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流れ星の見える夜  作者: 長栄堂
第一章 雪のペルージュ
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暗いバーの片隅で

 七月二十五日の午後、有馬慎吾はホテルペルージュの前に立った。権藤一郎の話を聞いて無性に自分でも動いてみたくなり、名神高速道路と中央自動車道を車で飛ばして、ここまでやって来たのだ。

 周囲を山で囲まれた深い緑の中に、東西に延びた白亜の二階建ての建物が見える。ホテルペルージュの本館であり、この建物の向こうには、宿泊客用のコテージが点在した山林が広がっているはずである。有馬慎吾のいる本館北側の駐車場から本館西側に向かって車道が走っているが、本館横にゲートが設置されており、一般車両は立ち入り禁止となっている。有馬慎吾は車を駐車場に停め、正面玄関から本館に入った。

 内部は白と明るいブラウンで統一され、清潔感に溢れている。フロントに行くと、髪の毛を後ろにまとめ、淡いグリーンのスーツを着た女性がにこっと笑って出迎えてくれた。

「チェックインですか?」という透き通った声が聞こえてくる。

「電話で予約した有馬慎吾だが……」

 有馬慎吾が答えると、その受付の女性は、「お待ちしておりました」と言って宿泊カードを渡し、その記入が終わると、鍵とホテルの地図を渡してくれた。胸に『高坂』と書かれたネームプレートが見える。有馬慎吾には、彼女が高坂早苗だとすぐにわかった。

 鍵には『十八』という数字が浮彫りにされた銀白色のタブが付いている。リングで鍵と繋がっており、ずっしりとした重みが伝わってくる。どうやらタブも鍵も白銅製のようである。

「十八号コテージをご用意しております。あいにく今日は満室で、申し訳ありませんが、奥の方のコテージしかございません」

 有馬慎吾が地図を見ると、彼女が申し訳ないと言う意味がすぐにわかった。十八号コテージは敷地の南端に位置し、この本館からはかなり距離がある。コテージまでの道は入り組んでおり、歩くと十分以上は掛かりそうだ。

「本館に近いところから埋まっていきますので、あいにくそのお部屋しかご用意出来なくて……。よろしければ、コテージ区域内を移動出来る電動カートをお貸しすることも出来ますが……」

 高坂早苗は地図を見ながら、敷地内の移動について丁寧な説明を始めた。

 ホテルペルージュは、松本市から車で約四十分、秋里市の市街地の先にある山間のなだらかな丘陵地を造成して作られた貸別荘スタイルのリゾートホテルである。

 敷地の北側にレストランやラウンジ、フィットネスジムを備えた本館があり、その南側には、三十八棟のログハウスが設置された『コテージの森』と呼ばれる山林がある。その幅は約四百メートル、奥行きは約九百メートルで、周囲はフェンスで仕切られている。

 コテージの森には、車が通ることが出来る外周道路がフェンスの内側に走っているが、外から乗り入れが出来るのは業務用の車両だけである。宿泊客は全て本館前の駐車場に車を停め、本館を通ってコテージの森に入らなければならない。

 コテージの森の中の小径は、ホテルが借し出す電動カートでの移動が可能である。このカートは外周道路も走れるが、外周道路から分かれて外に出ようとすると、本館西側に設けられたゲートで行き止まりとなり、それ以上先には進めない。

 歩行者も外周道路を歩いても構わないが、外に出る道は、やはり途中のゲートで行く手を阻まれる。フェンスで囲まれたコテージの森から外に出るには、あくまでも本館の中を通り抜ける必要があるのである。

 有馬慎吾は説明を聞いた後、少し考えて電動カートをレンタルしたいと申し出ると、高坂早苗は「かしこまりました」と言って、そのキーも渡してくれた。

「高坂早苗さんですね」

 有馬慎吾は思い切って聞いてみた。高坂早苗は「はい」と返事したが、それまでの笑顔が一瞬で消え失せ、明らかに警戒の色を見せている。

「早川真理子さんのことで聞きたいことがあるんだけど、少し時間を頂けませんか?」

 高坂早苗は困惑した表情を見せ、「マスコミの方ですか?」と聞いてきた。

 有馬慎吾は、大和新報という京都の小さな新聞社に勤めており、マスコミ関係者かと問われれば、確かにそうである。しかし今回の訪問は、完全に個人的なものであることを高坂早苗に伝え、彼女にスマホに取り込んだ写真を見せた。有馬慎吾が河原で発見された時に、ポケットに入っていた写真である。

「今日は仕事ではなく、プライベートな問題でここに来たんだ。俺はこの写真の人物を探している。何でもいい、この三人のことで知っていることがあれば教えて欲しい」

 高坂早苗は驚いた表情で、スマホに映し出された人物をじっと見た。

「あなたはこの少年?」

 高坂早苗は、その写真の少年が有馬慎吾だとすぐに気付いたようだ。

「少しで良い。仕事が終わってから時間をもらえないだろうか?」

 改めて高坂早苗に詰め寄ると、彼女はあきらめたのか、黙ってメモ用紙を手渡してきた。メモには『午後四時 秋里市本町二丁目 バー・モレロ』と書かれている。

 ここで会おうと言うことか……。有馬慎吾はそのメモを受け取り、「ありがとう」と言ってその場を立ち去った。


 正面玄関とは反対側の南の壁に、『コテージの森』と書かれた自動ドアがある。それを通ってコテージの森に入ると、そこには広大な山林が広がっていた。従業員が電動カートをいつでも動かせるように準備してくれている。有馬慎吾はカートにキーを差し、京都から持ってきた黒いリュックを積み込んで、十八号コテージ目指して走り出した。

 木々がうっそうと茂り、まるで枝葉で作られたトンネルの中を走るようである。降り注ぐ陽射しがところどころに木漏れ日となって道を照らし、心地よい風が頬を撫でてくる。

 道は曲がりくねっており、分岐点には矢印の形をした標識が設置されている。その標識には、初めのうちは多くのコテージ番号が記載されていたが、進むに従って数が減り、そのうち標識に記載された番号は、十六、十八と二十、十四の四つだけとなった。

 やがて十六号コテージも過ぎ、その先にある分岐点を右方向に進むと外周道路にぶつかった。十八号コテージは、これを渡ってすぐのところにある。有馬慎吾は注意して外周道路を渡り、道に迷うことなく目的地に着いた。

 十八号コテージは、寝室が一つだけの二人用コテージである。玄関の錠を開けて中に入ると、ソファとテーブルが置かれたリビングがあり、裏側には勝手口が付いている。有馬慎吾はソファにもたれて、少し休むことにした。


 有馬慎吾が午後四時ちょうどにバー・モレロに行くと、薄暗い店にマスターがポツンと一人立っていた。雑居ビルの地下一階にあるカウンター五席だけの小さな店だ。客は誰もいない。マスターは有馬慎吾を見て、黙って座れと言う仕草をした。有馬慎吾と同じ年頃の不愛想な男である。

「バーボンの水割りをもらえるか?」

 マスターは黙って頷き、準備を始めた。バーにしては開店が早い。昼間は喫茶でもやっているのだろうかと思ったが、聞くのはやめた。

 やがて高坂早苗がやって来た。化粧を直し、仕事中は後ろにまとめていた髪を今は肩まで下ろしている。ホテルで見た時とはずいぶんと印象が異なり、なぜか顔色が暗い。

「まだ警察の取調べが続いているのか?」

 それが暗い顔の原因かと思って有馬慎吾が尋ねたが、意外にも高坂早苗は首を横に振って、自分の容疑は晴れたと言う。

「新しい防犯カメラの映像が見つかったんだって……。だから、今日からまた受付係に戻れたのよ」

 その防犯カメラとは、セントレジデンスの向かいにある七階建ての雑居ビルの中に設置されたものである。七階に入居するテナントから撮られた防犯カメラの映像の中に、セント・レジデンス七〇一号室の避難ばしごが映っているものがあり、犯行のあった夜、避難ばしごを使って八〇一号室に昇り降りする者など誰もいなかったことが、証明されたようだ。これで警察は、完全にお手上げ状態になったと高坂早苗は言う。

「早川さんは、仕事にしか興味のない人だったけど……、でも誰かに恨まれているようには見えなかった。彼女は松本市の生まれでね、高校を出てすぐに別の会社に就職したんだけど、十八年前、二十九歳の時にホテルペルージュに転職したんだって……」

 特に趣味はなく、貯め込んだ金を株式や外貨預金に回して少しずつ増やすのが、唯一の楽しみだったようだ。

「社長も早川さんにはずいぶんと期待されていたようだったけど……」

「社長?」

「ホテルペルージュを傘下に持つH&Yエステートという会社の社長で、本郷裕子さんっていう人。長野県にリゾートホテルとマンションを何件も持つ資産家でね、セントレジデンスも彼女がオーナーなんだよ」

 その本郷裕子は、早川真理子をずいぶんと気に入っていたようだ。


「ところで有馬さん。確か、写真のことで私に聞きたいことがあるって、言ってたよね」

 高坂早苗が本題に触れてきた。

「そうなんだ。俺は、君に見せたあの写真に写っている三人を探しているんだ。早川真理子の部屋に同じ写真が置いてあったって聞いたんだけど、なぜ彼女が同じ写真を持っていたのか、それを知りたいんだ。何か知らないか?」

 高坂早苗は少し考える仕草を見せ、「そう……、あの写真ねぇ……」と言いながら、意外な答えを返してきた。

「あれは、早川さんのじゃないと思うよ。私は何度も早川さんの部屋に行ってるけど、あんな写真、見たことないし、前の日に食事をした時も、写真はなかった」

「写真はなかった……? それは、確かなのか?」

「早川さんの遺体を見つけた時、あの写真がチラッと目に入っておかしいなと思った。前の日にはそんな写真はなかったし……。それに、普通、写真を飾るんなら、写真立てに入れると思わない?」

 有馬慎吾は驚いた。それが本当なら、犯人が写真を置いて行ったことになる。しかし……、なぜ、わざわざ殺害現場に有馬慎吾の写真を残して行ったのだろう? 有馬慎吾がつらつら考えていると……。

「ねえ、有馬さん。さっき、おかしなことを言わなかった?」

 高坂早苗が、チラッと有馬慎吾を見る。

「おかしなこと? 俺がなんか言ったか?」

「あの写真の中の一人は有馬さんでしょう。あなたは自分を探しているの?」

 なるほど……。有馬慎吾は自分の迂闊さに思わず笑ってしまった。彼が記憶を失くしていることを知らない高坂早苗にとって、それは当然のように出てくる疑問である。

 有馬慎吾は、しばらく迷った末、自分は十五年前、木曽川支流の河原で倒れていた少年であることを告げることにした。気が付いた時には全ての記憶を失くしていたこと、すぐ隣りで亡くなっていた女性とは母子の関係にあること、自分を知る唯一の手掛かりはポケットに入っていた一枚の写真だけであること……等々、時間を掛けて丁寧に説明した。

「そう……。その時の少年が有馬さん……」

 話を聞き終えた高坂早苗は、驚いた様子を見せ、そして、しきりと何かを考え出した。彫りの深い顔が薄暗い店の灯りに照らされ、店に入って来た時よりも一段と険しい表情になっているように見える。しばらく沈黙が続いた後……。

「多分……、有馬さんが探しているものは、私が知りたいことと、同じなんじゃないかな?」

 高坂早苗は、まるで独り言を言うように、小さな声でぼそぼそとつぶやいた。

「君の知りたいことと俺が探しているものが同じ……? それはどういう意味だ?」

 有馬慎吾が問い掛けるが、高坂早苗はそれには答えず、やはり前を向いてじっと考えている。どうも、有馬慎吾について何かを知っているようである。やがて……。

「有馬さん。私、ある事件のことを調べていてね……」

「ある事件? どんな事件なんだ?」

「十五年前の誘拐事件……。身代金の受け渡しがホテルペルージュで行われて、その後、保前正樹という男が被疑者死亡のまま送検されたっていう事件なんだけど……。私は、早川さんの事件は、この事件が関係しているように思えてならないんだ」

「十五年前の誘拐事件が……?」

「そう。その事件には、有馬さんも登場するよ」

 有馬慎吾は「えっ」という声を出して、高坂早苗を見た。

「それが不思議な事件でね。保前正樹が犯人ではないってことだけは、はっきりしてるんだけど、どう考えても、彼にしか犯行は不可能なようにしか見えないんだ。だから、警察も彼を被疑者死亡のまま送検したんだけど……」

 有馬慎吾は、どうにもこうにも、彼女の話についてゆけない。その事件について、もっと詳しい話を教えてくれと高坂早苗に頼むと、「説明するのは別に構わないんだけど……、その代わり、有馬さん、その事件について、あることを調べてもらえないかな?」と、逆に、有馬慎吾に何かを調べて欲しいと言ってきた。

「俺に真犯人を見つけろって言うのか?」

「そうじゃない。それは警察が動かないと難しいし、危ないからね。有馬さんには、その保前正樹っていう人物でなくても犯行が可能だってことを見つけて欲しいの。真犯人が見つからなくてもいい。事件の真相がわからなくてもいい。とにかく、その男でなくても犯行が可能だってことがわかれば、それで十分。どう? やってもらえない?」

 高坂早苗はさらに、「その事件の真相がわかると、有馬さんが探しているものも、きっと見つかると思うよ」と、畳み掛けるように言ってきた。

 有馬慎吾の腹はすぐに固まった。結局、彼女の口から早川真理子の部屋に写真が残されていた理由は聞き出せなかったが、その事件には自分も登場する、その事件の真相がわかると自分が探しているものも見つかるかも知れない、とまで言われたら、有馬慎吾に彼女の頼みを断るという選択肢はない。

「わかった。必ず調べよう」と返事をすると、そこで初めて、高坂早苗はそれまでのこわばった顔を緩め、嬉しそうな笑みを有馬慎吾に返してきた。

「良かった。私たちだけでは、どうしようもなくて……。とにかく引き受けてもらえるんなら、今から順を追って事件のことを話すから、メモを取ってもらえる? 少し話が長くなると思うから……」

 高坂早苗は、マスターの顔をチラッと見ながらそう言って、彼女が不思議な事件だと言う、その十五年前の出来事について、ゆっくりと語り出した。


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