熱塗料の色合いが異なるということぐらいである。永井守は、まるで見て来たかのように犯人が作った密室を大学の実験室で再現したのである。
捜査本部の指揮を取っている県警本部の管理官・相馬達弘は、取り外した窓の詳しい解析と、その入手ルートを大至急調べるよう捜査員に指示を出したが、入手ルートについては、海外にまで手を広げるのは難しいというのが、捜査員の見解である。
そんな中、県警本部の幹部も出席して開催された捜査会議は、興奮と怒声で沸き立った。小川悟志と岡本奈津の顔写真の付いた指名手配書が、中国の杭州市で見つかったのである。
杭州市は上海市から南西に約二百キロ、車で二時間半ほど走ったところに位置する浙江省の州都である。市の中心部の西に白蛇伝でも有名な西湖がある風光明媚な観光地だが、当時は夜ともなると湖畔には人影がばったりと途絶え、道行く車も少ない寂しいところであったようである。
その杭州市のはずれにある春秋酒店という小さなホテルで、二十七年前の二月十五日の夜、ある事件が起こる。男女二人連れの宿泊客が麻薬を所持しているという匿名の通報が、杭州市を管轄する人民警察にあったのである。捜査員が訪れると、その宿泊客は逃走したのか、荷物を置いたままホテルから消えており、部屋の中に置かれたキャリーバッグの中からヘロイン五百グラムが見つかった。
宿泊客の名前は黄光哲と林寧、国籍は中国人である。春秋酒店の従業員によると、二人は海外生活が長くて中国語をほとんど話せないため、付き添いの通訳が宿泊手続きを全てやると言い、それで了解したとのことである。
また別の従業員は、二人は午後六時に通訳と一緒に外出し、午後八時半にホテルに戻って来たが、その十五分後に、今度は二人だけでホテルから出て行ったと証言している。人民警察に通報があったのは、午後八時四十分であり、二人は人民警察がホテルにやって来る直前に出て行ったことになる。
人民警察の捜査員は、まだ二人は近くにいるものと見て周辺を隈なく探したが、結局、見つけることは出来ず、ホテルに残る二人の身分証明書のコピーから指名手配書を作成した。なお、通訳がホテルに提示した二人の身分証明書に記載された住所には、確かに黄光哲と林寧という男女が住んでいたことがあるが、半年前から姿が見えなくなったと近くの住人は証言している。
また二人に同行していた通訳の名前は王武義というが、提示した身分証明書に記載された住所にはそのような者は居住しておらず、その身元はまだわかっていない。
「その指名手配書に添付された二人の顔写真を顔認証システムで照合したところ、九十九パーセント以上の確率で小川悟志と岡本奈津であるという結果が出ました」
以上が、中国に派遣された県警本部捜査一課の上島克己からの報告内容である。
「有馬君の言った通りになってきたな」
朽木啓介が、隣りに座る大津涼平に声を掛けた。
ヘロインが見つかったのは、黄光哲のキャリーバッグからで、中に包装紙で奇麗にラップされた桐箱が入っており、その中に五つのビニール袋に小分けされた合計五百グラムのヘロインが隠されていたとのことである。小川悟志と岡本奈津に掛けられた容疑は、ヘロインの所持および運搬だったのである。
「ヘロインか。汚い手を考えるもんだ」
ざわめく会議室の中で、朽木啓介が、捜査員全員に聞こえるほどの大きな声で叫んだ。
中国は麻薬の取り締まりに関して、世界で最も厳しい国の一つである。密輸はもちろん、密造や運搬を行った者に対しても、かなりの確率で死刑という重い罰が科される。黒幕Xはそれを知っていて、王武義と名乗る通訳を使って、小川悟志のキャリーバッグにヘロインをこっそり紛れ込ませたのだ。小川悟志が二度と日本に戻って来られないように……。
大津涼平が考えていると、中国に派遣された別の捜査員・伊藤茂が立ち上がって、検出された指紋について報告を始めた。捜査本部にどよめきが起こるのは、ここからである。
「ヘロインの入っていた桐箱の包装紙から、部屋から検出された黄光哲と林寧のものと思われる指紋が付いていました。置き去りにされたキャリーバッグからも二人の指紋が検出されています。しかし、不思議なことに、キャリーバッグの中の他の所持品からは、誰の指紋も検出されていません」
「それは……、黒幕Xが荷物を全て入れ替えるように王武義に指示したのだ。二人が日本人だとばれないように……」
捜査会議の指揮を取る県警本部の管理官・相馬達弘は、少し苛つきだした。
「私もそう思います。桐箱からもヘロインの入った袋からも二人の指紋は検出されていません」
「二人ははめられたんだから、当然だろう」
「しかし……、ヘロインの入っていた桐箱とビニール袋からは、別の者の指紋が検出されています」
「別の者の……? 誰だ?」
「人民警察も黄光哲と林寧を麻薬運搬の容疑者と決め付けているわけではありません。桐箱とビニール袋に付いた指紋の持ち主が主犯で、その人物にはめられた可能性が高いと見ています。しかし、今までそれが誰なのか、わからなかったようなのです」
「いいから早く言え。誰の指紋なんだ?」
相馬達弘は完全に苛ついている。
「それが……、日本の鑑識で調べたら、本郷裕子の指紋と一致しました」
会議室のあちこちで「ほうっ」という喚声が起こり、部屋全体が大きくざわめいた。
本郷裕子は、岡本奈津が大きなお腹を抱えて街を歩いているところを目撃しており、それを誰にも話していないと彼女自身が言っている。
岡本奈津と君原真紀が互いに姉・妹と呼ぶ親しい関係であることも、小学校から岡本奈津と付き合いのある彼女であれば、当然、知っているだろう。
身長は一六八センチメートル。保前正樹とも顔見知りであり、彼の動きをコントロールすることも可能である。また早川真理子とも近しい関係にある。
そして何よりも強い動機を持っており、その上、ヘロインの入っていた袋と桐箱に指紋が付いていたとくれば……、黒幕Xは本郷裕子でほぼ確定である。
「すぐに本郷裕子を引っ張って、事情を聞き出せ」
相馬達弘が厳しい口調で言うが、その時、「管理官」という大きな声とともに松本南署の捜査員が立ち上がった。
「本郷裕子の行方がわかりません」
「なにい」
会議室全体に怒声が響き渡った。
「今朝、事情を聞くために本郷裕子の自宅を訪れたのですが、夫の岩城至誠が出て来て、昨日の朝から連絡が取れないとのことです」
「連絡が取れない?」
「はい。岩城至誠の話では、本郷裕子は一昨日の夜は六本木のマンションに泊まったようなのですが、昨日の朝に京都に向かうという連絡が入ったきり、電話が繋がらなくなったようなのです」
今日は九月の二十八日であり、本郷裕子が京都に行くと言って行方をくらませたのは、二十七日の朝である。
「家の中は確認したのか?」
「もちろん確認しましたが、松本の自宅にも六本木のマンションにも本郷裕子はいません。会社にもです」
「京都のホテルはどうなんだ?」
「京都府警に調べてもらっていますが、現時点で、本郷裕子という名前で宿泊している客は、見つからないとのことです」
本郷裕子がいなくなった……。
「朽木さん。まずいですね」
動揺が渦巻く中、大津涼平が朽木啓介に声を掛けた。
「ああ、まずい。極めてまずい」
朽木啓介も苛立ちを隠せなくなってきた。
「小川システム開発の取引状況ですが……」
今度は大津涼平が立ち上がって、偽者の小川悟志が作った会社の取引状況について報告を始めた。保前正樹の遺品の中にあった小川システムのハードディスクがやっと復元され、その調査を大津涼平が担当したのである。
「結論から言いますと、本郷重富を騙して彼から金を巻き上げていたのは、桂浩太郎と考えられます」
あちこちで、また「ほう……」という声が上がる。
小川システム開発株式会社は、二十七年前の設立時から偽者の小川悟志が失踪する十八年前までの九年間、毎年一億円程度の売り上げを計上しており、その大半が本郷重富の息のかかった会社からのシステム開発依頼である。
しかし、この会社はどうもシステム技術者を社内に抱えてはおらず、全ての仕事を外注で対応していたようである。フリーのシステム技術者にその都度安く仕事をさせるか、中小のシステム開発会社に仕事を丸投げして受注をこなしていたのである。
そんな中、大津涼平はある会社に目を付けた。小川システム開発は、毎年、三千万円近い金をその会社に支払っているのである。しかも、名目はコンサルタント料と書かれているだけで、その会社との契約書や報告書の類はいっさい見当たらない。
その会社の名前は桂企画株式会社、代表は桂浩太郎である。
「急激に膨らんだ借入金も、その会社が仕組んだと考えて良いのか?」
相馬達弘が、大津涼平に大きな声で聞いてくる。
「十九年前の十月に、小川システムは闇金から金を借りて、桂企画が所有する長野県の山林を四億円で購入しています。調べてみたら、その土地は五千万円で桂企画が地主から購入した土地でした。桂浩太郎が、小川システムから三億五千万円を奪い取ったと考えて間違いないと思います。正確に言えば、本郷重富からですが……」
「その闇金も、多分、グルだな」
「私もそう思います。それと、偽者の小川悟志と桂浩太郎は、恐らく同一人物だった可能性が高いと思います」
特に反対の意見は出ない。桂浩太郎が、小川システム開発の代表と、そこに出入りする経営コンサルタントの一人二役を演じ、小川システムからせっせと金を桂企画に移したと考えるのが自然である。その金の総額は九年間で約七億円になると大津涼平は報告した。
「そうなると、大津君。次の問題は、桂浩太郎を小川悟志だと偽って本郷重富に引き合わせた人物は誰か、ということになるな。それは……」
固唾を飲んで捜査員が見守る中、相馬達弘が意外にも「君は誰だと思う?」と大津涼平の意見を聞いてきた。
「本郷裕子は、桂浩太郎とは顔見知りです。それに、本郷重富も彼女の言うことなら信用したと思います。これらの状況から普通に考えれば、その人物は本郷裕子、と言いたいところなんですが……」
大津涼平は言葉を濁した。
「どうした? 良いから言ってみろ」
相馬達弘の大きな声が、また会議室に響いた。
「私は本郷裕子ではないと思います」
「どうしてそう思う?」
「本郷重富に偽者の小川悟志を引き合わせた人物は、二十七年前の事件と十五年前の事件の黒幕と同一人物かと思われます。しかし本郷裕子がお腹の大きな岡本奈津を見掛けたのは、二十七年前の夏過ぎ、君原流星誘拐事件が起こったのは、その十二年後の一月。遺産を相続するために君原流星を殺害するにしては、あまりにも時間の掛け過ぎです。その間、本郷重富を騙して金を巻き上げるということの意味もわかりません」
「では、君は誰が黒幕だと言うんだ?」
「それは……」
大津涼平はここでふうっと息を吐いた。
「岩城至誠。彼が黒幕Xだと思います」
大津涼平は言い切った。
「なぜだ?」という怒声で会議室が大きくどよめいた。
「十五年前の事件の時は保前正樹、今年の早川真理子殺害事件では高坂早苗、そして今回は本郷裕子。我々は、同じ間違いを犯すべきではない」
大津涼平が捜査員に向かって声を張り上げると、ざわめきは一瞬で収まった。
「二十七年前の事件で小川悟志と岡本奈津を容疑者に仕立て上げたのも同じです。黒幕Xは、常に誰かを陥れることに嬉々とした喜びを感じ、まるで楽しむかのように犯行を重ねている。自分は決して表に出ることなく、動機をひた隠しにして……。それが黒幕Xなのです」
大津涼平は、それから淡々と、岩城至誠を黒幕Xと考える理由を説明した。
本郷裕子の話によると、岩城至誠が彼女にプロポーズをしたのは二十七年前。小川悟志と岡本奈津が、中国で姿を消したのと同じ年である。そして、一年後の結婚を契機に、本郷重富から資金を出してもらって岩城総合病院を設立し、その院長に就任している。
朽木啓介と大津涼平が、最も違和感を覚えるのはこの部分である。
本郷重富は、この時、まだ本郷裕子を本郷不動産の後継者に指名しておらず、本郷裕子には特に地位も資金も与えていない。にもかかわらず、なぜ岩城至誠には病院設立の資金を出したのか……? 本郷重富に小川悟志を引き合わせ、良い関係を築けたことへの謝礼の意味があったのではないかと考えると、しっくりとくる。
一方、病院の院長にまんまと就任した岩城至誠ではあるが、彼には大きな不安がある、資金の提供を受けたとはいえ、その病院の経営権は本郷重富にあり、今はそれを本郷裕子が引き継いで、彼女が病院の理事長となっている。もし本物の小川悟志が顔を出すようなことがあれば、彼は全てを失ってしまうのである。
岩城至誠には、小川悟志とその息子を殺害する十分な動機がある。これが、朽木啓介と大津涼平が黒幕Xは岩城至誠と考える理由である。ただし、ほぼ有馬慎吾の受け売りではあるが……。
「大津君。君の言う通り、岩城至誠には動機がある。しかし……」
相馬達弘が、大津涼平にある疑問を投げてきた。本郷裕子は、岩城至誠は小川悟志とは会ったことがないのではないかと言う。恐らく岡本奈津の顔も知らないだろう。何より、君原流星が小川悟志の子供だと、どうしてわかったのか? 小川悟志、岡本奈津、そして君原夫妻と岩城至誠との繋がりが、いまいち見えないのである。
朽木啓介が立ち上がった。
「立花警部。岩城至誠が岩城総合病院を設立する前に勤めていた病院の名前は?」
立花清美も立ち上がり、勢いよく答えた。
「それは北品川総合クリニック……」
「早川真理子が、ホテルペルージュに移る前に勤めていたのは?」
「それも、北品川総合クリニック……」
「小川悟志と岡本奈津が、中国で失踪する前に住んでいた場所は?」
「それは……、東京の北品川の賃貸マンション……」
「君原夫妻が、松本に移る前に住んでいた場所は?」
「二人が住んでいたのは港区の高輪ですが、北品川総合クリニックのすぐ近くです」
捜査会議の雰囲気が、一変した。岩城至誠は、小川悟志や岡本奈津、そして君原夫妻と面識があった可能性が出て来たのである。
「管理官。本郷裕子は岩城至誠に監禁されている可能性がある。至急、岩城至誠に張り付いて、本郷裕子を探し出すことに全力を尽くすよう指示を出してもらいたい。それと有馬慎吾の身辺警護の指示もお願いしたい」
相馬達弘は、「わかった」と大きな声で言った。
「それと、先ほどの立花警部が報告した内容は、岐阜県警の権藤刑事から入手したものです。権藤刑事は、現在、小川悟志と岡本奈津、それと君原夫妻の通院履歴を調べてくれていますが、それに長野県警からも応援を出してもらいたい」
相馬達弘は、それにも「そうか。わかった」と大きな声で答えた。
結局、その日の捜査会議は、大至急、有馬慎吾の身辺警護の体制を敷くことと、本郷裕子の捜索を行うこと、岩城至誠と小川悟志と岡本奈津、君原夫妻との繋がりを調べること、それと岩城至誠と桂浩太郎の今後の行動を監視すること、で決着が付いた。




