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流れ星の見える夜  作者: 長栄堂
第一章 雪のペルージュ
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記憶を失くした少年

 それから三日が経った七月二十一日の午後、有馬慎吾が住むアパートに、岐阜県警・恵那中央署の権藤一郎が大きな体を揺すりながらやって来た。昨夜、権藤一郎から有馬慎吾に電話があり、話したいことがあると言うので、今から部屋で会うことになったのだ。

「慎吾、悪いな。休みの日に押し掛けて……」

 有馬慎吾が玄関のドアを開けると、権藤一郎が大きな体を揺すりながら、どかどかと部屋の中に入ってきた。全身汗だくだ。

「親父、走って来たのか?」

「走ってはいないが急いでやって来た。ちょっとおまえに急ぎの話があるんだ」

 権藤一郎は笑いながらソファに座り込み、勝手に扇風機のスイッチを入れている。エアコンだけでは物足りないようである。

 有馬慎吾が京都で一人住まいをする三階建てのアパートは、北野天満宮のすぐ近くにある。権藤一郎は岐阜県恵那市を午前中に発ち、JR円町駅から歩いてアパートまでやって来たらしい。徒歩でおよそ十五分の距離である。

「電話をくれたら、車で迎えに行ったのに……」

 有馬慎吾は、権藤一郎のためにエアコンの設定温度を下げてやった。

「親父、仕事中か?」

 扇風機に向かって体を冷やしている権藤一郎に、キッチンから有馬慎吾が声を掛けた。

「いや、今日は休暇を取ってきた。おまえと久し振りに晩飯でも食いたいと思ってなあ」

 嬉しそうに言う権藤一郎に、有馬慎吾は冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出して、渡してやった。

 親兄弟のいない有馬慎吾にとって、権藤一郎は父親同然の存在である。彼は用事もないのに、岐阜県の恵那市から有馬慎吾をよく訪ねて来る。たいがいは他愛もない世間話をして帰るが、今日は何か特別な用事があるようだ。

「ところで慎吾、この女性に見覚えはないか?」

 汗も引き、少し落ち着いたところで、権藤一郎が鞄の中から一枚の写真を取り出して、有馬慎吾に見せた。

「女性?」

 有馬慎吾は写真を受け取り、しばらく眺めていたが、やがて首を横に振って写真を返した。有馬慎吾の知らない女性である。

「この女性は早川真理子と言って、三日前、長野県秋里市のマンションで刺殺体で発見された殺人事件の被害者だ」

 有馬慎吾もその事件ならある程度のことは知っている。確か、第一発見者の二十五歳の女性が、重要参考人として取り調べを受けていると聞いた。しかし、早川真理子という被害者の顔を見るのは、初めてであった。

「そうか、知らないか。いや、ちょっと気になることがあってなあ。早川真理子が殺された部屋に、おまえが持っているあの写真が立て掛けられていたと言うんだ」

「写真?」

「ああ、リビングの出窓に立て掛けられていたらしい」

 何気なく話を聞いていた有馬慎吾の顔色が変わった。急いで机の上に飾っている一枚の古びた写真を手に取って、権藤一郎に見せた。

「これか?」

 そこには十歳くらいの男の子とその両親らしき男女が写っている。画像は色あせているが、三人とも嬉しそうに微笑んでおり、いかにも幸せそうな家族の一コマである。

「そうだ。そして、これが早川真理子の部屋にあった写真だ」

 権藤一郎は長野県警から預かった写真を見せた。写っている人物も背景も同じである。

 写真の中の少年は、間違いなく有馬慎吾である。しかし、彼はその少年の名前を知らない。少年の隣に立っている女性は、有馬慎吾の母親であり、もう一人の男性は、父親と思われる人物である。しかし有馬慎吾は、二人の名前も住んでいた場所も知らない。

 有馬慎吾はもう一度、早川真理子の写真を手に取ってしげしげと眺めた。やはり見たことのない顔である。


 有馬慎吾には、少年期のある時期までの記憶がない。気が付いた時は病院のベッドの上だった。十五年前の一月八日の早朝、岐阜県を流れる木曽川支流の河原で倒れているところを、たまたま通り掛かった近くの住人に発見されたのだ。

「この子は運の強い子だ」

 治療に当たった医師は、そう言った。

 真冬の雪深い山中の河原である。見つけられた時には全身を骨折し、体温は限界まで下がっていた。顔にも大きな外傷と凍傷を負っていたが、発見が早かったため、何とか命を取り留めることが出来たと、その医師は言った。

 有馬慎吾の横には、もう一人、四十歳前後の女性が倒れていた。発見された時には、すでに死亡していたそうだ。後頭部の損傷が激しく、崖から転落して頭を撃ちつけたことによる死亡と推定されたが、その後の検死で、女性の首には索状痕があることがわかった。死因は窒息死である。有馬慎吾の首も詳しく調べたところ、やはりロープ状のもので絞められた痕跡が見られた。

 岐阜県警は、誰かが有馬慎吾とその女性の首を絞め、崖から河原に投棄したものとして捜査を進めたが、未だに犯人の目星はついていない。倒れていた二人の身元すらまだわかっていない。倒れていた少年は、二週間ほど生死の境をさまよった後、なんとか意識を回復したが、それまでの記憶を全て失くしていたのだ。

 その少年は、小学五年生レベルの知識を持ち合わせていることはわかった。しかし、自分の名前や住所、通っていた学校など身元に繋がる情報は、全て忘れ去っていた。

 少年はその後、岐阜市の児童養護施設に引き取られ、新たに有馬慎吾という名前と戸籍を与えられた。誕生日は河原で発見された一月八日、年齢は十一歳とされ、地元の小学校に四月より六年生として編入した。その少年が現在の有馬慎吾であり、その時、捜査に当たったのが岐阜県警・恵那中央署刑事の権藤一郎である。

「慎吾、悪いな。まだ犯人を見つけてやれなくて……」

 権藤一郎は会うたびに有馬慎吾に申し訳ないと言い、十五年経った今も一人で捜査を続けてくれている。

 河原で倒れていた少年とその横で亡くなっていた女性は誰なのか? 誰が犯人なのか? 唯一の手掛かりは、発見された少年の上着のポケットに入っていた一枚の写真だけである。それが、有馬慎吾が権藤一郎に見せた写真であり、早川真理子の殺害現場に置かれていたという写真である。

 その写真の女性は、有馬慎吾の横で倒れていた女性であり、彼女はDNA鑑定の結果、有馬慎吾の母親であることが証明された。恐らく写真の男性は、有馬慎吾の父親であろう。しかし有馬慎吾には、それが誰なのか、わからない。この十五年、ずっと三人の身元を探し続けているが、未だに自分が誰なのかすら、わからないのである。

「長野県警に朽木啓介という刑事がいて、その写真を見て、十五年前のおまえの事件を思い出したんだ。県警のデータベースと照合したら、確かにおまえが持っていた写真と一致したと言っていた。それで岐阜県警に問い合わせをしてきたんだが……」

 自分を知る唯一の手掛かりとなる写真と同じものを、殺された早川真理子という女性が持っていた……。しかも写真は二枚ともデジカメではなく、三十五ミリフィルムから焼き付けたものだと権藤一郎は言う。有馬慎吾には、何か大切なことをその事件が語り掛けてくれているように思えた。

「親父。事件のこと、もっと詳しく教えてくれないか?」

「まだ犯行の動機も事件の背景もよくわかっていない。とにかく重要参考人の第一発見者が犯行を否認しているんだ。凶器も見つからないし……、長野県警も弱り果てている」

 権藤一郎は手帳を取り出し、朽木啓介から聞いた犯行現場の状況と、現在の捜査状況を有馬慎吾に聞かせることにした。


 犯行現場は完全に密室で、唯一犯行時間にその部屋に出入り出来たのは、第一発見者の高坂早苗だけである。しかし高坂早苗の部屋や、彼女が立ちまわった周辺をいくら捜索しても、どこからも凶器が見つからない。

「犯人は大量の返り血を浴びているはずなんだが、その衣服も見つからない。共犯者がいて、高坂早苗が窓から凶器と血痕の付いた衣類を投げ、それを回収させたと長野県警は考えたが、これも違っていた」

 長野県警が犯行のあったマンション・セントレジデンス近くの防犯カメラを取り寄せて調べたところ、一つだけセントレジデンスの南壁と西壁の全貌を映し出しているものがあった。セントレジデンスから少し西寄りのコンビニの防犯カメラである。

 それによると、犯行のあった七月十七日の深夜から十八日の朝にかけて、高坂早苗の住む七〇一号室から、誰かが物を投げ下ろす姿は映し出されていない。

 もっともその防犯カメラは七階と八階の壁面を写しているだけで、ベランダの中は死角となっており、高坂早苗の無実を証明する映像も撮れてはいないが、決め手となる凶器が見つからないのでは、長野県警としても如何ともしがたいようである。

 有馬慎吾は天井を見上げて、聞いたばかりのマンション・セントレジデンスの見取り図を頭の中に描いた。犯行現場となった八〇一号室は、玄関を除いて施錠されており、玄関から出入りすると、エレベーターホールの防犯カメラに映し出されてしまう。唯一、防犯カメラに写されずに犯行現場に出入りすることが出来るのは、一階下の七〇一号室に住む第一発見者の高坂早苗だけ。しかし、彼女の周辺から凶器は見つからない。

「難しい事件だな」

 有馬慎吾の率直な感想である。

「高坂早苗は犯人ではないかも知れないと朽木さんは言っていた。いずれにしろ、早川真理子のことをもっと知らないと、何もわからんからなあ」

 権藤一郎は明日にでも長野に行って、早川真理子がなぜ写真を持っていたのか、徹底的に聞き込みを始めると言った。 



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